蹂躙
最初に異変に気が付いたのは、巡回中の兵士たちだった。
二人組でいつも通りのルートを練り歩き、通りすがりの警備担当に挨拶していく彼ら。
いつもならこれは、ただ散歩しながら異常がないことを確認するだけの簡単な職務である。
しかし、その夜はいつもと様子が違った。
聖堂の前で不自然なほどに姿勢を正した二人の兵士。声をかけても彼らからは一切の返事が無い。
不信に思い近付いて見てみると、二人は気絶していた。
氷で無理やり立ち姿を固定され、普段以上に真面目な格好で気絶している二人の警備担当。
あまりの異常事態に一瞬だけ思考がフリーズしたものの、二人の脳は即座に導出すべき結論をはじき出す。
間違いない。敵襲だ。
そう察した巡回の兵士たちは互いに死角を埋めるよう周囲を警戒しながら、可能な限り急いで本部に報告へ向かった。
それからの彼らは途轍もなく迅速だった。
鳴り響く警鐘。
続々と装備を整え集う兵士たち。
それは、彼らが日々行なっている訓練の成果が垣間見られる動きだった。
そして、事件発生場所の聖堂前。
そこに集まったのは、この町に滞在する戦力の全てではない。
にもかかわらず、聖堂前の広場を埋め尽くす彼らの数は、優に千を越えていた。
想定したのは、凍属性の魔術に長けた暗殺者の存在。
大胆不敵にも、神の兵が占拠した陣地の最奥まで踏み荒らした痴れ者を排除するため、メアリス教国の兵士たちは研究所を包囲する。
侵入者がどこから脱出しようとも、羽虫一匹すらも見逃さない完璧な布陣。たかが諜報員を始末するには過剰なほどの戦力だ。
それだけ、この研究施設も兼ねた聖堂が――そこに在った秘密が、神聖メアリス教国にとって重要だった。
アレの存在を、万が一にも漏らすわけにはいかない。
……とは言うものの、これだけの兵士が居るのだ。
今夜の騒動が収束するのも時間の問題。
少なくてもその時は、誰もがそう確信していた。
しかし、侵入者は意外にも、堂々と正面の出入り口から姿を現した。
その姿を目撃した兵士たちはギョッとする。
研究施設から出てきたのは人ではなかった。
それどころか、亜人ですらもなかった。
仮に亜人だとしても――これほど恐ろしい姿の亜人など、見たことがない。
侵入者の正体はヒグマほどある大オオカミのような、あるいは翼の無いドラゴンのような、これまで誰も相対した経験のない魔獣だった。
夜の闇を纏ったような漆黒の毛皮。
獅子のような立派な鬣を携え、引き締まった四肢は鋭い爪を備えている。
禍々しく捻じれた四本の大角に、頑強な鎧みたいな鱗殻。
規則的に刺の生えた長い尾は、まるで毒虫のようにうねっている。
そして、頭部には獲物を見据える、血のように真っ赤な瞳。
その破壊と死を連想させる魔獣の姿。
戦い続け、死と再生を繰り返し、自己進化を積み重ねてきた者の末路。
その姿は、かつてと――少女に初めて出会った日とは、似ても似つかないほどに変貌していた。
死の化身のような魔獣が、咆哮を上げる。
夜の平穏を切り裂いて、戦いが始まる。
しかし、女神メアリスの聖戦士たる彼らがするべきことは変わらない。
優秀な彼らは、敵前で逃げだすような真似をしないのだ。
兵士たちは内心で恐怖を感じながらも、その震えを精神力で以って押さえつけ、訓練通りに銃を構えた。
神聖メアリス教国の軍隊で、標準装備として正式採用されている銃。
それは地球で言うところの、ボルトアクション方式ライフルの亜種だ。
ボルトアクションとは、遊底と呼ばれるパーツを手動で操作することによって、弾薬の排出と装填を行なう機構を指す。
現在の地球で広く普及している銃はアサルトライフルと呼ばれる種類のものだが、ボルトアクションはそれ以前の銃に採用されていた仕組みだ。
地球基準ではやや古い技術であるため、機関銃のような連射はできない。
だが、優秀なドワーフ族の奴隷技師をこき使うことで数を揃えた今ならば、射撃密度に物を言わせた十字砲火の真似事も可能であった。
「――撃てッ!!」
指揮官の命により、一斉に解き放たれる弾丸。
鳴り響く無数の発砲音。
訓練された彼らは、魔獣の咆哮にも怯まない。
取り囲むように並ぶ銃口から狙われた魔獣には、回避する術が存在しなかった。
兵士たちは続けて、ボルトハンドルを引いて排莢、そのままハンドルの押し込みで次の弾を装填。
そして放たれる第二波。
その後も第三波、第四波と続く。
