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果ての世界で  作者: yuki
第三部 帝国編
33/56

束の間の休息

 そこに広がっているのは完全な暗闇だった。

 何かを見ることがないということは、何かを知ることがないということ。

 何かを知ることがないということは、何かと係ることがないということ。

 世界が一人だけなら傷つくことも傷つけるっこともない。

 悩むことも悲しむことも苦しむことも、全部ない。

 だから暗闇の中は何もなくても満たされていた。

 ただ一人でこの世界に座り込んでいる誰かは、怯えた小動物のように耳を塞ぎ、目を閉じ、蹲っている。

 いくら耳を塞いでも聞こえてきた甘言は、いつしか聞こえなくなっていた。

 何も知ろうとしなければ、ここはとても暖かい場所になるのだから。

 

 

 *******

 

 

 セシリアの率いる艦隊が帝国の全艦隊を見事に殲滅したとの知らせを受け、王都はかつてないほどの賑わいを見せていた。

 こればかりはセシリアを面白く思っていなかった貴族とて口を開け呆けるしかない。

 彼女の名前は皇国の歴史にこれからもずっと、英雄として刻まれ続けるだろう。

 嫉妬や羨望の対象とするにはあまりにも規模が違いすぎる。

 けれど、当の本人はその事に何の感慨も抱いていなかった。

 いや、抱くこともできなかったというべきか。

 

 艦隊に搭乗していた格の高い士官は王都に凱旋を果たすと派手なパレードを催して誕生祭に似た雰囲気が街を覆っていた。

 けれど煌びやかな彼らの行列にセシリアの姿はない。

 彼女は王城にあてがわれた客室の華美で柔らかなベッドの上で静かに町の喧騒を耳に通していた。

 すぐ傍にはロウェルとシスティアが腰かけ、とりとめのない話を続けている。

 快活なセシリアの返事はない。

 彼女の凛々しさと確かな知性を宿した瞳は、今は何も映すことのない空虚で曇った様な色に染まっている。

 火災旋風によって目論見通り作戦を終えた後、セシリアは身を削るような叫び声と共に意識を失った。

 病室へ運び込まれるが身体的な異常は見つけられず、幸い翌朝に目を覚ました。

 しかしそれから幾ら話しかけても応えることはなく、痛みを与えても反応すら示さない。

 医者にも原因は不明。食事を口元に運べば無意識に食べる事から、生存本能だけは生きているようだったが、あらゆる感情を喪失していた。

 

 医者は原因がわからないといったが、システィアとロウェルにはセシリアがこうなってしまった原因に心当たりがある。

 先の砦の防衛の時に見せた死者を悼んだ顔をロウェルは忘れられない。

 亡骸となった王国の残党はその後セシリアの取り計らいで手厚く葬られた。

 戦争をするのには余りにも脆弱な精神であることは言うまでもない。まして、今回葬ってしまった敵軍の数は4万に迫る。

 その呵責が心を磨り潰してしまった。

 

 セシリアが取れた選択はいくつかある。

 一つはあの声が示したように、国を守る為という大義名分でもって正当化し、ふざけるように軽く受け流してしまうこと。

 それも元来人間に備わっている防御機構だ。辛すぎる現実を受け止めきれないと判断した脳が作り出した防御策の1つ。

 或いはすべてを忘れてしまう選択も、封印してしまう選択もあった。

 けれどセシリアの理性はどれも間違っているとみなし受け入れる事ができず、結果的に全てを拒絶するという選択肢しか取る事が出来なかった。

 

 何も見ない。

 何も聞かない。

 何も考えない。

 ……でも、それでは前にも進めない。

 

 艦隊は殲滅しなければならなかった。

 海上封鎖が行われれば大陸全土に大きな混乱が起こり、受ける被害は数万では済まないだろう。

 それに攻めてきたのは帝国であって、皇国が防衛するのは当然の権利といえる。

 事実、此度の戦に関わった兵の中に歓喜する者は数え切れないほどいるが、後悔している者など誰一人いなかった。

 

 この世界では誰かが誰かを殺すことは酷く身近なものだ。

 貴族同士のいさかいもそうだが、最近まで戦争の真っただ中にあったのだから。

 だから相手に多数の死者が出たとしても気には留めない。心が磨り減るほど気に病むことなどない。

 けれど、セシリアだけは違った。

 

 生まれたばかりの子供を窓のない家から出さずに育て、空という存在について教えたとする。

 その子供は空という存在を理解できるのだろうか。

 言葉や意味を理解することはできる。でも、空という物を思い描くことはできない。本当の意味で知ることは決してできない。

 人は見たもの、知ったものを組み合わせる事でしか想像することができないから。

 空を想像するのに必要なものは"空"だけだ。

 空を知らない人間が初めて空を見たとき、どういう反応をするだろうか。きっと大きな衝撃を受けるはずだ。

 でもそれは悪い物ではない。或いは、感動といった言葉で表すこともできる。

 

