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番は覚悟を決める


「あの子どもをリヨンの森に捨てて来い」


 凛主の部屋に呼び出され、いきなりそう命じられた彗主は思わず耳を疑った。



 丸々とした猪を一頭(ほふ)って、つい先ほど意気揚々と隠れ処に帰って来たところだった。

 いつものようにダルトに獲物を渡したところ凛主の帰還を伝えられたため、取り急ぎ凛主のところにやって来たのだ。


 苦言を呈される筈だと覚悟していた。

 自分のやった事は竜界での常識を大きく超えるものだ。年端もいかぬ子どもに気まぐれで『噛み』を行い、面倒をみきれずに隠れ処に連れて来た。

 浅慮な行為を叱責され、番との時間をもう少し持つよう説教されるのだと信じ込んでいたのだが、待っていたのは思いもかけぬ展開だった。


「捨てる?」


 色を失った声で呟く彗主に、「何を驚く」と凛主は小さく笑った。


 その傍らには獅枇がいる。

 彗主が来るまで、二人はずっと何かを話をしていたようだった。


「ここは竜とその番が暮らす里だ。刻印を付けた竜が面倒をみられないと言うならば、あの子どもをここに置いておく訳にはいかないだろう」

 

 血の気が引くのが自分でもわかった。

 ヴィレは凛主の妻の桜姫に大層可愛がられていた。だから凛主がそのような決断を下すなどとは、彗主は夢にも思っていなかったのだ。


「……あの森には狼が住んでいる」


 嫌な汗が背に滲み、喉がからからに乾くのがわかった。

 唇を舌の先で湿らすようにして、彗主は何とか言葉を絞り出した。


 冗談だ……。そう凛主が言ってくれるのを彗主は待った。

 けれど凛主の口から次に放たれたのは、彗主の想像を超える、ある意味冷酷極まりないものだった。


「ちょうどいい。あそこの狼は人を襲う。この隠れ処の秘密を知った人間を狼どもが片付けてくれるだろう」


 傍らの椅子に腰かけていた獅枇が、この段になってようやく口を開いた。


「お前は森に捨ててくるだけでいい。別に自分で手を下す必要はないんだ」


 彗主は無言のまま、凛主から獅枇に視線を移した。

 優しそうな言葉に何故これほどの怒りを感じるのかわからない。

 けれど、獅枇の言葉は不快だった。激しい怒りが脳を焼き、返す言葉さえ失わせた。


「どうした。纏わりつかれて迷惑だったのだろう? これでお前の憂いも消えるというものだ」


 獅枇の言う通りだ。

 痺れたような頭の中で、彗主は必死で自分に言い聞かせた。


 懐いてくるあの子どもが邪魔だった。だが、自分で噛み殺す気にもなれなかった。ならば狼に始末してもらうのが一番いい。


「女達に知られると厄介だ。今日中に森に捨てて来い。女達は恨むだろうが、お前はそのままこの隠れ処を離れればいい。百年か二百年も経てば、皆もいずれ忘れるさ」


 淡々と凛主が言葉を続け、隣にいる獅枇もそれがいいと頷く。


「ずっとこの隠れ処に縛られて窮屈だったんだろ? 久しぶりに火口で遊んできたらどうだ。

 あの子には泣かれるだろうが、仕方ない。元々夜盗に殺されていた命だったんだ。そう思えばどうって事はない」


「……お前の番が知れば怒るんじゃないか」

 彗主は何とか反論を試みたが、獅枇はあっさりと肩を竦めただけだった。


「怒るだろうが、何とか宥めるよ。それで一件落着だ。

 お前が面倒をみてやると言うならともかく、そんな気ははなからないんだし。いつまでもアヴィや桜姫が面倒をみてやれる訳でもないからな」


 そう答えた後、獅枇は「そうだ」と何かを思いついたように彗主の方を見た。


「アヴィが可愛がっていた子だ。ギゼを焚き込めた外套と竜笛は渡してやろう。水と食べ物も要るだろうな。運が良ければ、狼に襲われずに人里に辿り着くかもしれない。そのくらいの慈悲はかけて構わぬだろ?」


