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果ての世界で  作者: yuki
第三部 帝国編
47/56

セシリアの魔法

 暗がりの中から徐々に意識が浮上して世界に光が生まれる。

 薄く目を開ければ燦々と煌いていたはずの陽はとっくに紅色に染まり、部屋の中を炎に包んでいるようだった。

 眠るつもりなどなかったのに、いつの間にと思いつつも周囲を探ると、すぐ近くにセシリアとさして変わらないくらいの歳の女の子が椅子に腰掛けながらベッドに腕を組み安らかな寝顔を晒していた。

 見覚えのない顔に戸惑いを覚えつつも、寝入る前に半日くらいで目的地に着くと言っていたフィアの言葉が思い出される。

 ここはフィアが目指していた目的地だろうと当りを着けた。

 まだ外は夕方だ。この場所にたどり着いてから然程時間は経っていないのかもしれない。

 ベッドから抜け出そうかと思ったが身体の調子は相変わらず不調のままで普段どおりには程遠かった。

 仕方なく小さな溜息とともにベッドに沈み込むと、身じろぎをしたからか、寝ていた少女がぼんやりと顔を上げた。

 薄く開いた目があれ、ここどこだっけ、と辺りを伺い、セシリアを見つけると誰だっけ、に変わり、最後に自分が椅子に座っているのを確認したところで間延びした声を上げた。

「おー」

 セシリアの視線と少女の視線がぶつかると、少女は屈託のない笑顔で笑う。

「起きたー」

 椅子から飛び跳ねるようにして立ち上がり、まじまじとセシリアを見つめるとくるりと身を翻し、小さな足音を立てながら扉の向こうへ駆けていく。

 誰も居なくなった室内で呆気に取られていると暫くして深皿を持ったフィアと、纏わり付くようにじゃれている先ほどの少女が戻ってきた。

「足元にひっつくな、あぶねぇって」

 一見邪険に扱うような言葉だったがフィアが少女を見る目はどこか穏やかだ。少女の方もそれを分かってか離れるつもりはないようだった。

「気分はどうだ?」

 椅子を引っ張ってセシリアのすぐ隣に腰掛けると、少女もすぐ近くのベッドの端に腰掛けた。

「目の前で幼女趣味を見せつけられてげんなりしてます」

「そりゃ良かったな。野菜のスープだ、これなら食えるだろ」

 セシリアの一言を軽く受け流すと持っていた深皿をベッドの脇に備えられた机の上に載せてからセシリアを起こし、片腕で支えつつスープを口元へと運んだ。

 野菜は全て裏ごししてあるのか、具材が見えない変わりにとろりとしている。荒熱を取ってあるのか冷まさなくとも飲み込めるようになっている。

「おー」

 少女は2人の様子を至近距離からまるっとした両目で観察しつつ、感嘆の声を漏らす。途端に見られていたことに気づいたセシリアが気恥ずかしさから目を伏せた。

「エリー、ちょっと向こう行ってろ」

「えー」

 スプーンで入り口を指差し、出て行けと指示するフィアに向けてエリーと呼ばれた少女は不満を隠す事もなく吐露する。

「ねー、フィアとこの子って恋人同士ー?」

 無垢な一言にセシリアは飲み込もうとしていたスープを肺に流し込み思わず咳き込んでしまった。

「だって男の人と女の人がご飯を食べさせ合うのはそういう関係なんだって本に書いてあったー」

 知ってるもんねーと得意げな様子で胸を張る。苦しげなセシリアの咳の音だけがやけに大きく響いていた。

「お前、一体何処からそんな知識を、つーか何の本だそれは!」

「魔法の勉強の時にミリアお姉ちゃんの部屋に行ったら色々見せてくれたー」

「あんの馬鹿……! 子どもに何教えてやがる」

 ミリアはこの場所で魔法を教えている歳若い女性なのだが、歳若さ故に恋愛物の書籍を好む節があった。

 魔法書の調達と称してそういった大衆向けの書籍を購入することもよくあることなのだが。

「いいか、エリーが病気で寝込んで動けない時に誰かが飯を食べさせるだろ、それと同じだ。そういう意味はない」

 きっぱりと言い切るフィアにあわせてセシリアもそうだとばかりに咳き込みながら頷く。

 けれどエリーはどこか納得しきれないのか、疑いの眼差しで2人を見比べていた。

「でもフィアはいつもより優しいよー? 好きな人の前だと男の人は優しくなるんだってー」

 追い討ちをかけるエリーの言葉に、セシリアまで疑いの眼差しをフィアに向け始める。

(なんで女ってのはこうなんだ)