 セシリアにもそれと同じことが起きていた。

 この世界の住民は、人を殺すことを仕方のないことだと割り切れる価値観を生活の中で作り上げる。

 でも本来のセシリアの記憶は3歳までで、そんな価値観はまだ育っていない。そこに優の記憶が入り込んだことで、本来生まれるはずだった、人を殺すことを仕方のないことだと割り切れる価値観が作られなかった。

 優としての記憶の中には日本の環境を元にした価値観が形成されていて、全く方向性の異なる概念を許容することは難しい。

 日本では大義があるから人を殺すなんていう状況自体、文字か画面の向こうにしかありえない。

 言葉や意味を理解する事と、本当の意味で知ることが全く違う意味を持つのは、空のない生活と同じだ。

 知らない空を見た事で得られるものが大きな感動だとしたら、数え切れないほどたくさんの人を無造作に躊躇うこともなく惨殺した事で得られる感情はどんなものなのだろうか。

 きっとそれは体験してみない限り、知りようがない。

 

 システィアとロウェルはセシリアに言葉が届くことを願ってたくさんの話をした。

 王都は毎日がまたお祭りのように騒々しいこと。

 歌劇場で新しい作品が公開され、人気を博していること。

 そろそろ風が冷たくなってきて冬の到来を肌で感じ始めたこと。

 誰もがセシリアの帰還を待ちわびていること。

 返事がなくても話題が尽きることはなく、朝から夕方まで代わる代わる話しかける。

 時には国王自らが花を持参したことさえあった。一介の貴族に対する礼としては余りにも過大だ。

 

 当初、力のないセシリアに爵位を与えた事で議会は世襲に傾いていた。

 努力でもって功績を打ち立てる貴族より、親の地位が高かったことで自分の地位が確保され、何の努力もせず腐敗した貴族。

 どちらを取るべきかといわれれば前者しかありえない。でも国王は後者を支えるような決断をしてしまった。

 結果、前例ができたことで世襲派の議員は付け上がり、努力を積み重ねたひたむきで真面目な貴族は国王と袂を分かつ事さえ考えた。

 しかしセシリアは誰も想像し得ないほど大きな功績を打ち立て、逆に世襲を抑える追い風と変わる。

 1度目なら偶然で笑うこともできよう。だが2度目、しかも130の艦隊をたかだか漁船で殲滅するという異例の快挙だ。

 生きながらに伝説として名を連ねたセシリアに文句を言えるものなど、もはや誰も居なかった。

 国王自身もこの機を逃すわけにはいくまいと貴族の腐敗を正すべく奔走している。

 しかしその過程で、どうしてもセシリアに今より高位の爵位を与えねばならないという問題が出てきた。

 功績を遺したものにはそれなりの見返りを与えなければ健気に努力している貴族の士気を削ぎかねないからだ。

 勿論、与える事を躊躇っているわけではない。もしセシリアが健在であれば最上位である公爵の称号を与える事さえ厭わないと国王は思っていた。

 だが、今の彼女ではあまりにも危険が伴う。

 

 セシリアは今政治的に重要な立ち位置に知らずの内に立たされている。

 本人が望まずとも破格の爵位と報酬が与えられることは確定的だし、その申し出を拒否する事は許されない。

 もしセシリアが辞退すれば、これほどの功績でさえ辞退するのだからその程度の功績は辞退するべきだろうという空気を世襲派の貴族に作られ兼ねないからだ。

 功績を打ち立てる貴族の爵位は、悲しいことに高くない。寧ろ低いからこそ努力し上を目指すのだ。

 そんな彼らのやる気をくだらない妄言で邪魔されるのは国王としても許容しがたかった。

 極端な話、まだ7歳の彼女の伴侶となりえればその利権は全て共有されてしまう。

 当の本人に意識が欠落してしまっている今、拐かそうという者が現れないとも限らないのだ。

 実際、ここ最近になってセシリアと自分の息子をくっつけ漁夫の利を狙う貴族は増えていた。

 今のままセシリアに爵位と報酬が与えられればその熱は更に加速する。

 国王としては功労者に鞭を打つ様な真似などしたくないが、状況を理解している一部の世襲派が決断を煽っていた。

 回避すればセシリアに辺境伯を任せた時よりも悪い状況に追い込まれるのは目に見えている。

 先遣隊を配置し、防衛の任を国が管轄する事と慣例により爵位を与える物の、処遇については今後の課題とするという言い訳ができた前回とは違い、今回は報酬を先延ばしにする正当な理由がない。

 そうなれば世襲派は芝居がかった風体でこぞってこういうだろう。

 "この功績をどうして報わないのですか! 国王はこれほどの功績であっても報いるには足らずと申すのですね……可愛そうに、彼等が報われることは今後一切ありえないということですね!"