「……勝手にしろ」


 彗主は拳を握り締めた。

 苛立ちと怒りばかりが心の中で膨れ上がり、自分でも制御できない。


 自分が何を望んでいるのか、何に腹を立てているのかもわからなかった。

 ただ一刻もこの場から逃げ出したくて、彗主は二人に黙って背を向けた。




「アンジュ、どうしてここに来たの?」


 そこは深い森の中だった。

 日は中天にあるが、高い木々が大きく枝葉を伸ばしていて、周囲はどこか薄暗い。

 日が遮られているせいか、八月というのに空気はどこかひんやりとして、地面に降り積もった枯葉の上に小さな木漏れ日が緩く舞い踊っていた。


 今日、昼食を済ませてしばらくした頃に、彗主が急にやってきた。

「遠翔けに連れて行ってやる」と仏頂面で言い放ち、支度をするようにとヴィレに言ってきた。


 彗主がそう言いに来るであろう事は何となくわかっていた。昼食前、厳しい顔をした獅枇がヴィレの許を訪れ、変な頼みごとをしてきたからだ。


「今日ヴィレはとても怖い思いをするようになるだろう。けれど、何があっても彗主を信じてやってくれないか?」


 一体、何を言われているのかわからなかった。

 けれどヴィレには『その日』がついに来てしまったのだとわかってしまった。


 今までが余りにも幸せ過ぎたのだ。

 華やかな御殿に迎えられて、理由もなく皆から大事にされた。

 毎晩ヴィレと一緒の布団で眠ってくれた桜姫や、午前中いっぱいヴィレのお勉強に付き合ってくれたアヴィ。他の皆もヴィレのために毎食のご飯を作ってくれ、いつも優しい言葉を掛けてくれた。


