幕間 変わらぬ未来
お待たせしました。第八章開幕です。
――これは、昔々のお話です。
かつてこの世界に、その名を口にするのも憚られる化け物たちが訪れました。
世界の果て、星空の向こう。
この世でも、あの世でもなく、別の宇宙からやってきた化け物たち。
幾つもの世界を喰らい、貪り、犯し、弄び……あるべき星空を書き換えながら、その化け物たちは、とうとうこの世界に流れ着いたのです。
化け物たちは我が物顔でこの世界に住みついて、好き放題に暴れます。
そして何時しか人々は、その化け物たちを“邪神”と呼ぶようになりました。
この世界に住む者達は誰一人、その圧倒的な“力”に逆らうことができません。
ある者は邪神たちを畏れ、ある者達は崇め、奉り、祈り、媚び――救いと慈悲を求めましたが、全ては無駄でした。
邪神たちは戯れに、人間と交わったり、人と獣を混ぜ合わせたり。
愛し合っていた恋人達が、ある日突然殺し合ったり。
逆に、忌むべき邪悪をいつの間にか、訳も分からず愛していたり……。
痛み、絶望、悦び、憎しみ。
壊された世界には悪徳と頽廃、そして陰謀と暴虐と腐敗がはびこります。
辛うじて理性と尊厳を残した人間たちは、奴らに見つからないよう息を潜めながら暮らしていましたが……化け物たちにとっては、それすらも面白い遊びか見世物にすぎません。
化け物たちが飽きるまで、脆弱な人間たちは滅びることすら許されず、永遠の絶望の中を彷徨っていたのです。
しかし希望は急に齎されました。
それは、この世界の管理者たる存在から授けられた、今となっては禁呪とされる秘術。
――異世界召喚。
人間たちに与えられた希望の正体は、異界から召喚された英雄たちでした。
そして招かれたのは、まだ成人すらしていない、年端もいかない少年少女たち。
並び替えられた星に従わざる異界の英雄たちは、一人、また一人とその命を散らせながらも、過酷な運命を塗り替えていきます。
勇敢な者から死んでいく。優しき者から死んでいく。正しき者から死んでいく。
そんな救い無き戦いの果て、ついに彼らはやり遂げたのです。
しかし、平和を取り戻した世界に、その英雄たちの姿は無く。
時代は流れ、後には華々しく歪んだ英雄譚だけが残りました。
犠牲となるにはあまりにも若過ぎた命。彼らを生贄にしてまで手に入れた未来。
その未来を前にして、遺された者たちは何を思ったでしょうか?
変わりゆく世界で、遺された者たちは何を願ったでしょうか?
それなのに、あの戦いで取り戻した未来も、今となっては――……。
* * *
少女は王城のバルコニーから城下の町を見下ろしていた。
その場所は、彼女が幼少時代を過ごしたはずの子供部屋。しかしあの頃とは、何もかもが変わってしまった。
美しき少女の名は、ソフィア・エリファス・レヴィオール。英雄の末裔たる聖女にして、正統なるこの国の王女である。
雪と氷河を年中たたえた霊峰。
その鋭い山脈に囲まれた湖の国、レヴィオール王国。
厳しくも雄大な自然に囲まれた小さな国こそが彼女たち、バフォメット族の故郷だ。
バフォメット族は険しい山岳地帯を住家にしている少数民族で、褐色の肌と白い髪が特徴である。そして、ヤギのような横向きの瞳孔に加えて、これまたヤギかヒツジのような角と蹄も有しており、実際にヤギの仲間に見られるような健脚も備えていた。
それらバフォメット族の特徴は、ソフィア姫も例外ではない。
彼女はその中でも、特に顔立ちが整った美少女だ。白く長い睫毛に美しいアッシュグレーの瞳は、その国に住む全ての民を魅了する。
そんな彼女は今、その瞳に憂いと悲しみを帯びながら、取り戻したはずの故郷を眺めていた。