 病気により療養中というのを理由にしたところで聞くまい。病床ならば尚のこと希望を与えるべきだとか都合のいい事を話すだけだ。


 セシリアの意識がないのが一番の問題だ。

 彼女の言葉が言葉を話せないということは彼女の心を知るすべがないということ。

 下手な貴族が話せないのをいい事にでたらめな法螺話を作り上げ、結託し、彼女を囲うことがないと言い切れない。

 いや、十分ありえる事だと考え、そんな行動をしそうな貴族さえ心当たりがあった。

 忌々しいと思いつつも頭の中ではこの問題をどうにか収められる臨界点がいつなのかを冷静に思考している。

 そしてその時間は余りにも少なかった。

 他に何か伸ばせる手段はない物かと、普段は考えたこともない問題を先送るにする策を巡らせる。

 だが、国王が策を考えるまでもなく問題の方から近づいてきた。……それこそ、嵐のような衝撃を伴って。

 

 

 

 *******

 

 何も聞かなければ何も知らなくていい。何も知らなければ何も考えなくていい。

 ただこうして全てを"なかったこと"にして身を任せていればそれでいい。

 けれど、耳を塞ぎ目を瞑って俯く事で全ての情報を遮断していた所へ、何かが伝わってきた。

 -怖い-

 情報を受け取るのが。

 叫びそうになり、より深い闇の底へ逃げようとする思考を、しかし何かはそっと押しとどめた。

 まるで寄りかかる様に背中越しに伝わってきたのは暖かさだ。

 ほっと息をつけるような、春の陽だまりのような、夏にそよぐ日暮れのそよ風のような、秋に彩られる森のような、凍える冬の朝に差し込む光のような、身近にあって、心落ち着く何か。

 それは体温を伝える以外に何もしなかった。話すことも、動くこともなく。

 抱いていた筈の恐怖は不思議とどこかへ消えていった。

 何もしないのならそれでいい。この闇の中でずっとずっと、こうしていられるのならば。

 

 *******

 

 

 

「帝国の船がこちらに向かっていると、別の間諜からの情報が届けられました……」

 国王の下に届いた知らせは、他でもない、フィアが出陣の準備を圧倒的な速さで整え皇国へ向かい出立したという知らせだった。

 帝国の一般市民の中でフィアはかなり英雄視されている存在だった。性格はどうであれ、数多くの国々を攻め滅ぼし、帝国の名で統一せしめた存在だ。民衆から支持がないわけがない。

 彼が出立することで帝国中祭りのような騒ぎになったらしい。

 そのおかげで始末されなかった格下の間諜であっても情報が流れてきた。

「しかし、何故今更……。そのフィアの艦隊もまた膨大だというのか?」

 国王の問いに情報を持ってきた臣下は首を横に振る。

「彼の率いる艦は戦艦級が1隻、これは相当な大きさらしいのですが、目視することはできなかったようです。それから中ガレオン船の護衛艦が2隻の計3隻との事です」

 正気の沙汰とは思えなかった。先の海戦で漁船には甚大な被害が出たが、皇国にしろ商国にしろ軍艦は一隻も傷ついてすらいない。

 30を越える艦隊にたった3隻で勝負を挑むなど自暴自棄としか思えなかった。

「敵は3隻ということもあり、早ければ1週間で皇国に到着する見込みです」

 国王は今度こそ唸り声を上げる。艦隊というのは出撃にどうしたって準備がかかるのだ。

 事前に作戦を練るにしろ、食料などの物資を積み込むにしろ、人員を確保するにしろ、1週間程度の期間は必要だとされている。

「全軍に伝達せよ、近海の警備を怠るな、敵の移動ルートを見極め哨戒を強化するのだ」

 だが今の皇国はセシリアの作戦の失敗も考慮し、海戦をすぐに行える準備をしていた。

(敵はこちらの準備に時間がかかるとでも思っているのか……? 少なくとも、敵の戦力を把握しない限り状況は見えん)

 間諜の報告がありはしたが、拷問を受けた結果話す事を強要された嘘の可能性だってあるのだ。

 事の次第を知った議会や貴族、海軍までも状況を楽観的に見ているようだったが国王は何故か不安でならなかった。

 セシリアの出来た事を、敵がしないとは限らないのではないか? と。

 国王はあのバレルの不思議な一人娘の姿を思い浮かべ、こんな時に話を聞ければと考えてしまう。

 しかしその考えをすぐに頭から振り払わずにはいられなかった。病床に着いている小さな少女に自分は何を求めているのだろうかと。

 セシリアの存在は既に国王の中で一目置かれる存在にまで成長していた。

 そして、想像という物は得てして悪い方向にばかり当たるものなのだ。

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