吹雪く氷の世界の怪物(下)
どうにもできない不安と悲しみ、そして絶望と虚無感と、抑えきれない渇望。
それらに苛まれながら、一時の快楽を求めて次の獲物を探す。
できれば、相手はクマかイノシシみたいな、好戦的な魔獣が好ましい。
たいして深い理由があるわけじゃないが、血の気が多い連中ならば、俺を見ても逃げずに立ち向かってきてくれるからだ。
それ以外の奴らは、てんで駄目だった。
蒼シカはいつも通り俺を見ただけで逃げていくし、悪戯好きなウサギ共も、こんな時に限って姿を見せない。
まあ、最初から逃亡を選択するような雑魚が相手では、もはやこの空っぽの胸を満すことなどできない……だから、わざわざ追いかけてまで殺す価値も無い。
――そう言えば、以前はオオカミにすら殺されかけたことがあったんだよな。
まだほんの数ヶ月前の出来事。
そのはずなのに、今となっては、ただただ懐かしい。
まあ、実際あのオオカミたちは、そのネタが割れてしまえば多少賢くて数が多いだけのイヌっころにすぎなかった。
どこか悲しみを感じさせる話だが、実はあいつら……単体だと蒼シカよりも弱いのだ。奴らの恐ろしさはチームプレイとか罠を張る頭脳であって、個々は意外と貧弱なのである。
とはいえ、奴らの小賢しい悪知恵を正面から突破するのは生半可な難易度ではない。
それができるようになった理由も、単に俺が遥か高みへと到達したからなのだ。
そうだ。俺は間違いなく強くなった。
今や誰も俺には逆らえない。
それが現実のはず。
なのに……どうしてこうなった?
力があれば、何もかもが思い通りになると思っていた。
何がいけなかったんだ。未だに分からない。いくら考えても答えは出ない。
それに、嗚呼。どうして、こうも渇くんだ。
腹は減っていない。でも、血が見たい。全てを忘れて、ただ魔獣の肉が喰いたい。
また、実体の無い飢えと渇きが湧いて出る。その渇望に、俺の精神は支配される。
理性が消えていく。
人間の魂が死んでいく。
衝動が抑えきれず、俺は狂ったように雄叫びを上げた。
その叫びに応えてくれる者は誰も居ない。
身体が、冷たい。胸の奥が、寒い。
何もかもが煩わしい。全てを壊してしまいたい。
どうせ味方なんか居ない。全てが敵だ。
手に入れた力を振るう相手を、燻ぶったやり場のない苛立ちの捨て場所を求めて、俺は枯れ木の森を彷徨う。
雪と氷と枯れ木が並ぶだけの暗い世界。延々と続く闇と冬の牢獄。
誰も、居ない。
本当に、寒い。心が、渇く。
辛い。悲しい。冷たい。飢える。
凍える。心が。煩い。寒い。欲しい。死ね。
渇く。淋しい。無価値だ。飢える。遊ぼう。壊れろ。一緒に。
だから、来いよ。殺してやる。冷たく。飢える。死ね。血が。寒い。欲しい! 獲物! もっと!!
―― 見 ツ ケ タ。
やっと巡り会えた生き物の気配に、俺は歓喜した。
今度の獲物は灰色のクマ。ただし、その大きさは地球で見られるグリズリーより二回り以上大きい。
四足同士なら、相手の目線は俺より高い。立ち上がったらきっと、その差はもっと広がるのだろう。
普通に考えれば、明らかに格上の相手。
だからこそ、丁度良い。
どうせ、俺は死なないんだ。
さあ、俺は敵だ。お前の敵だ。だから、遊ぼうぜ。
俺は熊相手に咆えて挑発する。
新参者に縄張りを荒らされたクマの魔獣も牙を剥いて威嚇してきた。
おい、どうした? 威嚇ばかりしてないで、掛かって来いよ。
それとも、ビビってんのか? こんな呪われただけの人間相手に。ゴミみたいに扱われてきた底辺労働者に。
そうだ、俺には何もない。どうせ全部借りものだ。全部無価値だ。
どうせ全部ゴミなら、何をしたって構わないだろ?
