番は御殿内を探検する
その日の朝ご飯を持ってきてくれたのは、セイーナという三十代半ばの女性だった。昨日、ヴィレの相手をしてくれた女の人達の一人である。
今日はお粥の中に卵が落としてあって、ヴィレは「うわあ」と歓声を上げた。
「これってチャボの卵?」
そう聞くと、セイーナは笑いながら首を振った。
「烏骨鶏よ。殿舎から少し離れた林の中で飼っているの。おとなしい子達でほとんど鳴かないのだけれど、後で見に行ってみる?」
「うん! ヴィレ、チャボは見た事があるけど、鶏は初めてかも」
ヴィレはぱくぱくとご飯を食べ進めていたが、途中であっという顔でセイーナを見上げた。
「ヴィレばかり食べてるけど、お姉さんはいいの?」
七つのヴィレから見ると、三十半ばのセイーナはおばさんの部類に入るが、妙齢の女性に向かっておばさんと呼べばえらい事になるとヴィレは経験から知っていた。
なので、四、五十までの女人に対しては、ヴィレはお姉さんと呼びかける事にしている。ヴィレなりの処世術だ。
「私は今は欲しくないの。だからお茶だけいただくわ」
セイーナは二つの茶杯にお茶を注ぎ、一つをヴィレのお膳に載せてくれた。
「ええと、セイーナは竜なの?」
そう聞くとセイーナは「私は違うわ」と首を振った。
「じゃあ、名前は一つなの?」
セイーナは質問の意味がわからずにちょっと困った顔をしていたが、ややあって合点がいったのか、にっこりと大きく頷いた。
「番が自分の竜につける眞名の事を言っているのね。そうよ。私は眞名を持っていないわ」
「あのね、昨日アンジュがシェーンの事を獅枇って呼んでいたの。だから獅枇が竜の名前で、シェーンというのがアヴィがつけた特別な名前なのかなって思ったんだけど、それで合ってる?」
「ええ、そうよ。私も自分の竜を特別な名前で呼んでいるわ」
「その名前は誰か別の人が呼んでも構わないの?」
「勿論よ」とセイーナは笑った。
ヴィレは知らない事だったが、眞名が竜を縛るのは己の番が名を呼んだ時だけだ。
番以外の人間が眞名を口にしても竜の魂には全く響かない。だから竜達は、自分の眞名を別の相手に知られても、全く頓着しなかった。
「あのね、もう一つ聞きたい事があるんだけど」
「なあに?」
「夫婦って一緒のお布団で眠らなきゃいけないの?」
ゆったりとお茶を飲んでいたセイーナは、いきなり際どい話を振られて動転したのだろう。お茶を喉に詰まらせ、げふっごほんと変な咳をし始めた。
「……! セイーナ、大丈夫?」
「だ、大丈夫。大丈夫だけど、どうしてそんな事を聞くのかな?」
引き攣った笑みを浮かべながらそう聞いてくるセイーナに、ヴィレはちょっと申し訳なさそうに昨晩の事を話し始めた。
「アンジュね、余り寝相が良くないみたいなの」
「は? 寝相……?」
「うん。三回もお布団を剥ぎ取られたし、最後はヴィレの方に寝返りを打ってきて、ヴィレ、押し潰されちゃうかと思った」
「あらまあ……」
セイーナはしみじみとヴィレの小さな体を見下ろした。
成人した女性ならば、恋人に抱き込まれたところで別にどうという事もないが、彗主とヴィレほどに体格差があればかなり堪えるだろう。
添い寝をしてやっている母親がうっかり赤子を押し潰して窒息死させたという話を、セイーナはずっと昔、耳にした事があった。それを考えればあの若い雄竜が小さな子どもと一緒に寝るというのは、あまり良くない事なのかもしれない。
「まるっきり一人で寝るのも寂しいんだけど、どうしたらいいかなあ」
「そうねえ」
竜は番以外と眠るのを嫌がるから、ヴィレは一人で眠るか、自分の竜と眠るしかない。
困ったわね……と考え込んだセイーナだが、そう言えば今なら、桜姫が一緒の寝台で寝てくれるかもしれないと思いついた。
夫の凛主は家を空けているし、桜姫は元々子ども好きである。
