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奈落に沈む(上)

 監視塔への侵入者。

 妙齢で、白髪(はくはつ)で、褐色肌の美女。

 ソフィア姫は彼女に母親の面影を見出してしまい、思わず(つぶや)く。


「お母様……?」


 しかし、その勘違いも一瞬だけだ。

 ソフィア姫は彼女が別人であることをすぐに理解した。なぜならソフィア姫は過去に、その女性と会っていたからである。


 バフォメット族の特徴たる立派な(ツノ)に、ヤギの(ヒヅメ)。黄金の瞳と、(ひたい)に輝く(あか)い宝石。

 さらに加えて、煽情的(せんじょうてき)な服装に、彼女を象徴する無数の鎖。


 呪術師か悪魔を連想させるその姿。

 レヴィオールの姫君の(もと)へ訪れたのは、“鎖の魔女”その人だった。


「久しぶり、ね? また会えて(うれ)しいわ。でも、お話ししている時間はないの……」

「待って! 同じバフォメット族だからって、手放しに信用しちゃダメ!!」

 魔女が姫に近付こうとすると、赤毛を逆立てたネコミミ少女がその前方に立ち(ふさ)がる。

 しかし、ソフィア姫は彼女を制止した。

「リップ、大丈夫。この(かた)は信用できます。以前、わたしを助けてくださった魔女様ですから……」

 安心したように姫が言う。すると、鎖の魔女は悲しげに微笑んだ。

「そう。私は昔、貴女を助けたわ、ソフィアちゃん。でもそれは、貴女(あなた)が生きて、幸せになってくれることを望んだから……それなのに、貴女(あなた)はその命を、簡単に投げ出そうとするのね……」

 ソフィア姫はその言葉にハッとした。


 ついでにリップもこのタイミングで、ソフィア姫がやろうとしていたことを知って驚愕(きょうがく)する。

「えっ!?」

 そんなことしようとしていたの!? ……と、口には出さないが彼女は表情でソフィア姫に問いかける。


「そうよ……そうなったら、ネコちゃんも悲しいでしょ? だから、ちゃんと考えて、ね? 貴女(あなた)がやろうとしていることは、本当にそれでいいのか……」

 鎖の魔女は静かな声音で、ソフィア姫に忠告した。


 ソフィア姫が戸惑っていると、彼女が作った術式が霧散(むさん)する。確証はないが、おそらく鎖の魔女が何かをしたのだろう。

 彼女に絡みつく無数の鎖が、シャランと音を立てて揺れた。


「で、でも、魔女様! それならわたしは、いったいどうすれば……?」


 やろうとしていたことを否定されたソフィア姫が、声を荒げて(たず)ねる。

 だって、そうでもしなければ、皆が死んでしまうかもしれないのだ。


 当たり前だが、自分だって死にたいわけじゃない。

 でも、それ以外の方法が見つからない。


 なのに、それすら(とが)められてしまうとすれば……はたして自分はどうすればいいのだろうか?


 何をすべきか分からなくなって、涙声になるソフィア姫。とうとう嗚咽(おえつ)を漏らし始める。

 ぽろぽろ涙を流す少女の頭をそっと()でるのは、(ととの)った爪の長い女性の手。

 そして、鎖の魔女はソフィア姫の前に(かが)むと、少女の手を自分の手でそっと包み込んだ。


「……安直な自己犠牲では、世界は変えられない。貴女(あなた)の望む未来は、得られないわ……でも、本当に貴女(あなた)は、あの人にとてもよく似ている。私を置いて、世界を救ってしまった、あの人に……」


 懐かしそうに目を細めながら語る鎖の魔女。

 ソフィア姫が彼女に母親の面影を見たように、鎖の魔女も少女の中に自分の娘の――その父親の面影を見出していた。

 そんな彼女の表情は優しくも、どこか(さび)しげで……。


「なのに、この世界って、とっても残酷よね……あの人たちの思いはとっくに忘れ去られて――そう、あの炎もその一つ」


 意味深な鎖の魔女の台詞(せりふ)。当然ソフィア姫たちには理解できない。


「私も、知らなかったのだけれど……あれは、この世界から絶やしてはいけない炎。支配者を気取る(いつわ)りの神々……それらに(あらが)い続ける、壊れた騎士の、救われぬ(たましい)……」