狙撃することもできるが……魔術は封印だ。氷柱は撃たないと心に決める。
遠くから魔術で攻撃してしまうと、あっという間に終わってしまうからな。もちろん、吹雪を纏うなんて野暮な真似もしない。
第一それでは、“殺し合い”にならない。ただの狩りか駆除作業でしかない。
舐めプ? 違うね。これは、強者の余裕ってやつだ。
この命を奪い合う遊戯だけが、俺を色んな苦悩から解放してくれる。早々に終わらせたら、勿体ないもんな。
威嚇合戦に痺れを切らせたクマ公は、俺に向かって突進してきた。
自分より大きな動物が真正面から迫って来る――そんな光景はやはり迫力が違う。
これこそが、俺の求めていたスリル。
俺も相手の突進に合わせて、数歩前に出た。
目の前の敵に集中する。本能が目の前の危機に対処しようと全力を出す。
こうしている間だけ、俺はまともでいられるのだ。
いよいよ互いの攻撃が届く距離まで間合いが近付いた。
十分に距離を詰めたクマ公は、その凶悪なベアクローを振り下ろしてくる。
――ここで逃げ出すような、日和った選択はしない。
斬撃をまともに食らった俺の左目は、鋭い爪に抉られ完全な暗闇に落ちる。
もちろん、食らったのはわざとだ。と言うより、初めから避ける気なんてなかった。
痛みは好きではないが、余計なことを忘れさせてくれる。
それに、痛みを味わえば、これは命を賭けた戦いに昇華する。つまり、お遊びで生き物を殺す罪悪感が無くなる。
……なにが“命を賭けた戦い”だ。
俺は不死身なのに、なんて酷いイカサマだろう。
でも、どう足掻いたって死ぬのはあっち。これは確定した未来。だから記念に一発殴らせてやった。言い換えれば、それだけのことだった。
左目が修復される痛み。それを感じながら俺は反撃に出る。
俺はクマに向かって飛び掛かり、爪を立ててその首に噛みついた。
しかし、そこにある明確な体重差は覆せない。単純な押し合いでは俺のほうが圧倒的に不利だった。
首筋の肉に齧り付く俺を引きはがそうと、必死でクマが暴れる。
俺のほうも必死で踏ん張ってみたものの、後ろ脚で立ち上がって抵抗するクマに軽々と振り回された。
体重ではこっちが不利なのだ。このまま噛みついていても仕方がない。暴れるクマの動きに合わせて、俺も一旦離れることにする。
遠心力で思った以上に飛ばされた俺は、咄嗟に尾で枯れ木の枝を掴んで勢いを殺した。
落ちた雪の上を転がりながら、ついでに折れてしまった枝をクマに投げつけてみる――枝と言っても人間の胴体程度には太いから、当たればそこそこの威力があるはずだ。
しかし、顔面目掛けて飛んで来た枝を、難無く叩き落とすクマ。
一瞬枝を投げたのが無意味に見えた……だが、よく乾燥した枯れ木は叩かれた衝撃で粉々となり、図らずも良い按排で目眩ましとなる。
都合よくクマが怯んでいる隙に、俺は体勢を立て直す。今度はこちらから突進を仕掛けてみよう。
再度牙を突き立てるか、あるいは角で肉を抉るか迷ったが、今度は角で行ってみることにした。
後ろ脚で雪と氷の大地を蹴って加速する。
尾でバランスを取りながら、木々を避けて突き進む。
そして再度の接触。
立ち上がったクマの胸部を目掛けて頭突きを決める。
そのままクマの腹に角を突き立て、全身で捩り上げ、勢いをつけて地面に叩きつけた。
だが、仰向けになったクマが我武者羅に鉤爪を振るう。
それがたまたま俺の腕に当たり――そのまま俺の腕を引き千切って、持って行ってしまった。
予想外の反撃だった。俺はクマの怪力を甘く見ていたようだ。