――ちなみに、魔獣側からすると、彼らの攻撃は少し意外だった。
仮にも聖堂を背にしている魔獣相手に、彼らは躊躇いなく銃弾を叩きこんできたのだから。
しかしメアリス教国の兵士からしてみれば、彼は女神の教会を荒らした魔獣。それを見逃すほうが、よっぽど背信的な行為であった。
何よりメアリス教は英雄信仰の宗教である。
どんな場所で、どんな手段で戦おうと、その勇気が咎められる理由なんて無いのだ。
もっとも、その戦う相手が人間であることは、かつては滅多に無かったはずなのだが。
さて、連射機能をもたない銃であるにもかかわらず、絶妙なチームワークと数の暴力で弾丸の雨を降らせるメアリス教の兵士たち。
金属製の物騒すぎる雨の雫は、当たった箇所の石畳やセメントの壁を容赦なく抉る。
その動きは対人制圧なら理想的だったと言えるだろう。
しかし、相手は魔獣だ。
それもかなり上位の存在と思われる。
実際、目の前の魔獣には集中砲火もほとんど効果が無いように見えた。
これでも生身の人間なら、当たった周囲の肉が弾け飛ぶレベルの威力なのだ。
ヒグマのような大型肉食獣だって、魔獣化していなければ無傷ではいられない。
そのはずなのに、弾丸は魔獣の毛皮を突破した様子すらなかった。
だが問題は無い。
初撃はあくまで牽制。
そもそもの話、上位の魔獣にただの銃弾が効かないのは常識であり想定内である。
普通の弾で効果が無いのなら、魔力を付与すればよい。
魔力の格差さえ埋まれば、あとは純粋な破壊力だけが勝負を決めるのだ。
「魔銃部隊、前へッ!」
弾丸の雨が止む直前に、指揮官が次の一手を指示する。
先陣が弾丸の雨で牽制している間に魔力のチャージを終えた第二陣。
彼らは前に出ると、魔力付与した弾丸を一斉に放つ準備を始めた。
しかしこのタイミングで、ついに魔獣が動き出す。
銃弾の雨を浴びながら、魔獣はその全身を屈めた。
そのまま背筋と足の筋肉をバネにして、漆黒の影は弾けるように駆け出す。
まるで地面に対して水平に飛び跳ねるように、勢いよく決まるスタートダッシュ。
魔獣は脇目も振らず、兵士の群れを目掛けて突進する。
その距離、地球の単位にして80メートル前後といったところか。
猛スピードで見る見る間に迫ってくる大型肉食魔獣。
その口の中に並ぶ鋭い牙。
運悪く魔獣の正面に居た兵士たちにとっては、さぞ悪夢だっただろう。
「魔弾、用意! 撃てッ!!」
号令とともに始まる、魔銃部隊の一斉射撃。
終わりかけた弾幕に追加の魔力付与弾。発砲音が炸裂する。
そして帯びた魔力により存在感を増した弾丸は、隙の無い弾幕の壁となって魔獣に襲いかかった。
――そして、魔獣の身体に到達する前に、ひとつ残らず氷の欠片に阻まれた。
これで終わりのはずだった。
相手が並の魔獣であったなら、実際にそうだっただろう。
だが現実に存在するのは、部分的に纏われる氷の欠片。
その魔獣の毛皮に張り付くような氷の鎧は、魔力を帯びた弾丸を、なんの問題もなさげに受け止める。
これは当然の結果だ。
メアリスの兵士たちには知る由もなかったが、この氷の守りには、とある最高峰の魔術師が放つ散弾――速度も威力も格段に上の銃弾すら突破させなかった実績があるのだ。
ただ魔力を付与しただけの弾丸では、越えられないことなど自明の理であった。
魔弾による一斉射撃を受けても、全く勢いが落ちる気配のない魔獣の突進。
訓練された兵士たちも、流石に驚きを隠せない。
特に魔獣の正面に居た兵士たちはパニックとなり、我先にと逃げ出そうとして――突撃して来た魔獣に撥ね飛ばされた。
人間の群れに突っ込んだ大型魔獣。
襲われた側は蹴散らされ、吹っ飛ばされ、もう阿鼻叫喚の地獄絵図だ。
ある者は魔獣に踏み潰される、またある者は転んで仲間に踏み潰される。
あるいは、まるで玩具の人形であるかのように、白い鎧の兵士たちが宙を舞う。
騎士階級でない彼らの装備が、動きやすさ重視の軽鎧だったのは不幸中の幸いだろう。
もし重装歩兵のような全身鎧だったら、仲間に潰された者たちの怪我は打撲や骨折では済まなかったはずなのだから。
しかし、まだ終わらない。
本当の大暴れはこれからだ。
漆黒の魔獣はその前脚で大地を掴み、力を溜める。
魔獣を中心に渦巻き始める冷気。
勘の良い兵士たちは、これから起こる事象に不穏な空気を感じ取った。
ゴ ガ ャ ァ ア ア ア ア ア ア ア ア ア ッ!!