かつては活気に溢れていた城下町。しかし今は戦禍と暴虐、そして先日の“天災”の爪痕を痛々しく残している。
思い出の風景は変わり果て、その面影はもはや残っていない。
そして、復興の目処も立っていない。
慌ただしく動くバフォメット族や連合国の兵士たち。彼らが備える対象は、次なるメアリス教国の攻撃だ。
そう。彼女たちの戦いは、まだ終わっていなかった。
八年前、レヴィオール王国は片翼の女神を信奉する宗教国家、メアリス教国からの侵略を受けた。
彼らの目的は、水源でも魔道具加工の技術でもなく――あろうことか、バフォメット族そのものだったのだ。
バフォメット族のもう一つの特徴。
それは第三の目、あるいは悪魔の瞳と称される、美しい宝石だ。
ソフィア姫の額でも翡翠色に輝くその器官は、透すことで本来なら目には見えない魔力でも視ることができる。
そして、生まれつきその能力を持ったバフォメット族は、優秀な魔術師や魔具師として大成することが多かった。
しかし、メアリス教国はその額の宝石に“高純度の魔石”としての価値を見出したらしい。
さらに、元々が生体である以上、鉱物由来の魔石よりも人間が扱うには相性が良く……その結果、メアリス教国の“技術”を大いに発展させることとなったのだ。
ソフィア姫自身もあの日、他の子供たちと一緒に捕らえられ、角を切り落とされていた。
もし魔女と思わしきあの女性が助けに来てくれなければ……彼女の命はすでに無かったかもしれない。
ついでに明かせば、今でも彼女の中では、あの大きな鋏の音が心的外傷となっている。その恐怖は、趣味の裁縫や刺繍の時でさえも、鋏を使えず風魔術で代用するほどだ。
いったい何故、彼らは、あれほど残酷な仕打ちができたのだろう?
子供や女性に対してまで、あれほど容赦なく振る舞えたのだろう?
良心の呵責なんかは無かったのだろうか?
心優しいソフィア姫には、メアリス教国の蛮行が、それを為した精神性が理解できなかった。
町の惨状は、すでに見て回った。
さらに深い闇の部分についても……直接は見せてはもらえなかったものの、報告だけは受けている。
ちなみに、実験の被害に遭った女の子たちは、連合国側が保護していた。彼女たちはすでに地下を離れている。
そのほかの被害者も、もちろん避難済みだ。
優れた治療術師であるソフィア姫は、自らも力になりたいと申し出た。だが、残念ながらその申し出は断られてしまった。
王族である彼女には他に果たすべき役割があったし、なにより……ご年配の治療術師たちも、うら若き乙女に、この世界の最も醜い部分を進んで見せたいとは思わなかったのだろう。
すでに産み落とされた命については、ディオン司祭が率いる原理主義派メアリス教徒の方々が、特別な孤児院を作ってくれることを提案してくれた。
もちろん、メアリス教に対する悪感情を考慮して、運営はレヴィオール王国に委ねる方針だ。
ただし……聞いたところによると、彼らが無事に大人になれる可能性は、極端に望み薄らしい。
――どうして世界は、ここまで残酷なのだろうか。
人間だって生き物だ。生きるために戦うことはあるし、植物や動物を食べる。そのために家畜を飼うこともあるだろう。
しかし、それでも命に対して、敬意を無くすべきではない――少なくとも、ソフィア姫はそう考えていた。
それに、たとえ相手が言葉の通じない動物であったとしても、心が通ってしまえば……そう、友情なりの愛着が湧いてしまえば、殺して食べるなんて、普通はとても考えにくいはずなのだ。
身勝手な理屈かもしれないが、例えばソフィア姫なら、冬の城で仲良くなったウサギのペトラをミートパイにして食べるなんて、とても考えられない。
