薬房を訪れた子ども
古びた店舗や住宅が立ち並ぶ下町の裏通りを、小さな子ども達が元気よく駆けていった。
三月とはいえ、春はまだ浅い。
路地を吹き抜ける風は花の香りを纏いつつもまだひんやりとしていて、柳行李を背負って歩いていた行商人が道の端で寒そうに外套の前を掻き合わせた。
そんな下町通りをやや南に下った辺りで小さな薬房を営む店主の覇耶は、帳簿を捲っていた手を止めて一つ大きく伸びをした。
時刻はちょうど正午に差し掛かろうというところだ。ちょうど客足が途絶える時間帯で、先ほど商家の手代が薬を買いに来てからは店を訪れる客の一人とていなかった。
覇耶がこの薬房を前の主から買い取って数年が経つ。
こじんまりとした古めかしい店舗は若夫婦二人が切り盛りするのがやっとという広さで、店の中は雑多な薬草の匂いに包まれていた。
亭主の覇耶は人の記憶に残りにくい顔立ちをしているとよく言われる。
顔は細面で鼻は高すぎず低すぎず、太い眉とくっきりとした二重の目を持っていた。よくよく見れば美男の部類に入るのだが、それだけにおさまらないやんちゃさが体全体から溢れていて、それがちょうどいい具合に面立ちから精悍さを消し去っていた。
でもまあ、妻にぞっこんである覇耶は、他の人間からどう思われようと余り関心がない。それに必要以上に目立つ事も本意でなかったから、平凡な顔立ちをしている事をむしろ喜んでいた。
覇耶は片手でとんとんと肩を叩きながら、点検の済んだ帳簿を無造作に用箪笥の引き出しにしまった。
注文を受けていた薬の調合を今のうちに済ませておこうかとも思ったが、別段急ぎ仕事でもない。店を閉じてからゆっくりやった方が落ち着くだろう。
小ぶりな店舗の壁一面に取り付けられた棚には、様々な薬缶が所狭しと並べられていた。ここにあるものは比較的安価な生薬で、鬱金や桜皮、甘草などといった植物由来のものがほとんどだ。
値の張る生薬は錠前のかかった用箪笥の引き出しに丁寧にしまわれていて、ニ重底になったその引き出しの更に奥には、貴重な竜鱗が隠されていた。
覇耶は客の出入りがない事を確かめてから、引き出しの二重底から慎重にその竜鱗を取り出した。
竜鱗はピンキリと言われているが、引き出しの奥に厳重に隠されているそれは最高級の鱗だ。竜の首の後ろに一枚だけ逆さ向きに生えてくる、いわゆる逆さ鱗で、余剰な魔力が凝ったそれは人間にとっての万能薬になると言われていた。
久しぶりに引き出しから出した鱗をそっと指で弄んでいたら、妻のシラルが覇耶の傍にやって来た。
「竜脈活血湯を調合するの? そう言えば、残りがもう僅かになっていたわね」
「ああ。他の鱗と混ぜて効果が薄まるようにしておかないとな。効き過ぎて人の噂にでもなったら困る」
逆さ鱗だけで調合した竜脈活血湯は死にかけた病人まで元気にしてしまうのだ。
そんなものをほいほいと売っていたら、金を稼ぐどころか狩られる側になりかねない。
「以前は竜脈活血湯が若返りに効くと信じていた人間もいたが、今はどうなんだろうな。定期的に買っていく大店のおかみがいるくらいだから、案外とまだ信じられているのかね」
肩を竦める覇耶に、シラルは笑った。
「気は心というし、意外と効果があるのかもしれないわ。
それより、竜の肉や内臓を食べれば年を取らないと信じている人間がまだいるというのは気になるわ。迷惑な話よね。そんなものを食べたって、若返りはしないのに」
「まったくだ」
わざわざ人間どもに教えてやろうとは思わないが、実のところ、不老に効くのは生きた竜の体液である。
交合が最も効果的だったが、口づけでもある程度の効果があった。
だから、覇耶の最愛の妻であるシラルは、十九の時から成長の速度を遅くした。
