ペトラ・ミートパイ・クソウサギ
……あの忌まわしき怪物の襲来事件から、早くも数日が経過しました。
灰色耳は強くなるため、これまで以上に修行に明け暮れます。
彼女の修業は、とにかくほかの魔獣と戦い、経験を積むこと。
夜行性の魔獣たちが活発になる夜になると、彼女はそっとお城を抜け出して、枯れ木の森へと出かけます。
そしてキツネやイタチ、イノシシなどを相手取って、己の技を磨くのです。
――あたいは、もっともっとつよくならなくちゃ……!
本当は相手を捕食するのが一番効率的なのですが、それは魔力を多く含む白リンゴを毎日たくさん食べることで補いました。
ところで――これは強くなることに関係あるかは不明ですが――灰色耳には、新しい名前が与えられました。
ペトラ。
それが新しい彼女の名前です。
この素敵な名前は、お姫様が付けてくれました。きっと、先日の戦いで、彼女の忠誠が認められたのでしょう。
灰色耳改め、シロウサギのペトラはとてもうれしく思いました。
だって、耳長族に名前を付けるなんて風習はありませんでしたから、身体的特徴でない名前はより特別に感じられたからです。
それに心なしか、名前を付けてもらったことで自分が強くなったような気がしました。
……一方で、黒オオカミはペトラのことを「クソウサギ」と呼んだり、たまによく解らない「ミートパイ」という言葉を使います。
クソウサギのほうは、どうやら『耳長族』を表す言葉みたいですが……異世界の絵本なんて知るはずもない灰色耳のペトラには、「ミートパイ」の意味が分かりません。
一応補足しておきますと、異世界には「ピーター」という名前の野ウサギが活躍する童話が存在し、その絵本には「主人公の父親が人間に捕まって、ミートパイにされて食べられてしまう」といったエピソードが掲載されているのです(ちなみに、ペトラという名前も、「ピーター」の女性形だったりします)。
それはともかく、灰色耳のペトラは考えます。
そして考えに考えた結果――お姫様の本当の名前にある、名前の次に並ぶ音、ソフィア・『エリファス』・『レヴィオール』と同じものではないかと思い当たりました。
要するに、ミドルネームや家名のようなものだと理解したのです。
ということは、灰色耳のフルネームは……。
――あたいはオヒメサマのナイト、『ペトラ・ミートパイ・クソウサギ』だ!
ペトラは自慢するように、胸を張って名乗りを上げます。
言葉の意味を知る者が聞いたなら、なかなかひどい名前に思えるでしょうが……まあ、正確には『ペトラ』の部分だけが彼女の名前ですし、そもそも森の動物たちに、人間の言葉が分かるはずもありません。
だから、言葉の意味が分からない彼女にとっては、長ければ長いほど特別でかっこいい名前なのです。
なお、『クソウサギ』の部分が『耳長族』を意味するのはともかく、より正確に彼女の種族を表すためには『フロストヘア』とするべきだと気付くのは、もう少し後のこと。
さらにもっと未来では、色々あった結果、彼女は『ペトラ・イヴェーラ・フロストヘア』と(勝手に)改名するのですが……それはまた、別のお話です。
さて、今まで以上に強くなることに熱心な彼女ですが、本来の役割も忘れてはいません。
お姫様に仕える騎士であるペトラは、修行していない昼の時間帯はお姫様の護衛に努めます。
赤く燃える暖炉の前、お姫様の膝の上が彼女の定位置です。
あの怪物のせいで最近元気がないお姫様。そんな彼女の傍で元気づけてあげるのも、ナイトの仕事なのですから!
黒オオカミも、お姫様を背中に乗せて外を駆けまわったり、なんとか彼女を元気づけようと必死です。
しかし、二匹の成果はほとんどなく、お姫様は夜な夜な声を殺して涙を流す日々を送っていました。
耳が良いペトラと黒オオカミは、それを聞いて、とても悲しい気持ちになりました。
そんな日々に転機が訪れたのは、ある曇りの日のことです。
何かを感じ取ったペトラが先っぽが灰色の耳をピンと立ると、お姫様が尋ねてきます。
「……ペトラちゃん?」
その声音は、心なしか不安そうです。
そして残念なことに、彼女の不安は的中していました。
――また、たたかってる……!
