届かない祈り
轟々と風の音が響く。
不穏に流れる雲。吹雪に舞う雪と氷の欠片。
その中央に佇む漆黒の魔獣。
進化を繰り返した今の奴は、まさに冬に呪われた地を統べる不死身の王だった。
その魔獣はまるで刺さったトゲでも抜くかのように、脳天に突き刺さった光精霊の剣を二本の指で摘まむと、そのままずるりと引き抜く。
剣の抜けた穴からどろりと、赤黒い液体やゼリー状の何かが零れ落ちる。そしてメキメキと軋む音が聞こえてきたと思ったら、その傷口もすぐに塞がった。
魔獣は脳天から抜いたオレの剣を興味深そうに掲げて、しげしげと眺め始める。
その魔獣の有り様は――もはや完全にオレの理解を越えていた。
「……アレックス君、ちょっといいでしょうか?」
オレの横に居たジーノが小声で言った。
「なに?」
「いえ……報酬の件、覚えてます?」
「うん…………うん?」
ジーノの口から出たのは、この状況にそぐわない場違いな単語だった。
そう言えば、魔獣と戦い始める直前にそんな話していたような……。
「って、何を言っているんだ、こんな時に?」
「はい。こんな時、だからこそです。幸い、あの魔獣は私達が動くまで待ってくれているみたいですし」
ジーノの言う通り、すでに成す術のなくなったオレ達にも魔獣は襲いかかってこない。今も奴はオレの剣を観察している。
流石に逃げだすほどの隙はなかったが……確かに、これは「待ってくれている」のだろう。
その行動にどんな意味があるか知らないが、とりあえず遊ばれていることは理解できた。
オレは目線でジーノに続きを促す。
ジーノのことだ、その意図はよく分からないが、きっと何か意味があるのだろう。
「では、単刀直入に――キミが身に着けている、その魔石の指輪を頂けませんか?」
「……これを?」
オレは魔石の残った最後の指輪を見る。
これはオレが切り札として使っている、魔力の貯蔵庫のようなものだ。
もはや打つ手のないオレが持っているより、ジーノに使ってもらったほうが合理的だろう。
でも、ジーノがそれを報酬として求めた理由が、オレには分からなかった。
「どうして、こんなものを……?」
オレは疑問に思いながらも、指輪を外してジーノに手渡す。
確かに、魔道具の生産が盛んだったレヴィオール王国がメアリス教国に占拠されている。そんな今となっては、こんな指輪でも貴重なのかもしれない。
しかし、単純な威力よりも技巧を重視するジーノにとっては、決して魅力的な品でないはずだった。
「いえ、ただ………………もう、返せそうにはありませんので」
「え? 今、なんて……?」
後半が聞き取れなかったが、ジーノはオレに構わず前に出る。
魔獣は相変わらず静かに佇んだまま、ゆっくりと頬の肉を吊り上げた。
――おっ、もう相談はいいのか?
牙を剥いた魔獣の表情を見て、奴がそう言って嗤っているように思えた。
魔獣は持っていたオレの剣を、ぽいっと放り投げ、自身の大剣を担ぎ上げた。
前に出たジーノは詠唱を開始する。
迸るは紅い魔力。それは炎の力。
「我が瞳に映るは炎の王国……」
魔石に蓄えられた強大な魔力を、常人なら神経が擦り切れそうなくらい丁寧に編みこんでいく。
「そして虚と実を重ね合わせよ」
魔力が熱を持ち、炎としての姿を現世に表す。
その熱量が異常であることは、この場に居る誰もが理解していた。
「さあ、始めよう――全てを巻き込み、紅く燃やし尽くせッ!!」
詠唱が終わると同時、巻き上がるは炎の竜巻。
その炎の壁はオレ達と魔獣の間を隔て、その熱はオレ達を捕らえる氷の壁を見る見るうちに融かしていった。
詠唱を終えたジーノの手の中には、ひびが入っただけの魔石が残っていた。
本来は一回限りで使い捨てのこの指輪。オレなんかだと使用後は必ず粉々に砕けてしまうのに……この技量については、流石はジーノであるとしか言いようがない。
「お前ら、今のうちに行け!!」
これを機と見るや、グランツが叫んだ。
しかし、そう叫んだ本人は逃げる様子がない。きっと、この炎の中、魔獣の足止めのために残るつもりなのだ。
「グランツ……!」
殿を務めるのはグランツ。
確かにもともと、そういう約束だった……けれど、違うだろ!
あれは、グランツが一人なら時間を稼いで逃げ切れる――それが前提の約束じゃないか!!