 余計な事に関してばかり異様に鋭い。ぽやぽやしているエリーでさえ2人の間の微妙な空気を感じ取ったようだ。

 フィアがセシリアに優しくしているのは魔法の影響と、彼の言うところの性悪女に諭されたからだ。

 とはいえその事実を知るの者はこの場においてフィアだけである。

「いいから外に出てろ、こいつが飯を食い終わったら俺も出て行く、その後は好きにしていい」

 エリーはまだ名残惜しげにしていたが、フィアを信頼してはいるのだろう、ベッドから降りるとドアに向かって歩いていく。

「分かったー、ちゅーする時は二人きりがいいって本にあったもんねー」

 合点承知とばかりに外へ出ようとしたエリーをフィアが全力で止めたのは言うまでもない。

 結局フィアが食事を与えるところをエリーがじっと観察し続け、セシリアが益々萎縮するという悪循環は深皿の中身が綺麗になくなるまで続けられた。

 

「スープ美味しかったー?」

「一口目は……。それ以降は味がしませんでした」

「そうなのー? ふしぎー」

 食事が終わるとフィアは一人だけでさっさと出て行ってしまった。

 残されたセシリアは初めこそ居残ってあれこれ話しかけてくるエリーをどうしたものかと思っていたのだが、1時間もしない内にすっかり慣れ親しんでいる。

 エリーは子犬のよう、という表現が良く似合う少女だった。

 懐っこい性格は会話にも如実に現れていて心の中にするする入り込んでくる。全く物怖じしないのもセシリアにとって新鮮だった。

 エリーは魔術師として高い素質があるようで、ミリアという教師の下で基礎的な学習を、フィアの下で想像による補正の訓練をしていると話した。

 フィアやセシリアのようにあらゆる魔法を構築するのは無理だとしても、とっかかりを覚えられれば既存の魔法の強化はできるようになるかもしれない。

「セシリアもここに住むのー?」

 他愛もない話をしていると突然エリーが尋ねる。話題がころころと変わるのにも慣れてしまった。

「ううん。戻らないといけない場所がありますから。……でも、どうしたものか」

 帝国と皇国はかなりの距離がある。それなりの船員を備えた船でなければ帰るのは難しい。

 思い悩んでいるとドアが開き、フィアが姿を現した。エリーがすぐに纏わり付くが今のフィアの雰囲気はどこか険しい。


「交渉の前に前哨戦が入りそうだ」

 そうして重苦しい溜息をついた。

 帝国がこの地域に兵を向けたという知らせがつい先ほどフィアの下へ届いたのだ。

 フィアがセシリアを連れ去ったことはとっくに知られているだろう。

「小手調べって所だな、帝国が直接攻撃を指示した訳じゃない。表向きはな」

 フィアとセシリアの戦力がどの程度なのか計る思惑もあるはずだ。

 潰せればそれでよし、フィアとセシリアを回収できれば最早怖いものなど何もない。

 仮にもし潰されたとしても勝手な判断だったと交渉の場を儲けることはできる。

 フィアとて見え透いた口上だとしても帝国を真正面から力技で倒せるとは思っていないのだからひとまずは乗らざるを得ない。

「なんにせよこの戦いには負けられねぇ。敵の兵力はこっちの倍くらいか」

 平地戦は海上戦ほど数の影響を色濃く受けないとはいえ、倍数でも影響がないなんてことはない。

 それでも100と200ならまだ逆転の可能性はあろう。だが4桁単位の倍ともなればまともに迎え撃って勝てるとは思えない。

「何か作戦でもあるの?」

 なればこそ、フィアは相応の作戦を用意しているのだとセシリアは思っていた。

「ねぇよ」

 けれど返答は短い一言。ない。それだけだった。

 部外者には言えないだけかとも思ったがそうではないらしい。

「何かを準備する時間なんざどこにもなかったんだよ」

 つまりは完全なノープランだ。これにはセシリアも目を丸くする。

「逆に聞くが何か方法があると思うか?」

 差し向けられた兵がここに到着するまで長くても1週間は掛からない。

 かといって兵器を作る場所も材料もなければ人員も不足している。

 セシリアがかつて2000の軍勢を撃退できたのは多少の準備期間があり、職人を動かすことができたからだ。

 4万の海軍に勝つことができたのも国全体を動かし人手や材料、手段を確保できたからに過ぎない。

「もとより俺には兵器に関する知識なんてまるでねぇ。できたのは周りに俺と帝国、どっちにつくか脅すくらいだ。これに負ければ今後援軍は見込めねぇが、勝てれば一気に味方を増やせるかもしれねぇ。本当はお前ってカードを帝国にちらつかせて動きを止めつつ周りの国から戦力を引き出す算段だったんだよ」