灰色耳のペトラは、緊張に身を強張らせます。
彼女の中には『ついにきたか』と奮い立つ気持ちと、そして『もうきたのか』と不安に焦る気持ちが混在していました。
「魔獣さんが、また戦っているんですね? 行かなくちゃ……!」
黒オオカミのピンチを感じ取って無謀にも、黒オオカミを助けに行こうとするお姫様。
しかし、灰色耳のペトラは反対します。
彼女は負い目様の進路に立ち塞がると、ここから動かないようクゥクゥと訴えました。
――オヒメサマはかくれてて! あたいがみてくるから!
しかし、身体の小さな彼女では、お姫様を引き留められません。
――オヒメサマ!
クゥクゥ鳴きながら足元に必死でまとわりつくペトラ。
お姫様は屈んでそんな彼女と視線を合わせると、静かな声で語りかけます。
ただし、その声音は落ち着いているのではなく、恐怖を押し殺したような声でした。
「ペトラちゃん、心配してくれてるの?」
ペトラに人間の言葉は分かりません。
最近はほんのちょっとだけわかるようになりましたが、さすがに会話できるほどではありません。
しかし、感情は分かります。
お姫さまがどんな気持ちなのかは、ウサギのペトラにも分かってしまうのです。
「でも、ごめんなさい。わたしは、守られてばかりいるのは……わたしだけ逃げてばかりなのは、もうイヤなの……!」
お姫様から伝わってくる感情は、かつて暗い巣穴でおびえながらくらす仲間たちを見て、こんなのはイヤだと思った自分の感情と、とてもよく似ていました。
運命に抗うためなのか、現状を変えるためなのか――気持ちの向く方向に微妙な違いこそあれど、弱い自分を厭う気持ちは同じだったのです。
「だから、ね? ペトラちゃん……わがままで、ゴメンね?」
もうペトラには、彼女を止めることができませんでした。
――わかったよ。でも、だいじょうぶ。もしなにがあっても、こんどこそ、あたいがぜったいまもるから!
ウサギのペトラは、過ちを繰り返します。
お姫様を進んで危険にさらすなんて、騎士としてあってはならないことです。
しかし、それよりも大事なことが、彼女たちのなかにはありました。
だから、仕方がないことなのです。
とはいえ、今回に限っては、その心配は無用でした。
なぜなら、雪原にたどり着いた時にはもう、黒オオカミが冬の世界への侵入者を撃退していたのです。
お姫様とペトラの二人が初めに見つけたのは、凍り付いた地面に足が埋まった大柄な男でした。
その奇妙で、どこか滑稽な姿は、遠くからでもよく見えました。
どうやらこの付近で戦闘があったのは確実なようで、雪原には血の跡や割れた氷の壁、そして雪が融けてできたにしては深そうな泥沼が続いています(実は泥沼の近くにもう一人倒れていたのですが、彼が羽織っていた保護色のマントのせいで二人は気付けませんでした)。
――あいつは……ヒトだ!
相手もお姫様とペトラを驚いた表情で見ていますが、攻撃してくる気配は無いようです。
とはいえ、彼が味方とは限りません。
なぜなら、野生の世界でだって、異性を巡る戦いや縄張り争いなんかは日常茶飯事だからです。
なので、相手はお姫様と同族だからと言って、油断はできないのです。
お姫様は警戒しながら、その足を固定された大男に語りかけました。
「……こんにちは。確認しますが、偶然迷い込んだわけでは、ありませんよね?」
お姫様は水の魔術で、空中に水球を生み出します。
黒い甲冑の怪物の時とは違って、水球が男に触れても弾けることはありませんでした。
「あなたはメアリス教国のものですか? 正直に答えないと、水の玉で溺れてもらうことになりますよ……!」
問われた大柄な男は、慌てて答えます。
「ま、待った、俺はグランツ! 冒険者だ! ヘーリオス王国で要人の捜索依頼を受けて、ここに来た!」
「……ヘーリオス王国?」
ペトラは油断なく身構え続けますが、お姫様は少し警戒を解きました。
どうやら、男の言葉に心当たりがあるようです。
「こんな状態で失礼する……じゃなくて、します。貴方様は、レヴィオール王国の王女、ソフィア・エリファス・レヴィオール殿下に間違いありませんか?」
「……はい」
「じゃあ、あの魔獣は、貴女様が?」
あの魔獣とは、例の黒オオカミのことでしょう。お姫様は答えます。
「いいえ、わたしが使役しているわけではありません。彼のご厚意によって、わたしは冬の城に居候させてもらっているのです」
「なるほど、そうでしたか……道理で、合点がいった……!」
大柄な男は納得したような声を出しました。
「じゃあ、急いであいつを止めてください! じゃねえと、アレックスが……!」
「っ! アレックス――アルくんがここに!?」
お姫様は彼の言葉を聞くや否や、返事もせず駆け出します。
その後ろを、慌ててペトラは追いかけました。
――ちょっと、オヒメサマ! さきにいかないで!