 ソフィア姫の手の中に、新たな魔術の――いや、おそらく彼女以外の誰にも真似できない()()の光が宿った。


「これは……?」

「ごめんなさい。魔女としての制約があるから、私は(ちから)を貸してあげられないの。でも、心配しないで。貴女(あなた)はあの人の才能を引き継いでいるから……ソフィアちゃんなら、きっと使いこなせるわ……」


 何か特別な(チカラ)を与えたわけではない。

 鎖の魔女がソフィア姫に教えたのは、時代とともに忘れ去られた術式の一部、ただそれだけだ。


 だが、それこそが今のソフィア姫にとって一番必要な知識だったことは、言うまでもないだろう。


 (いにしえ)の英雄。彼が使った仲間を守るための英知。

 それを受け取った彼女は、黒い炎で焼かれた障壁を再構築していく――もはや彼女は、装置の補助も必要としていない。


「そう、落ち着いて。あの人のように、大切な人を守るための聖域を……自分の結界(せかい)を作るイメージで……」


 もし、かつての戦いを知る者がその光景を見たら、英雄譚(えいゆうたん)の再現だと評したかもしれない。


 彼女を中心に広がっていく複雑な魔法陣。

 本来なら、とても一人で発動できないような大規模魔術。それが、レヴィオールの空を(おお)っていく。


 空気を読んで成り行きを見守っていたリップは、邪魔をしてはいけないと口を(つぐ)む。また、広がる魔法陣を踏まないようにと、数歩後ろへ下がった。


 ――そして、今度こそ術式が完成する。


 ただし今度は、命を対価にした悲壮な解呪の魔術ではない。

 壊された障壁を、結界を、聖域を再構築する、彼女だけの魔法だ。


 大切な人たちを死なせたくない。

 その我儘(わがまま)で純粋な願いが、強固な壁となり、仲間を強化する聖域となった。


「できた……!?」

「ええ。魔力濃度も、きちんと操作できているみたい……やったわね、ソフィアちゃん」

 自分でも驚きの声を上げるソフィア姫を、鎖の魔女は我が子のように()めた。 




 結界が再構築されたことにより、ソフィア姫は戦況が把握できるようになる。

 ここでの結界とは、ソフィア姫による支援領域――すなわち聖域と同義だ。

 障壁の内側にさえ居るならば、結界の(あるじ)たるソフィア姫には一人ひとりの居場所や怪我の状態といった情報が手に取るように分かるのである。


 なお、一般的な魔術障壁にそのような機能はもちろん無い。

 ソフィア姫による結界はもはや、小規模な異界であるとすら表現できるだろう。


 また、結界内においては、魔力濃度の操作により味方の戦闘継続能力が上昇して、逆に敵は体内の魔力を失って不調に(おちい)る。

 特に魔術適正の高いバフォメット族は軒並み強化され、連合国との混成軍はメアリス教国を押し返し始めていた。


 そして、黒騎士と戦っているアレックスや魔獣の様子も知ることができた。

 もちろん、ジーノやディオン司祭の様子も……驚いたことに、消息不明だったグランツも、どうやら無事なようだ。

 ソフィア姫は胸を痛めながらも、ほっと一安心した。


「さて……ソフィアちゃん、よく聞いて」

 鎖の魔女がそっと話を切り出す。

「すでに運命は変わり始めている……らしいわ。彼が頑張ってくれたおかげで、手に入らないはずの明日が貴女(あなた)のものになった。でも、まだ油断しちゃダメ。運命は代わりの生贄(いけにえ)を求めている……」