ましてや、歩み寄ればいくらでも言葉の通じる人間相手に、あんな非道で残酷な…………。
「それとも……わたしの考え方が、まだ子供過ぎるのでしょうか……」
少女は嘘だらけの世界で惑い、何が正しいのか分からなくなっていた。
自分が信じていたものは、ただの偽善にすぎなかったのか。
やはりこの世は、力を持つ存在が蹂躙するための遊び場にすぎないのか。
少女は立っていた大地が揺らいで崩れ落ちるような不安に苛まれる。
それでも、彼らの行ないが正義だとは考えたくなかった。
あれがディオン司祭と同じくメアリスの英雄たちを信奉する者の所業だとは、どうしても思えなかった。
ソフィアとて長い期間、偽りの聖女を演じてきたのだ。
当然の如く、メアリス教における英雄たちの物語は暗記している。
異世界から召喚された英雄は、それこそ彼らの言葉で“反則級”と謳われるほどの強大な力を持っていた。
一説によると、彼らがその気になれば、邪神たちに代わってこの世界を好き勝手に支配できたとさえ云われているのだ。
しかし、それにもかかわらず、英雄たちは私利私欲のために自分たちの力を使わなかった。
苦しむ人々を救うため、永遠の絶望を終わらせるため、世界に希望の光を灯すため、彼らは理の外から襲来した化け物たちと戦った。
そして最期には、その身を犠牲にして邪神たちを封じたのである。
脈々と語り継がれる、英雄たちの物語。
それなのに、今を生きるメアリス教の支配者たちには、彼らのような高潔さは引き継がれなかったのだろうか?
ある意味で、この現状が、その回答だ。
まるで神罰を受けたかのように、自我を持った吹雪がメアリス教のことごとくを破壊してしまった。
いや、彼らが触れたのは本物の神の怒り――季節の一角を司る管理者の一柱、“冬の王”の怒りだったのかもしれない。
人々が異口同音に語る、怒りに狂い我を失くした魔獣の姿。
心を失くして暴れ回る、肉体を得た災害。
全ての命を憎む氷の化け物。
メアリス教国の蛮行から救われた者たちですら、その冬を纏う怪物の恐ろしい姿に、酷く畏れを見出していた。
しかし、冬の城で彼と過ごしたソフィア姫は、そのお人好しな怪物の、残酷になり切れない本性を知っている。
「……魔獣さん」
彼は、何に怒りを覚えたのだろうか。
もしかすると、それは人間の醜さだったのかもしれない。
雪と氷に閉ざされた純白の楽園で、彼はひっそりと暮らしていたのに。
その神聖なる秘境を踏み荒らした罪により、冬の城で人々から忘れ去られていた怪物は解き放たれてしまったのだ。
人の咎により、変わり果てた漆黒の魔獣。
元の姿を知る少女は、ただ一人で、その出会いを後悔し続けていた。
「……――姉ちゃん。ソフィア姉ちゃん!」
自分を呼ぶボーイソプラノの声に気付いたソフィア姫。振り返ると、子供部屋の入り口に可愛らしい少年が立っていた。
「……アルくん? どうしたの?」
「どうしたのって……ソフィア姉ちゃんのほうこそ大丈夫? ここに来てからずっとそんな調子で、ちゃんと休んでる?」
アルくんと呼ばれた彼の本名は、アレックス・ミトラ・ヘーリオス。
ソフィア姫の幼馴染にして、“太陽の国”の異名を持つヘーリオス王国の第三王子でもある。
そして今は正式に、ソフィア姫の婚約者でもあった。
幼さが残る中性的な美少年である彼には、「美しい」「格好良い」といった言葉より「可愛い」という形容詞が似合っている。
象牙のような肌に残る痛々しい頬の傷痕が気になるが、それ以外は淡い桃色が混じったブロンドの髪も、パッチリとつぶらなサファイア色の瞳も、桜色の唇も、何もかもが完璧で理想的な王子様だ。