間近で響く獣の咆哮。
音波によってか、周囲の兵士たちが吹き飛ばされる。
轟音による衝撃波。
耳を塞いでも、兵士たちの中には聴覚が壊れてしまった者がいた。
巻き起こる風。
大気は魔獣の咆哮に従って、そのまま空気の流れとなる。
舞い上がる竜巻。
曇りの空が無秩序に入り乱れ始める。
吹き荒れる暴風の中、人間たちは、まともに立っていられない。
魔獣の喚び声に応じたのは、局地的な天災。
さらに鋭い氷の刃を孕み――魔獣に近づく全てを切り裂く吹雪の結界が完成する!
無数の氷の刃は、周囲を出鱈目に斬り裂いた。
石畳を、街灯を、建物の壁を、兵士たちの構える銃を、兵士たちが纏う軽鎧を。
無差別に飛び交う斬撃。
そして、煌めく吹雪に舞い上がる鮮血。
運良く頬を斬られる程度で済んだ者。
軽い切り傷を負った者。
腕が斬り飛ばされた者。
足が巻き込まれた者。
眼球を切り裂かれて失明した者。
運悪く、頸動脈が斬られた者。
首から上を落としてしまった者。
歴史あるレヴィオール王国の石畳が、流れる血潮に塗りつぶされる。
ああ、でも仕方がない。これは実戦なのだから。
魔獣が言うところの、悲しい“事故”である。
この兵士たちの不幸な出来事は、町に侵入した魔獣と戦い、勇敢に戦った証拠だ。
だが、相対する魔獣と兵士。
殺すか、殺されるかの関係。
今のところ魔獣には、獲物を積極的に殺すつもりは無いが……誰も死なない結末なんて、始めから有り得ない。
――だから、俺は悪くない。
魔獣の中で鎌首を擡げたドス黒い感情が、にやりと牙を剥いた。
彼が腕を薙ぎ払えば、ドミノ倒しのように人間が連鎖で倒れていく。
彼が尻尾を振り回せば、刺に肉片が引っ掛かる。
逃げ惑う有象無象を、魔獣が蹂躙する。
「退けッ! 銃では奴を止められん! 我等は撤退だ!!」
叫ぶ指揮官。風の魔術で声をさらに広く轟かせる。
この場面でそう判断ができるのは、非常に有能だと言えるかもしれない。
少なくとも、彼は名誉のための保身に走っていない。
さらに風に乗せて撤退の情報を拡散することで、同時に銃以外を主力の武器として扱う部隊に援軍を求めていた。
唯一、誤算があったとすれば……。
――お前、面倒くさいな。今の内に、消えてもらおうか。
指揮官を目掛けて、何かが飛んでくる。
その正体は、彼にとっての部下であった。
魔獣が投擲したのだ。
たまたま近くにいた不幸な兵士を鷲掴みにし、周囲に命令する指揮官を狙って投げつけたのだ。
見事に命中した二人は、縺れ合いながら石畳の上に倒れる。
そして、二人の頭上で急成長を始める氷の塊。
宙に浮いたそれらは凶悪な鋭い円錐形となって倒れた二人――主に指揮官のほうに狙いを定める。
「や、止め……!」
指揮官はもがくように手足を動かしたが、なんの意味もなかった。
降り注ぐ氷柱の一斉射撃。
砕け散る氷の欠片に、紅い肉片が混じる。
こうして、哀れにも魔獣に目を付けられた指揮官は、石畳の上に転がる死体の一つとして仲間入りを果たした。
実はこの日、魔獣は初めて、自分の意思で人を殺した。
だが、もはや其処に特別な感情は無い。
そしてその事実に、魔獣自身も気が付いていなかった。
自分の行為に疑問を持たず、当たり前のように受け入れていた。
それとも、この残虐性こそが彼の本性だったのだろうか。
元々の性格こそが、怪物染みた理性で押さえつけられていた結果なのだろうか。
今となっては、誰にも分からない。
どこか遠くの白亜の城で、紅いバラの花弁がまた一枚、静かに散った。