護衛役のペトラにとってはたまったものではありません。
自慢の脚力で何とかお姫様を追い越すと、今度は先行してお姫様を護衛しながら走りました。
二人が雪原をしばらく駆けた先、緩やかな丘を越えると、黒オオカミの姿が見えます。
黒オオカミは背中にヒトの子供を背負いながら、別の小柄な人影と一緒に城へ戻ってきているところでした。
「魔獣さーん!!」
お姫様が手を振りながら駆け寄ります。
すると、黒オオカミは少し不機嫌そうに言いました。
「……ソフィア、どうしてここに居る」
心配してやってきたお姫様に対してその第一声は、やや辛辣なものでしょう。
しかし、彼だってお姫様を守る騎士なのですから、彼女が危険な場所に出てくることを看破できなかったのかもしれません。
「ソフィア、前回あったことを忘れたのか? また危険な目に合ったらどうするんだ」
「ごめんなさい! でも、居ても立ってもいられなくて……それに、前回危なかった魔獣さんがそれを言っても、説得力がありませんよ?」
ウサギのペトラも、なんとなく黒オオカミが、自分のことを棚に上げてお姫様を責めていることが分かりました。
なので、彼女もお姫様に便乗します(お姫様が正確に何を言ったのか理解していませんでしたが、その場の空気でなんとなく把握しました)。
――そうだそうだ! おまえだって、このあいだはあぶなかったじゃないか!
しかし、その会話を横で聞いていた別の人物が言葉を挟みます。
「ソフィアって……もしかして、貴女がソフィア姫、ですか?」
そう尋ねられたお姫様は、少女の向き直って礼儀正しく答えます。
「……はい。わたしがソフィア・エリファス・レヴィオールです。貴女は――リップさん、ですよね?」
「なんだ、ソフィア。この娘に心当たりがあるのか?」
今度は黒オオカミが尋ねました。
「いいえ、彼女と直接の面識があるわけでは……ただ、貴女方の大まかな事情は、あちらでグランツさんから伺っています。それであの、もう一人……魔獣さんが背負っているその人が、もしかして……?」
お姫様の視線が、黒オオカミの背負っているもう一人の人物に向かいます。
黒オオカミは背負った弓使いの顔をお姫様が見やすいように、身を屈めました。
「やっぱり、アルくん……?」
お姫様が、驚いたような声を零します。
その声は、僅かに震えていました。
「……その様子だと、今度は本当に知り合いのようだな」
「はい、わたしの……幼馴染です!」
黒オオカミはすっと目を閉じ、一度息を吐いた後、再び口を開きます。
「……安心しろ、大きな怪我はしていない。魔力切れで気絶しているだけだ。命に別状はないだろう。多分」
「ああ、よかった。魔獣さん、ありがとうございます!」
お姫様は感激した様子で、黒オオカミに深々と頭を下げました。
「……礼は要らんさ。今回は余裕があったから、生かしておいただけだ」
「魔獣さん……」
「さて。まずは全員、城に連れて行こう。話はそれからだ」
――えっと……ひとまずあんしんってやつだな!
どうやら一件落着のようです。
あの黒い甲羅の化け物が居なかったことにほっと一息を付きながら、ペトラたちは四人の訪問者たちを連れて冬の城へと帰ったのでした。