 大らかで惜しみないその愛情を疑っていた訳では決してない。

 けれど、こんな幸せがずっと続く筈がないとヴィレは心のどこかで気が付いていた。


「ヴィレは何をしたらいいの?」

 真っ直ぐに顔を上げてそう聞いたヴィレに、獅枇は僅かに瞳を揺らした。


「彗主を信じて待っていてくれたらそれでいい。それとこれを……」


 そう言って手渡されたのは、分厚ぶあつめの外套と風呂敷包みだった。

 中を開けると、水の入った竹筒や非常用の乾物と笛が入っている。


「この笛はなあに?」


「竜笛と言うんだ。吹くと竜の鳴き声がする。この声を聞けば、大きな獣は寄ってこない筈だ」


「じゃあ、こっちの外套は? 何だか変わった匂いがするけど」


「竜の鱗を潰したものを服に焚き込めている。時間を込めて燻してあるから、数日間は消える事がない」


「竜の匂いがする外套なんだ」

 ヴィレはその表面を指の表面で撫でてみた。

「なら、これも獣を寄せ付けないためのものなんだね」


「ああ」


 ヴィレは黙って外套に目を落とした。

 この風呂敷包みと外套を持たされるという事は、ヴィレはこれから獣のいる森の中に連れて行かれるという事なのだろう。

 恐怖がじわじわと足元から這い上ってきて、ヴィレは泣きそうな顔で唇を噛み締めた。勇気を出さないといけないとわかっているのに、どうしても身が竦んでしまう。


「……どうしても行かなくちゃだめ?」

 そう尋ねると、獅枇はひどく哀しそうな顔をした。


「行かないという選択肢も勿論ある。けれど、できれば行って欲しい。でないと彗主は、竜の寿命を待たずに死んでしまう事になるから」


 ヴィレは「え」と顔を上げた。

「あたしが行かないと、アンジュ死んじゃうの?」


「そういう事になるね……」


 ヴィレはごくりと唾を呑み込んだ。

 あれほど力に溢れたアンジュがこの世界からいなくなっちゃうなんて信じられない。


 けれど、獅枇の言葉は真実であるのだろう。獅枇はいつも誠実で、こんな悪い冗談を言ったりしないとヴィレは知っていた。


「アンジュを助けるためにヴィレの助けが必要なんだね」

 もう一度確認すると、獅枇は「ああ」と頷いた。


「じゃあ、ヴィレは頑張る」

 勇ましく言ったものの、宣言した途端にヴィレの瞳からほろりと涙が零れ落ちた。


 獣のいる森に捨てられに行くのだ。怖くない筈がない。

 でも、ヴィレはアンジュにだけは死んで欲しくないと思った。ヴィレがきちんとアンジュを信じればアンジュが助かるというのなら、ヴィレはきちんと勇気を出すべきなのだ。


「この外套を着てアンジュを待っていればいいんだよね」


「そうだ。

 彗主と別れて一人ぼっちになっても、その場から動き回っては駄目だ。

 ヴィレ、これはとても大事な事だ。動き回れば君の危険が増す。その場から動かずに待っていると約束できるかい?」


「うん」とヴィレは頷いた。


「ありがとう」

 獅枇は静かに礼を言うと、真っ直ぐにヴィレの目を覗き込んだ。


「今回の件は、私と凛主しか知らない。アヴィや桜姫を含めた隠れ処の皆はあずかり知らぬ事なんだ。

 だから、ひどく怖い思いをして誰かを恨みたくなったら、私や凛主を恨んでくれ。皆は何も知らないんだ。知ればきっと、君のために反対をするだろう」


「そっかあ……。アヴィ達は知らないんだね」


 それを知って、ヴィレの心が少しだけ温かくなった。

 だって、あんなにヴィレを可愛がってくれた皆が全員、ヴィレを捨てる事に賛同していたら、ヴィレはきっと傷付いていた。

 優しくされていた分、見放された事が苦しくて、ちょっぴり皆を恨んでいたかもしれない。


 凛主というのは、今朝がた御殿に帰って来た桜姫の夫だ。

 朝に少しだけお話をしたが、穏やかで誠実そうな男性だった。


「ねえ、獅枇。凛主はあたしの事が邪魔なのかな?」

 ぽつんとそう聞くと、獅枇は驚いたように顔を上げ、「それは違う」とすぐに否定した。


「凛主は君の未来にも心を砕いていた。だからこそこの決断をしたんだ。

 今はその思いが伝わらなくとも、いつかきっとヴィレにもわかる日が来るよ。凛主は決して君を嫌っていない」


「そうなんだ……」


 凛主は、あの桜姫が心から慕い、信頼している大切な夫君だった。だから悪く考えたくないと思った。

 きっと凛主にとっても、これは苦しい決断であったのだ。


「ヴィレは獅枇の言葉を信じるよ」

 ヴィレがきっぱりとそう言うと、獅枇はほっとしたように頷いた。

 それから躊躇いがちに手を伸ばし、ヴィレの頭をそっと撫でてくれた。


「獅枇がヴィレの頭を撫でてくれるのって初めてだね」


「そうだね。他の雄竜達もヴィレにはしていないだろ?」


「何か理由があるの?」


 ヴィレが不思議そうに聞くと、

「竜は存外、独占欲の強い生き物だからね」と獅枇は笑った。

 

「だから他の竜の刻印が付いた相手に、無闇に触る事はしないんだ」


「でも今、獅枇は頭を撫でてくれているよ」


「……あの馬鹿のせいで、俺はとんだ損な役回りをさせられているんだ。このくらいの意趣返しをしていいと思わないか?」


 そう言って共犯者のような笑みを向けてくるものだから、こんな時にも関わらずヴィレは思わず笑ってしまった。 



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