求愛してから百数十年の時が流れたが、交合によって若さを保つシラルは、今もせいぜい二十代半ばにしか見えない。目はぱっちりとして、鼻筋がすっと通り、目鼻立ちのバランスが非常にいい。何より笑った時にできる両頬のえくぼが大層愛らしかった。
「ここでの生活ももう七年か」
竜鱗を二重底の引き出しに戻しながら、ふと思い出したように覇耶が呟いた。
竜とその番はゆっくりと年を刻むため、彼らは人間達に怪しまれぬよう、十年単位で居住場所を変える必要がある。当然、人間達との関りは薄くなるが、こうした番達が孤独を感じぬよう、隠れ処と呼ばれる世俗を離れた地がいくつかの国に点在していた。
人界で暮らす事に疲れた番達はそこで十数年を過ごし、また人の世界へと戻っていく。中には人里に滅多に下りず、隠れ処を転々とする番達もいると聞いた事があった。
「七年……? もうそんなになるかしら。じゃあそろそろ、店を畳む事を考えないといけないわね」
「寂しいか?」
そう覇耶が尋ねると、「少しだけ」とシラルは笑った。
「隠れ処の生活は気ままだけれど、その分刺激に乏しいもの。それに人界で暮らすと、貴方が労働する姿が見られるでしょう。新鮮でどきどきするの」
「そうなのか?」
それを聞いた覇耶は俄然、気を良くした。
「ならば後、一、二年はここで暮らすかな」
非常に単純な思考だが、番持ちの竜は大体こんな感じだ。自分を支配する眞名を許してやった誓約者に一途に溺れ込み、せっせと愛情を示してやる。
ついでに言えば、番から愛情を示されるのも大好きだった。今もご褒美を待つようにじぃっとシラルを見つめるので、シラルは仕方なく覇耶の頬に啄むような口づけを送ってやった。
からん、と戸口の鈴が鳴ったのはその時だった。
押戸が押し開けられて、誰かが店内に入ってくる。
入ってきたのは十に年齢がいかない小さな女の子だった。艶のない金髪をしていて、手足は棒のようにやせ細っている。
こういう子どもが一人で薬房に来るのは珍しいから、二人は思わず顔を見合わせた。
「おや、お嬢ちゃん。家のお使いかな」
着古された服や踵の擦り切れた布靴を見れば、かなり貧しい家の子どもだと知れた。安い山草でも買い求めに来たのかと思いながら、覇耶はなるべく優しげに声を掛けた。
子どもは覇耶の顔を真っ直ぐに見つめ、それから確かめるように隣のシラルを見た。
「何かに噛まれたみたいなの。効くお薬はある?」
妙な事を言ってくる子どもだなと覇耶は思った。こんな貧しい身なりの子どもが、たかが虫に刺されただけで薬屋を訪れるなどあり得ない。
「噛み傷を見ないと何とも言えないが、どんな傷か見せてくれるかな?」
そう声を掛けると、子どもは「うん」と頷いて肩まで伸ばしていた金髪を手で避けた。そして右側の首筋を覇耶に見せてきた。
「これ」
それを見た覇耶はその場に凍り付いた。
見間違えよう筈がない。これは同胞の『噛み』だった。シラルの首筋にも同様の噛み痕が残っている。
「君、いくつ?」
思わずそう聞いてしまったのは、目の前にいる少女が竜に求愛されるような年齢の人間ではなく、明らかな子どもであったからだ。
その瞬間、子どもの瞳に何かの感情が横切った気がした。
「十よ」
「……だよなあ」
隣にいたシラルも絶句している。こんな子どもに信じられないという表情で、首筋の噛み痕を凝視していた。
「何に噛まれたか覚えている?」
一応覇耶がそう聞いてみると、子どもは何と答えるべきか迷うように瞳を揺らした。
「ええっと、形だけならイモリ……とか?」
その途端、シラルがくっと息を詰めて薬棚の方に不自然に顔を向けた。
明らかに笑いを堪えており、それを夫に知られまいと必死に平静を装っている。
イモリ……だとぉ?