 鎖の魔女が窓の外を指さす。

 その場所は……今まさにアレックスたちが黒騎士と戦っている噴水広場だ。


「さあ、いきなさい。戦いはまだ、終わっていないから……結末を見届けるのは、せめて貴女自身がやらないと、ね?」

 鎖の魔女が外に行くようにソフィア姫を(うなが)した。


 ソフィア姫の立場や安全を考えるなら、彼女はこの監視塔に留まるべきだっただろう。

 しかし彼女は鎖の魔女の言葉に従っておくべきだと判断した。


「リップ!」

「ちょ、ちょっと!? まさかあそこに行く気じゃないよね!?」

 飛び出そうとする姫君を止める護衛役のネコミミ少女。

 しかし、ソフィア姫はもう止まらない。

「ごめん、リップ。でも、わたしはきっと、あそこに行かないといけないの!」

 なにせ魔女様がわざわざ「行け」と言うのだ。きっと重要な何かがあるに違いない。


 リップは猫みたいな(うな)り声をあげて天井を(あお)ぐ。だが、彼女も本当は仲間たちを助けに行きたいと思っていた。

「う~……ソフィア姫が危険な目にあったら、ボクが怒られるんだから! あとで一緒に(あやま)ってよねっ!」

 そう言って、リップもソフィア姫に同行する覚悟を決めた。


「魔女様、ありがとうございます!」

 最後にきちんとお礼を言うソフィア姫。

 鎖の魔女が微笑(ほほえ)みを返すと、彼女は白と銀のドレスアーマーを(ひるがえ)し、螺旋(らせん)階段を下りていく。


 その様子を見送る鎖の魔女の表情は――。


「本当に、この世界は、残酷ね……」


 彼女はそっと目を閉じた。




 誰も居なくなった監視塔。鎖の魔女は独り、過去に思いを()せる。


 思えば、世界を変えるのは何時(いつ)だって、(チカラ)を手に入れた者たちだった。

 しかし、誰かを救うのは何時(いつ)だって……。


「結局、全部星詠(ほしよ)みちゃんの思惑通りになったわね……」


 それが(つぐな)いになるとは思わなかったが、鎖の魔女はせめて願うことにした。


 いつか彼が報われることを。

 ――彼がかつての英雄たちと、同じ結末を辿(たど)らないことを。


 * * *


 ソフィア姫による聖域の効果で、魔獣たちの周囲に魔力が(つど)う。

 魔術師のジーノにとっては最高の支援だ。彼はこのチャンスを逃すことなく大規模な魔術の詠唱を開始した。


騎士の誓い(アイドス・リタース・)は土の下(アンテル・グラープ)姫の祈りは(ミドヒェン・ゲベート)水底に(・イム・トレーネ)――!」


 それは魔獣にとって聞き覚えのある詠唱だ。

 かつて冬に呪われた地で、自分を泥の中に沈めた魔術。それに気が付いた魔獣は黒騎士に向かって突進する。


「なっ!?」

 黒騎士は敵の予想外な動きに反応が遅れた。


 無理もない。

 今まで慎重なヒット・アンド・アウェイを繰り返してきた魔獣が、突然方針を変えて、正面から組み伏せにきたのだ。

 ――まあ、今まではたいていの場合、黒騎士側が弾き飛ばさる形で殺陣が仕切り直されたのだが、距離を取ろうとしていた事実に変わりはない。しかもその癖、絶対に逃がしてはくれないのだから厄介極まりなかった。