相談したら何とかなるかもしれないが、どちらにせよ桜姫の気持ちを聞いた後でなければ何とも答えようがなかった。
「そちらは少し考えてみましょう。それよりもヴィレ、朝ご飯が済んだら、ヴィレは何をしたい?」
問われたヴィレはちょっと考えた。
「えっとね……。ヴィレ、この御殿の中をいろいろ見てみたい。いいかなあ?」
昨日はきれいな衣装に着替えた後、お手玉や貝合わせなどをして遊んでもらった。それもすごく楽しかったけれど、こんなきれいな御殿に来たのは初めてだから、隅々まで回ってみたかったのだ。
「そう言えば、ヴィレはこのお部屋からあまり出ていないわね。
じゃあ、朝ご飯の後は探検に行きましょうか」
朝食が済むと、ヴィレはセイーナと手を繋いで客殿の玄関を出た。
客殿の前の廊下は東西に長く延びていて、最初に案内されたのは皆が集うという大華殿だった。
客殿は白を基調として飾り窓を多く配した造りになっていたが、この大華殿は全く違う。
基本色は鮮やかな朱色で、壁や柱の要所要所には金箔が惜しみなく貼られている。欄間やは透かし彫りの装飾が施され、植物模様で縁取りされた蘇芳色の額の中には波と雲を図案化したような絵が飾られていた。まさに圧巻の美しさを放っていた。
「ここは東方の文化を取り入れた部屋なの。ほら、あちらの石庭は長の凛主が特に拘ったものよ。どう? すごく迫力があるでしょう?」
言われて庭の方を見れば、乱張りされた白い石畳の上に大きな三つの奇石が飾られているのが見えた。
ヴィレは思わず、ぽかんと口を開けた。あんな奇妙な岩は見た事がない。
どの岩もヴィレの背丈ほどの高さがあり、緩く捩じれた形をしていた。
一番目を奪われるのはその形状で、岩中に大小様々な穴がぼこぼこと開いていて、ところどころは貫通している。まるで急流を流れてきたかのようにどの部分も丸みを帯びているが、本当に川を下って来たならばこんな奇抜な形がそのまま残ってはいないだろう。
次に訪れた綾戯殿は大華殿と扉一つで仕切られており、皆が自由に寛げる場となっていた。障屏でいくつかに仕切られていて、ゆったりとした床榻や碁盤などが無造作に置かれている。
その綾戯殿を出れば、真っ直ぐに続く廊下とは別に左に折れる廊下があり、そこを進んで行くと観音開きの大きな扉にぶつかった。
扉を開けた瞬間、ヴィレは「わあっ」と歓声を上げていた。
扉の向こう側に石畳の敷かれた広大な広場が広がっていたからだ。
広場は四方を御殿で囲まれているから、正確に言えば中庭であるのだろう。御殿と中庭を隔てる形で白い石柱が等間隔に並び、石柱のところまで御殿の屋根が伸びていた。
石柱のアーチは一度膨らみを持たせて上部が軽く尖るような変わった形をしていて、台座やアーチを支える部分に施された金箔と白い石の対比が美しかった。
中庭では数人が寛いでいて、ヴィレの姿を見つけて手を振ってくる。ゆっくりとこちらに歩いてくる皆に向かって、ヴィレも負けじと手を振った。
「ねえねえ。中庭なのにどうして何も置いていないの?」
周囲を見渡しながら、ヴィレはセイーナに尋ねてみた。
ヴィレが以前捕らえられていたお屋敷の中庭には大きな池があり、木がたくさん植えられて花壇も作ってあった。
けれどこの中庭は石がきれいに敷き詰められているばかりで何もない。それがとても不思議だった。
「ここは竜達が空から降りる場所だから」とセイーナは説明した。
「彗主もここに貴女を運んできたのよ。連れて来られた貴女はぐったりとしていたし、一体何が起こったのかとびっくりしたわ」
そうか。あたしはお空からこの御殿の中庭に連れて来られたんだと、今更ながらにヴィレは気付いた。
そう言えばここから四方を見渡しても、御殿の向こう側には深い森しか見えない。まるでここだけ森がぽっかりと割れたように、不自然なほど広い平地に豪華な御殿が存在していた。