 当てが外れたとフィアが自嘲気味に笑う。

「私に何をしろって言うの」

「まだ聞いてないのか……。すぐにお前には関係のない事になるだろうから気にすんな。何もしなくて良い」

「なにそれ」

 どういう意味か聞き返したがフィアは何も言わずエリーを呼んで部屋から出て行こうとする。

「待って、まさかその子も戦わせるつもり……?」

「ここで負ければ全部終わる。そうなればこいつらがどうなると思う?」

 それだけ言うと扉が閉まり足音は遠ざかって行った。

 もやもやとした気持ちがセシリアの中に膨れ上がり悶々とするがフィアの言うとおりここは引けない賭けでもある。

 いつの間にか頭の中では勝手にどうすればこの状況を打破できるだろうかという考えがぐるぐる巡っていた。

 火薬は使用不能。道具も開発している時間もない。人数は居るのだろうが兵力は倍差。

 考えれば考えるほど絶望的な状況に無謀という答えしか浮き上がってこない。

 そうして頭を働かせているうちに、セシリアの意識は自然と遠のいてしまった。

 

「片割れか」

 暫く経って夕食を食べられるか聞きに訪れたフィアがベッドでぼうっと天井を見ているセシリアを見て声をかける。

 こうまであからさまに気配が違えばフィアでもどちらが出ているのか感じ取るのは難しくない。

「言わなくていいのか。もう時間はねぇぞ」

 天井を見ていた視線が窓の外に変わる。

『分かってるわ。……言い出すきっかけが難しいの』

 どこか不貞腐れるような気弱な声が漏れた。

 それが普段の彼女のイメージとかけ離れていて、フィアは思わず呆れた声を漏らす。

「恋に悩む乙女じゃあるまい」

 だがフィアに向けられたのは蔑むようなセシリアの視線だった。

『一体私が彼に何度救われたと思ってるの。……好きにもなるわ』

 フィアは軽い冗談のつもりで口にしたのだが、セシリアは何を今更、とばかりに告げる。

「そりゃ、難儀な恋だな……」

 呆然とそう漏らすしかなかった。

 意識は2つあるとはいえ、身体が1つだとどういう恋愛になるんだろうか。フィアにはさっぱり理解できない。

『でもそうね。彼に逢ってくるわ』

 セシリアが目を瞑る。それだけで、彼女が見る世界は一変した。

 

 

 □□□□□□□□□

 

 初めから話すことにしよう。

 かつて、この世界に一人の女の子が居た。

 女の子はある事件で父親を亡くし、その事実を受け入れられなかった。

 悲しみ、嘆き、絶望、沢山の感情がせめぎあい、彼女は一つの可能性を手にする。

 それが概念魔法と呼ばれる、極めて高度な魔法であることを女の子はまだ知らなかった。

 性質は"運命の否定"。

 父親が死ぬことを認められなかった女の子はその幼さ故にか、残酷な運命を真っ向から否定した。

 父親が死なないためにはどうすればいいのか考えた女の子は父親の魂を何かに宿らせる事を思いつく。

 研究を続けていく内に、女の子は高位次元に存在する魂そのものに干渉し、記憶を自由に弄れる術を手に入れた。

 けれど研究の半ばで女の子は危機に立たされ、この能力を応用した賭けを行う。

 今の自分の記憶を過去の自分の記憶に挿入したのだ。

 結果は成功。女の子は3歳の時点で、6歳までの未来の記憶を"思い出した"。

 こうして女の子は自分の力の本質を理解する。

 これは誰かを蘇らせる力などではなく、決定付けられた運命を否定し、やり直すことのできる力なのだと。


 女の子は父親に敵が攻めてくることを伝え、父親もそれを受け止めて対策を講じた。

 3年後、女の子が父親に話したとおりに敵が攻めてきた。

 しかし父親は予め講じておいた手段でもって撃退に成功する。

 女の子は父親の死の運命を回避できたことを心の底から喜んだ。けれど、その瞬間に世界は父親を殺した。

 足を滑らせて、突然の病気で、兵士が裏切って、空から槍が降ってきて、突然燃え出して、挙句の果てには目の前で消滅さえした。

 理由は幾らでも後付された。理解できない原因によって父親は死を回避できない。

 何十、何百という記憶の挿入を繰り返し対策を取っても父親は死に続けた。

 