彼は南部平原の戦場に連合軍として従軍していたのだが、レヴィオール王国へ向かった黒騎士を追って、急遽こちらに駆けつけていた。
元々彼の役目は黒騎士を迎え撃つことだったので、それは当然の流れと言えるだろう。
もちろん歴戦の戦士たるグランツもこちらに合流しており、冬の城を訪れた冒険者パーティは再結成されていた。
「わたしは、大丈夫! 全然、疲れてなんかないよ」
ソフィア姫は“お姉ちゃん”として、心配かけないように明るく振る舞う。しかし、それが空元気であることなど、アレックス王子には見抜かれていた。
だが、彼女が気丈に振る舞う以上、まだ外国の王子にすぎないアレックスにできる配慮と言ったら……逆に年下でもある自分が心配されないよう、しっかりと振る舞うことだけだ。
あるいは、戦場で黒騎士を討つことだろうか。いずれにせよ、内政面ではできることがかなり限られていた。
そして、婚約者として慰めるには、あまりにも時期と状況が悪かった。
「……そろそろ時間だよ。もう皆、集まっている」
アレックス王子は手短に用件を伝える。
その言葉に、ソフィア姫は会議のことを思い出してハッとした。ずいぶんと長い時間、物思いに耽っていたようだ。
「えっ、もうそんな時間なの? いけない! ありがとう、アルくん」
「大丈夫だよ、まだギリギリ始まってないから。でも急いだほうがいいかもね」
そう言葉を交わしたあと、二人は急いで会議室へと向かった。
これから始まる会議。話し合う内容は、もちろん今後の方針である。
確かに、突然現れた謎の高位魔獣の襲撃によって、レヴィオール王国に滞在していたメアリス教国の神兵は壊滅した。
それにより、連合国側は速やかに奪還したレヴィオール王国の防衛を固めることに成功。
おかげで幸運にも、何故か南部平原の戦線を離脱して向かってきた黒騎士と、準備不足なまま戦闘に入る……なんて大惨事は免れることができた。
しかし、危機は未だ去っていないのだ。
むしろ全体の戦局を見れば、連合国側が僅かに押されていた。
その理由は色々と挙げられるが、理由の一つは技術格差、そしてそれに伴ったメアリス教国側の高純度な魔石資源の豊富さにあるだろう。
メアリス教国の高い技術力と合わされば、純度の高い魔石はたった一つで戦局を大きく左右する。さらにその魔石が生体由来で、魔力運用の効率が桁違いに良いとなればなおさらだ。
むしろ今の拮抗状態は、連合国側の兵士の数――数値上の話に限定すれば、圧倒的な戦力差があるからこそ成立していると言えた。
ただ、それも時間の問題だ。
なぜなら、開発された技術はそう簡単に消えないが、戦場に居る人間は次々と死んでいくからである。
どれほど完璧に立ち回っても、ひとたび戦闘が始まれば、まざまざとその現実を見せつけられた。
皮肉なことに、戦争が長引くほど、非情になり切れなかった連合国側が不利になるのだ。
そして、メアリス教国側はその有利を保つため、再びレヴィオール王国を……今度は“養殖”ではなく狩りによって、大量の悪魔の瞳を手中に収めようとしていた。
――哀れな魔獣は、星詠みの魔女から授かった予言を回避するため、レヴィオール王国を血に染めた。
その結果、黒騎士とソフィア姫が戦場で邂逅する未来は無くなった。つまり、「予言を回避する」という彼の願いは叶ったと言えるだろう。
しかしながら、『二人の英雄が戦い』、そして『戦いの加護を持たない英雄がこの世界から消える』……その配役の一部が変更になっただけだ。
星の語る未来そのものは、未だ変わらないままだった。
運命は形を変え、再び少女の未来に影を落としたのである。
未だ去らぬ危機。
そして、昔話に紛れてしれっと開示される不穏な情報。まだ戦いは終わっていない。