 黒騎士はその狂戦士染みた怪力によって、なんとか仰向けに転ばされることは(まぬが)れたものの……魔獣の両椀と(あご)でがっつりと組み付かれ、身動きが取れなくなる。

 魔獣は黒い炎による損傷も覚悟の上――まさに捨て身の拘束だった。


「――沈め沈めファーレン・ティーフ・絶望の果て(ドゥンケルハイト)泥の中で(ヴァイヌ・シュラフ)嘆いて眠れ(・イム・ゾンフ)!!」


 タイミングよく、ジーノの魔術が完成。

 その瞬間、黒騎士が立っていた石畳が不安定に揺れた。


 そのままじゅぶりと音を立てて、地面が沈下していく。

 浸水していく、一人と一頭の足元。


 周囲の石畳や瓦礫(がれき)、建物の壁を巻き込みながら沈んでいく。


「魔獣さん、下がって!」

 弓で狙いをつけたアレックスが叫ぶ。

 しかし魔獣は不安定になった足場を利用して黒騎士を転ばせると、少年に向かって叫び返した。


「構うな! 俺ごと沈めろ!」

 魔獣からしてみれば、彼自身が泥沼から抜け出した実績がある。単純に沈めるだけでは安心できなかったのだ。


 その言葉にアレックスは躊躇(ためら)った様子を見せたが、魔術を発動した当の本人であるジーノはその指示に従う。


「お願いします! あとで必ず掘り返しますから! 沈め(ファレン)ッ!!」


 さらに泥沼の吸引力が上がる。

 それは魔獣の不死性を信頼しての処置だ。別に彼が薄情なんてことはない。

 すでに腰のあたりまで()かっていた黒騎士と魔獣は、そのまま呑まれるようにドプンと泥の中に姿を消した。


「魔獣さん!」

 少年が最後に呼び掛けたが、返事は返ってこなかった。




 ――…………沈黙。


 泥沼を取り囲む地上の四人は、誰一人として声を出さない。

 さっきまでの激戦が嘘ようである。


 聞こえてくるのは遠くで連合軍とメアリス教国の神兵が争う(とき)の声や、魔術か何かの炸裂音(さくれつおん)だけだった。


「……やったか?」

 数分ほど経過して、ようやくグランツが言葉を発する。ただそう言いつつも、彼は構えを解こうとしない。

 まあ、もし仮に魔獣がこの場に居れば、「それはやれてないフラグだぞ!」と突っ込みを入れただろう。

 実際グランツだって、これで終わりだとは微塵(みじん)も思っていなかった。


「いいえ、まだ術式が打ち消され続けている……おそらく泥の中では、黒い炎がまだ燃えているのでしょう」

 魔術師のジーノが答える。

 彼は泥沼の(ふち)で地に手を突き、さらに深く対象を沈めていく。


 余談だが、石造りの町のど真ん中に突如(とつじょ)として現れたそこそこ大きい泥沼は、いっそ見ていて愉快に思えるぐらい不自然だった。


「いつ這い上がってくるかも知れません。まだ油断はできないですね……他に何か分かりませんか?」

 ディオン司祭が尋ねる。

「特に変わった動きは……あっ、でも、なんかだんだん反応が小さくなって……」

 もちろん小さくなっているのは、黒騎士の炎だった。

「なに? まさかもう燃え尽きかけてるのか?」

「いえ、正確なことは分かりませんが…………あれ? 消え、た?」

 彼は自分自身の言ったことが信じられない様子である。それはジーノの言葉を聞いた周囲の者たちも同様だった。


「え? 本当に、これで終わり?」

 話をちゃんと聞くために、屋根の上からアレックスがピョンと飛び降りてくる。

 本当に終わりだとしたら、散々暴れてくれた割に、あまりにも呆気ない最期ではないか。


 しかし、錯覚や勘違いではないらしい。

 泥沼の中からは間違いなく、黒騎士の炎が消えていた。


 現にジーノが何回確かめても、その気配は感じられない。

 一応あの炎は、黒騎士の意思でも消せるはずだ。しかし、魔獣と取っ組み合っている最中で(みずか)ら消したなんて、普通に考えればあり()ないだろう。


 泥沼の表面は一切揺れず、降ってきた雪が白い斑点(はんてん)を作っていた。


「ねえ、終わったなら魔獣さんを――」

 心配そうに言うアレックス。しかしジーノはにやりと笑う。

「いいえ、その必要はなさそうです。彼はもう、自力で這い上がってきていますよ」


 だいぶ深く沈めたからもう少し時間はかかるだろうが、魔獣の気配は泥沼の底から順調に浮上している。


 魔獣が上がってきているのなら、もはや確実だ。どうやら本当に、黒騎士との戦いは終わったのだろう。

 自分たちの勝利を理解した戦士たちは、ひとまず安堵(あんど)のため息を()いた。




 ――しかし、彼らは気が付いていなかった。


 彼らの背後に転がる黒い金属の塊。

 ディオン司祭がはぎ取った黒騎士の(かぶと)だ。


 (かぶと)に宿った炎は(いま)だ消えておらず、気配を隠すように小さく燃えていた。


 それはまるで、彼らの隙を(うかが)っているかの(ごと)くに。




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