そしてジーノも、グランツの指示には従わなかった。
ジーノはまだ魔石が砕け切っていない指輪を、今度は地面に放り投げ、大地に手を突く。
「おい、何やってんだ!?」
グランツが慌てたように問いかけるも、ジーノはそれを無視して次の詠唱を開始した。
「騎士の誓いは土の下、姫の祈りは水底にッ――!」
――その瞬間、指輪が砕け、地面が液状化する。
泥沼……いや、おそらく底なし沼になったのだ。
燃え盛る炎の向こうで、魔獣が驚きの悲鳴を上げた。きっと、泥の中に呑みこまれたのだろう。
そして魔獣の呻くような声は地面の下へと沈んでいった。
「……私はここに残ります」
炎が燃え盛るなか、静かな声でジーノが言った。
「何言ってんだ! 俺が殿になるって話だろ!?」
「剣の折れた貴方に、何ができるッ!? ここは私に任せて、早く!!」
グランツとジーノが言い争う。
しかし、オレ達にそんなことをしている余裕はない。
突然襲い来る、凍てつきそうな魔力の奔流。その冷たい風にジーノの炎がかき消され、融けかけた氷の壁が再生を始める。
そして、沼の中央から魔獣の腕が生え、凍りついた大地を掴んだ。
「うわっ!?」
文字通り、地の底から這い上がってくる魔獣の恐ろしい姿に悲鳴が漏れる。
底なし沼から、魔獣が脱出しようとしている。形のない泥を凍らせて、無理やり這い上がろうとしているのだ!
「――沈め沈め絶望の果て、泥の中で嘆いて眠れ!!」
ジーノが詠唱の続きを叫ぶ。
再度液状化する大地。支えを失い、再び泥に呑まれる魔獣の腕。
液状化と凍結のゴブリン退治。
しかし、あの魔獣が持つ無尽の魔力。その前では、たとえジーノであっても長くは持たないだろう。
「ジーノ!」
「さあ、行ってください!」
無理やり連れて行こうとするオレの手を振り払いながら、ジーノが辛そうに言った。
その様子は尋常じゃない。冬に呪われた地はこんなにも寒いのに、ジーノは大粒の汗をかいている。
「早く!!」
「……クソがッ、行くぞ!!」
観念したグランツが、ジーノと魔獣に背を向けた。
「アルくん……」
「……ジーノ、ごめん……ありがとう」
オレも、ジーノの覚悟を受け入れることを選択した。
振り向いたジーノの横顔はいつものように自信に満ちた笑みを浮かべていたが、その雰囲気はどこか悲しかった。
――仲間を見捨てて逃げるオレたちは、冬に呪われた地からの脱出を目指して、ひたすら走る。
走りながら、オレはジーノと最後に交わした会話の意味を考えていた。
そしてオレは理解してしまった。
わざわざ報酬なんていう乾いた言葉を使ったのは、ジーノなりの気遣いだったのだろう。
オレ達が振り返らず逃げられるように。
今さらそんなことに気が付いたオレは、走りながら必死に涙を堪えていた。
* * *
「やっと、行ってくれましたか」
魔術師の青年、ジーノは疲れ切った安堵の笑みを浮かべた。
あとはそう、自分がひたすら時間を稼げば……。
そう思った矢先、大地が凍り、ひびが入る。
大地から突き出てきたのは魔獣の腕、上半身、そして頭部。
「グルルルルルルルル……」
泥の中を泳いできたのだろうか。その頭はさっきよりもだいぶ青年に近い場所で唸り声を上げていた。
「……そうですよね、やっぱり睡眠耐性くらいありますよね!? ええ、期待していませんでした! 期待していませんでしたとも!!」
彼は大地に手を突き、ありったけの魔力を流し込む。
このまま魔獣が這い上がってくることを、許すわけにはいかない。
あわよくば泥の中で永遠に眠ってくれれば良かったのだが……それが叶わなかった以上、あとは純粋な潰し合いであった。
「沈め沈め沈め沈め沈め沈めッ!!」
その呪文は、祈りにも近い慟哭。
叫びに呼応して、凍りついた泥が再び液状化し、深い水の底から魔獣を引きずり込もうと引力が伸びる。
しかし当然の如く、魔獣だって黙って沈められるわけではない。
掴みどころのない泥を凍らせて足場を作り、その怪力と身体能力に任せて無理やりに這い上がってくる。
魔力が見える者には理解できるだろう。
直接ぶつかり合うことが無くても、そこには魔術同士の激しい攻防が繰り広げられていた。
「沈め沈め……沈めって言ってるだろうが、いい加減沈めやこの化け物がああぁぁ!!」
魔術師の青年ジーノは残された最後の力を使って、魔獣を深い泥の底に沈めた。
――どれほどの時間が経過しただろうか。
静寂が空間を支配する。
聞こえるのは風の音だけ。
そんな寂寥な雪原の中で、ジーノは皮肉気な笑みを浮かべた。
「……届きません、でしたか」
魔力も体力も使い果たしたジーノは、その場に倒れこむ。
倒れた魔術師の視線の先、泥の中から這い上がってくるのは漆黒の魔獣。
そう、彼の時間稼ぎはここまでだ。
彼は負けたのである。
魔獣は勝利の遠吠えを上げると、もう動けないであろう魔術師の青年を無視して、融かされた氷の壁の向こうへと駆け出して行った。
逃げた三人を追う魔獣を見送りながら、何もできず気絶する青年。
意識が闇に落ちる直前、彼の口から零れたのは――。
「あまり、時間は作れなかった、ですね……すみません」
届くはずのない謝罪の言葉だった。