「ヴィレ、おはよう。昨日はよく眠れたかしら」
一番最初にやって来た銀の髪の女性がそう声を掛けてきて、ヴィレは「うん」と元気良く返事をした。確か桂姫と言う名前の竜のお姉さんだ。
続いてやって来たお姉さん達に、
「食事はちゃんと食べた?」
「御殿を見て回っているの?」
次々に話し掛けられ、ヴィレは一つ一つそれに返事をする。その中には、昨日食事を作ってくれたイレーニと亜玲もいて、「昨日はご飯をありがとう」とヴィレはきちんとお礼を言った。
お喋りをした後は皆で鬼ごっこをする事になった。
だだっ広い中庭を自由に走り回り、ヴィレはきゃあきゃあと笑い声を立てながら庭中を逃げ回る。
いっぱい走って足が疲れたら、今度は手巾で目を覆った目隠し鬼もした。
こんな風に皆の間に混ざって遊ぶのは、ヴィレには初めての事だった。
ヴィレが生まれ育ったところでは、ヴィレはみそっかすの父無し子であったからだ。
閉鎖的な邑であったから、ヴィレが行きずりの男の子どもであるという事が、邑人達にはどうしても許せなかったのかもしれない。
大人がヴィレを毛嫌いするから、その子ども達もヴィレを馬鹿にして、仲間外れにするようになった。
ヴィレとお母さんに優しくしてくれたのは、アンジュという雄鶏を飼っていた隣のおばさんと、二軒先の老夫婦だけだった。
この御殿で自分がどうしてこんなに大事にしてもらえるのかヴィレにはわからなかった。
だってヴィレにはそんな価値はない。自分に都合のいい夢を見ているようで、ヴィレは突然怖くなってしまった。
目隠し鬼をしている最中に急にぽろぽろと涙を零し始めたヴィレを見て、皆は慌てた。
「どうしたの?」と口々に聞かれたけれど、ヴィレはどう答えていいかわからなかった。何故、こんなに優しくしてくれるの? って聞いたら、きっと皆は困るだろう。
それに、こんな訳のわからない事で急に泣き出されるなんて、皆にとっては迷惑な話だ。変な心配をさせてはいけないと、ヴィレは頬に残っていた涙を拳でぐいと拭い取った。
だからヴィレは「あのね」と言葉を取り繕う。
「あたし、遊んでばかりいちゃいけない気がするの。ヴィレは掃除や洗濯もできるし、お料理だって少しは作れるよ。何か、ヴィレに手伝える事はないかなあ」
自分が役に立つ事を教えておかないといつか捨てられる気がして、ヴィレは必死に言い募った。
周囲の女性達は戸惑ったように顔を見合わせ、一番傍にいたイレーニが優しくヴィレに言葉を掛けてきた。
「別にみんなの役にたてなくてもいいのよ。子どもは遊ぶのが仕事なのよ」
「遊ぶのがお仕事?」
意味がわからず、ヴィレは心底困ってしまった。
「ええ。遊ぶだけではなく、お勉強もしないといけないわね。ヴィレは字が書ける?」
そう聞かれて、ヴィレは少し躊躇った後に「少しだけなら」と小さな声で答えた。
生まれた邑では勿論、字なんて教えてもらった事がなかった。
でも、攫われて連れて行かれたお屋敷で字の勉強をさせられた。呪字を書くのに必要だったからだ。
だから、限られた字だけは書ける。日常で役立つものかと言われると、とても首を縦に振る事はできなかったけれど。
「そう言えば、勉強の事も考えていかないといけないわね」
今、気が付いたように桂姫が呟いた。
そうして何やら考え事を始めた桂姫の横で、セイーナがヴィレに声を掛けてきた。
「それはそうと、ヴィレはお手伝いがしたいのね」
「うん。ヴィレ、お手伝いしたい!」
「じゃあ、そろそろお昼の時間も近くなってきたから、一緒にご飯を作りに行きましょうか」
日はもう中天に上っている。足元に目を落とすと、朝は長かった影はいつの間にか小さく縮こまっていた。
セイーナが手を差し出してきたので、ヴィレはその掌に自分の手を重ねた。
掌からじんわりと温もりが伝わってきて、心がとてもほっかりとした。