 でもそれはある意味当然といえる。

 女の子がこの力を手に入れた原因は父親が死んだからだ。

 運命を否定する能力でも、これだけは否定できない。

 

 この事実に気づかされた女の子は、ならばこの地だけはなんとしても守ろうと思った。

 けれど自分の力だけではどうしたって守れない。

 だから高位次元にある他の魂の記憶を頼ることにした。

 優の魂を引き当てたのが一体何度目の試行錯誤の果てだったのか、女の子はもう覚えていない。

 

 

『そして私は、貴方を見つけた』

 突拍子もない話である。けれど、話があると言われて教わった内容を優はすぐに理解した。

 かつて、4万の兵を打ち倒した時にセシリアと始めて邂逅した際、彼女は優の運命を変えられると言っていた。

 優が死んでしまう未来の情報を過去の優の記憶へと挿入することで起こるはずだった運命を回避できると。

 同じことがセシリア自身に対して出来ない筈がない。

 

 膨大な知識を持つ優と出会ってからも困難はなくなったわけではなかった。

 火薬の暴発で瀕死になることもあれば、武器の開発が間に合わず殺されてしまいそうになることもあった。

 その度にセシリアは過去の自分に記憶を伝え、優の深層心理に働きかけては運命を変え続けた。

 試行錯誤を繰り返し、どうにか2000の軍勢を撤退させても戦いは終わらないどころか過激の一途を辿る。

 4万の帝国軍が攻めてきた時、セシリアはもう諦めかけていた。こんなデタラメな相手に何をしても勝てるはずがないと。

 けれど優は諦めることもせず方法を模索して武器と作戦を用意し勝ちうる盤面を作り上げてしまったのだ。

 盤面は上手く動かない時もあった。そんな時はセシリアが力を使い運命を否定する。

 どうしても遠く離れた敵に砲弾を当て危険性を認識してもらう必要が出てきたりもした。

 そうしないと敵は分散し、こちらの作戦が上手くいかないからだ。

 だから何度も運命を否定して、いつどこで、どのタイミングで打てばいいかを模索する。

 些細な必然を幾つも幾つも積み上げて優の作戦は見事型に嵌りデタラメな相手すら倒すことが出来た。

 

『貴方は私に沢山の希望と可能性をくれました。もう十分です。本来の世界に帰りましょう』

 セシリアの物言いに優は不満げに眉を寄せる。

「どうして?」

 優の呟いた疑問に小さな肩が動揺を露にして揺れた。

「僕は前言ったみたいに、この世界の家族も守りたいって思った。今は出来るかわからないけど、皇国を守りたいとも思ってる。それはまだ終わってないんだよね。じゃなきゃ、君がわざとここに来るはずがない」

 セシリアの目が驚きに染まった。どうしてそれを、と声にならない叫びが胸に渦巻く。

「大体分かるよ。僕がフィアを殺そうと覚悟を決めた時、撃ってはダメだって声をかけたよね。あれはきっと、帝国に誘拐された僕を助ける人材が欲しかったからでしょ。誘拐される未来を知っているセシリアがそれを望まない限り誘拐なんて成功するはずがない」

 一字一句をかみ締めるようにセシリアが俯く。いつか言った、自分を騙すのは難しいという一言が何度も胸の内で反芻された。

『その通りです。……ごめんなさい、私はいつも辛い役目を押し付けた。本当はこの力に頼るべきではなかったのかもしれない。私はただ未来が見えるわけじゃないの。体験した未来を過去の自分に伝えることで未来を知っているだけ』