易々と俺の毛皮や鱗を切り裂くあたり、このクマも本来はそうとう上位の魔獣なのだろう。
もしかすると、こいつは接近戦ならば、真正面からドラゴンと殴り合える猛者だったのかもしれない。
思い返せば、割としょっちゅう経験している腕の欠損。今回も相手が見事だったと言うべきか、俺が不運だったと言うべきか。
……まあ、今の俺にとっては、どっちでも関係ない。
失った腕が、即座に氷で補われる。
透き通った氷の義手が、本物の腕と同じように動く。
残念だったな、クマ公。
お前の幸運は、無意味に終わった。
そう、俺は冬の世界に君臨する存在。
この凍てつく世界の全てが俺の味方なのだ。
そして、その即席で作られた氷の義手は、いつの間にか冷たい血の通った魔獣の腕になっていた。
周囲に雪と氷が、その精霊が存在する限り、もはや欠損にすら意味は無い。
今の俺は雪と氷で体を作り直すことができる。
むしろ、中途半端に潰された左目よりも、作り直した腕のほうが早く再生したくらいである。
――もしかすると、“冬の王”になった俺は、既に“生き物”ですらなかったのかもしれない。
例えば、全身によほど酷い怪我を負ったとしよう。
その時は愚直に再生を待つより、自分で心臓をくりぬいて雪の中にでも放り込めば……多分そちらのほうが、よほど効率的に復活できる。
それが今の、俺という存在だ。
控えめに言って、やっぱり化け物だな、俺。
いや、冷静に考えて、“死”を失った時点で言い逃れできないレベルの化け物だった。
……なんだ。誰かと寄り添いあって生きていくなんて、初めから無理だったんじゃないか。
俺は転がったクマの上から覆いかぶさり、再生した腕でクマの身体を切り裂いた。
流れ出す血潮。暴れるクマ。
ついでに報復として、眼球を抉って腕を一本捥いでみる。当然だが、クマの体は俺のように再生しない。
……もう終わりか。
仕方ない。ならこれ以降は、せいぜい暴れて愉しませてくれ。
対等な命のやり取りには程遠い、一方的な虐殺が始まった。
まず俺は、クマの鼻面を潰した。そのまま頭蓋骨を砕く。口に手を突っ込んで牙を抜く。顎を引き裂く。関節を壊す。腿骨をへし折る。四肢を捥ぐ。無意味に殴りつける。
悲痛なクマの鳴き声が枯れ木の森に響く。
だが、その声も段々と小さくなって、終いにはとうとう何も聞こえなくなった。
残ったのは、雪の上に横たわるボロボロなクマの屍。
我欲のために踏みにじった命の痕跡。
冷静になってはいけない。
我に返ってしまえば、血溜まりの中で虚しさばかりが膨らむから。
最後にクマの腸を引きずり出して、血肉を喰らう。
まだ死にきれていない心臓が、俺の手の中で鼓動を刻んでいた。とても美味かった。
魔獣の肉が味覚に快楽を与える。魔獣の血が五臓六腑に染み渡る。
必要が無いのに、もっと欲しいと思ってしまう。
それは生命に対して、あまりにも冒涜的な悦び。なのに、自分の意思では止められない。
凍る闇の世界で、俺は欲望の赴くままに従って、ただひたすらに獲物を貪り続けた。
「あらら、なるべく急いだつもりですが……これは思った以上に荒れていますねえ」
突如背後に現れた一つの気配。
振り返るとそこには、この場に似合わない星空の化身のような少女が立っていた。
「お前は、確か……星詠みの、魔女……」
「はい! 魔女界屈指の超☆美少女アイドル、星詠みのステラちゃんですよ♪」
蒼い踊り子のような衣装の魔女は、血塗れた獣を前にして、無邪気な少女のように楽しげに笑った。