竜としての覇耶のプライドはずたずただった。竜は美しく優美かつ強靭な生き物で、人間なんかよりもはるかに優れた存在なのだとこの子どもに切々と説いてやりたい。
と、ようやく笑いの発作を抑え込んだらしいシラルが、子どもの方に向き直った。
そして覇耶が疑問に思うような問いを口にした。
「貴女の名前は何と言うの?」
「ヴィレ」
シラルは子どもの髪色を確かめ、それから年齢を探るように全身を眺めてから小さく頷いた。
「一か月後にもう一度ここに来る事ができるかしら。もしかしたら、そのお薬が手に入っているかもしれないわ」
子どもは縋るような目でシラルを見た。
「一か月後、だね。わかった。何とか抜け出してみる」
抜け出す?
その言葉の意味を理解する前に、子どもは身を翻してさっさと戸口から出ていってしまった。
扉の閉まる音が響き、覇耶は夢から覚めたように妻の顔を見た。
「一か月後に手に入るって、何の事だ?」
シラルは、私にも事情はよく分からないのだけれども……と言葉を続けた。
「先週、ここに寄ってくれた同胞が、カルスの隠れ処の長が小さな女の子を探しているって言っていたの。金髪をした十歳の子どもで、名前はヴィレ。
ヴィレは春の女神の名前だから、ヴィレなんて名前の子はそこら中に掃いて捨てるほどいるでしょう。そんな漠然とした情報で誰を探しているのかしらとその時は笑ったものだけれど、あの子が噛み痕を見せてくれた後、ふと思い出したの。
もし竜の刻印を持った子どもを探しているなら、辻褄が合うのかなと思って」
「カルスの長と言えば凛主だろ? あの竜には桜姫という純血種の番がいた筈だ。奴が人間を噛む筈がない」
「ええ。凛主の番でない事は確かだわ。
おそらく凛主は同胞のために情報を集めているんじゃないかしら。そして、刻印を持った子どもを誰かが探しているのだとしたら、それは噛んだ竜しかいないと思う」
「……まだ十の子どもだぞ」
「そうなのよね……」
シラルはちょっと嫌そうに顔を顰めた。
「取りあえず伝えてあげたいとは思うけど、どんな竜が探しに来るのか恐い気もするわ。まさかあんな子どもに本気で求愛する竜がいるとは思えないし」
「だよなあ」
あの子どもからは女の匂いもしなかった。棒切れのような手足をして、年齢よりも更に幼く見えるような子どもだった。
あんな子どもにまともな雄竜が欲情するなんて考えられない。
鱗でも剥げてよっぽど雌にモテない雄か、あるいは成熟した雌竜に女の魅力を感じられないという特殊の性癖を持った竜でもいるのだろうか。
そこまで考えて、覇耶は慌てて首を振った。
駄目だ。考えていたら気が滅入ってきた。
「あの子も竜を探しているのよね」
思わぬ妻の言葉に、覇耶は「え」と顔を上げた。
「探してる?」
「人間界に住む竜が薬房を営む事が多いという知識を持っていて、わざわざあの刻印を見せている訳でしょう? あの噛み痕を見せたら、竜が気付くと知っているのよ。
それに、何とか抜け出すと言っていたわ。無理やり引き離されて、自由が利かない状態に置かれているのだと思う」
「……」
覇耶は黙り込んだ。
何故、竜と誓約者が引き離されてしまったのか理由はわからないが、シラルの言う通りであるのなら、一刻も早くカルスの里に一報を入れてやるべきだろう。
幸い、新月は三日後だ。
闇に紛れて隠れ処まで飛んで来ようと覇耶は決意した。