 とある一つの未来がある。

 セシリアは海戦の中でフィアを殺しそこね、仲間が船の爆破に成功するが帝国の軍勢に捕らえられ、手酷い拷問の中で情報を渡してしまう。

 奴隷制度を否定するフィアは用済みとなり多数に被害が出る物の殺害された。

 帝国は遠距離かつ高高度からの爆撃を行えるようになり、数年後、皇国を勢力化に加えてしまう。

 帝国に逆らえるものは誰も居なくなり、絶望の中でセシリアは冷たくなっていく。

 こんな運命、受け入れられるはずもない。

 

 とある一つの未来がある。

 セシリアは海戦の中でフィアを殺し、船の爆破に成功するが同じく帝国の軍勢に捕らえられ、手酷い拷問の中で情報を渡してしまう。

 結局帝国は遠距離かつ高高度からの爆撃を行えるようになり、数年後、皇国を勢力化に加えてしまう。

 帝国に逆らえるものは誰も居なくなり、絶望の中でセシリアは冷たくなっていく。

 こんな運命、受け入れられるはずもない。

 

 とある一つの未来がある。

 セシリアは海戦の中でフィアを殺し、いつかの記憶を基に深層心理から働きかけ逃げ遂せる。

 遠い異国の地でフィアは負け、奴隷制度が復活し、帝国は急速に復興する。

 皇国はセシリアを失い、遠からず帝国にも知られるだろう。

 セシリアの居ない皇国では帝国相手に勝ち目などない。

 こんな運命、受け入れられるはずもない。

 

 とある一つの未来がある。

 セシリアは海戦の中でフィアに捕らえられ帝国に連れて行かれる。

 自身の立場を完全なものにする為に情報を欲したフィアは帝国よりも余程酷い拷問の中で情報を吐かせ、不要になったセシリアを殺そうとする。

 それも、殺された4万の兵の中に居た仲間達の恨みを晴らすかの如く酷く凄惨な方法で。

 こんな運命、受け入れられるはずもない。

 

 幾つもの選択肢を試し、何度も過去の自分へ起こった出来事を伝えた。

 記憶の中にこびり付いているのはいつだって優の悲鳴だ。

 痛みと悲しみと絶望の中でもがき苦しむ彼を見た回数は数えられる限界を超えている。

 セシリアが矢面に立つ事は出来なかった。

 もし度重なる拷問によってセシリアが一度でも壊れてしまえば記憶を過去に伝えられなくなる。

 目の前の現実を"なかったこと"にできなくなる。

 だからセシリアは優と意識を分断して、己の身体に課せられる残虐な仕打ちを見ていることしかしなかった。

 自分の身体でありながら、他人に苦痛を味合わせることがどれ程酷いことか自覚しながら。

 それどころか……。

 

 とある一つの未来がある。

 自ら望んで拉致されたセシリアはあの忌まわしい場所で拷問を受けた。

 1日経ってまだ優は大丈夫だった。2日目も、3日目も大丈夫だった。

 4日目になると動けなくなった。5日目になると錯乱を始めた。6日目に泣きながら情報を話してしまった。

 今回のリミットは5日。フィアに助けてもらう為にはここがどこなのかを特定できる情報が必要になる。

 ここまでくるのにかかった時間、時折見えた景色も伝えれば特定してくれるだろうか。

 どこか冷静に考えながら、過去の自分へと記憶を伝えた。

 

 とある一つの未来がある。

 フィアに情報を伝えたものの、情報は不足していたらしい。

 5日経ってもフィアは辿りつけなかった。これ以上は意味がないから、過去の自分へと記憶を渡そう。

 今回ここに来るまでに見た景色を受け渡せばフィアももう少し早く来れるだろうか。

 そう思いながら過去の自分へと記憶を伝えた。

 

 他人を踏み台にして情報を集め、あまつさえ猶予の時間や繰り返しを前提に物事を考えていた。

 結果的にフィアはセシリアを助けることに成功し、過去はなかったことになった。

 けれど優が苦しんだ現実は確かにそこにあった。例え優が覚えていなくとも。

 

「んー、でもそれ、言い出したのは僕なんじゃない?」

 セシリアは一体何度彼に驚かされれば良いのだろうかと思わずにはいられなかった。

 それは優が知るはずのない記憶だ。確かにあって、でも失われてしまった過去。

 

 とある一つの過去がある。

 皇国に帰っても帝国に攫われても未来がない、完全な袋小路に立たされたセシリアは優に全てを話し元の世界に帰そうとした。

 でも優は諦めることを良しとせず、なら情報を集めるべきだと言い出す。

 他ならぬ、優自身を擦り減らしてでも。

 セシリアがもういいと投げ出しそうになったことは1度や2度ではない。

 その度に彼は何度だって諦めるなと言い続けて、現実的な打開策を見つけ出してくれた。

 それを救世主といわず何と言えばいいのか。

 

 過酷な選択を最終的に受け入れたのはセシリアだ。

 提案したのが優だとしても、それが最低な行為だということくらい分かっている。

 だから何も言わないでいたというのに、目の前で屈託なく笑う優には過去の記憶がそのままあるんじゃないかと思ってしまう。

「分かるよ。もしセシリアが僕を使い潰してでも目的を叶えるつもりならこんな話をしたりしない」

 自分の身を呈してまで守ろうとしてくれる相手を好きになるなという方が無理なのだ。

 

「これから何があるのか僕に教えて欲しい」

 いつかと同じ笑顔でいつかと同じ言葉を告げる。

 でも今度ばかりはどうにもならないと、セシリアは涙を流した。

『運命を否定する力の代償は私の可能性です』

 運命を否定するのに必要なのは未来の記憶だ。何が起こるかを知り、過去の自分に伝えることで運命は否定される。

『人の魂、記憶できる量には限界があって、私の魂はもう限界に達しているんです』

 優が始めて驚いた。記憶を糧に未来を変えるのであれば、いつか限界が来るのは当然といえよう。

 これまでセシリアが過ごしてきた時間は大の大人でさえ手の届かない気の遠くなるような時間だ。

 限界を迎えた魂はそう遠くない未来に崩壊を始め、セシリアを死に至らしめる。

 寿命と言ってもいいかもしれない。

『だから、私がまだ生きている内に元の世界に帰さないとダメなんです』

 好きな人と一緒に過ごせなくなることも、一人寂しく世界で死ぬことも受け入れていた。

 優の役割はセシリアを帝国に送り、フィアに引き渡した時点で全て終わっている。

 ここから先は死なないことを保障できない。優を完全に死なせてしまうことだけは絶対に嫌だった。

 本当は無言のまま勝手に送り帰す事も出来たから、これはセシリアの我侭だ。

 最後くらい本当の気持ちを伝えてもいいだろうと。

『私は……』

「方法はまだあるよ」

 最後になるはずだったセシリアの言葉は優の笑顔によって遮られる。

「記憶の容量が足りないなら増やせばいいんじゃないかな」

 驚きを通り越してぽかん、と優を見ることしかできなかった。何を考えているのかセシリアにも分からない。

 彼はいつだってそうだ。

「魂の制御が出来るなら、僕とセシリアの魂を1つに統合すれば当面の問題は解決する気がする」

 いつかだってこんな笑顔で、遥か斜め上を行く方法を提案する。

『な、何を言ってるんですか! そんな事をしたら魂がどうなるか……。元の世界にだって帰れるか分からなくなります!』

 当然だが優の魂があるからこそ元の優の身体へと帰すことができるのだ。それが一つになったとき、どうなるかなんてセシリアにだって分からない。

「できないの?」

 セシリアは咄嗟に2つの魂を合わせこむ方法を模索して、難しい顔をする。

「できるんだ」

 優には見通されていた。難しいかもしれないけれど、不可能ではないレベル。

『でも、2人の魂が壊れてしまう事だってあるかもしれないのに!』

「セシリアは死にたいの?」

『そんな訳ない!』

 叫ぶようにしてセシリアが否定する。遣り残したことが沢山あるのに死にたい筈がなかった。

 正面に立つ優が予想通りの答えにくすりと笑う。

「僕は手を伸ばしたよ。君はどうしたい?」

 いつか聞いた懐かしい言葉が選択を迫る。でも今回ばかりは頷けなかった。

 拒絶しようとした右手だったが、僅かに早く優によって掴まれる。

「今回は僕から手を伸ばすよ。死んで欲しくない」

 卑怯だと思った。そんな事を言われたらセシリアに拒絶なんて出来るはずもない。

『どうなっても、知りませんよ』

「大丈夫、セシリアなら成功するよ」

 根拠のない自身で笑う優の手をセシリアが取ると目を瞑った。

 重なり合っていた2つの魂が境界をなくし、1つに混ざり合っていく。

「ありがとう、ございます」

 いつかと同じお礼を告げた瞬間、世界は真っ白な光に包まれた。

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