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果ての世界で  作者: yuki
第二部 商国編
27/56

果ての防衛

 狭い渓谷の中に入ってさしもの軍も進行速度を弱める。渓谷は防衛に適している為だ。

 空を飛べる魔法は存在していない。制空権は地形によって抑えるしかなく、渓谷は珍しくもその条件を満たす稀有な自然の砦でもある。

 軍もまず仕掛けてくるならばここだろうと踏んでいた。しかし、既に半刻程歩いているというのに落石はおろか人の足跡一つさえしない。

 まさかフィーリルは思惑に気付き兵をそちらに向けたのだろうかと団長は考える。

 ……それもいいだろう。どちらにせよ軍がすべきことは変わらない。商国と成りすまし皇国の地を蹂躙し互いにいがみ合わせる。

 そして出来るであろう隙をつけ狙うのが彼らの目的なのだから。

 

 しかし、曲がりくねる渓谷を抜けて砦が見える最後の曲がり角に赴いた時、彼は言葉を失った。

 ゆっくり、3秒ほど広がる光景に目を奪われてから、はっとしたように全軍を停止させ突撃用の隊列に組み替える。

 騎士を前方に二列、その後ろに魔術師を一列。そうやって交互に層のように兵を配置するペアと呼ばれる隊列で、前方の騎士が魔術師の盾となり後方の魔術師は前方の騎士を補助するのに専念する。

 隙あらば魔術師も魔法を使って敵の魔術師の排除に努め確実に数を減らしていくための、どちらかと言えば突撃の隊列の中では味方の損失を防ぐ守りを意識した形だ。

 団長も先遣隊の個々の能力がずば抜けている事は百も承知だった。しかし彼らとて無敵ではない。複数の魔術師で補助しつつ戦えば互角に持ち込む事は出来る。

 

 フィーリルの砦は脆弱と言っていい。地形に恵まれているのに対し、政治的な問題でさしたる強化も出来ず砦ではなく検問とさえ揶揄されていた。

 故に砦に辿りつく前に攻勢に出ねばならず、その最終関門である砦の前の直線は兵を展開する最後の機会と言えた。

 しかしいざ砦を見れば騎士の姿はどこにも見当たらない。それどころか、もっとも場違いな姿が堂々と鎮座していた。

 軍の前方、砦よりやや離れたこの曲がり角のほど近くに一目で高価なものとわかるウッドチェアとウッドテーブルが武骨な岩肌の上で一輪の花のように美しく咲き誇っていた。

 ウッドテーブルには緑色のクロスがかけられ、その上には涼しげな青に塗られた白磁の茶道具が置かれている。

 そこに座っていた精緻な人形を想わせる年端もいかない少女が、8分目まで注がれた紅茶のカップを手に取ると口へ運んだ。

 その姿は優雅でいて幻の様な儚さも醸し出している。

 団長が今まで越えてきた修羅場の数は多い。荒野で、平原で、山で、森で、それこそあらゆる場所で部下の騎士に指示を出し有効な作戦を練り続けてきた。

 だがその彼とて、こんな奇妙な戦場を見たことなどなかった。

 

 ふわり、と少女の纏っていたドレスが風に翻る。少女が立ちあがったのだという事に気付くのにたっぷり2呼吸ほどの間が必要だった。

 その背丈は余りにも低い。座っていた時よりもなお一層、少女は小さくか弱く見えるほどだ。

 しかし彼とてそう長い間呆けているわけにもいかない。

 数人の兵を引き連れて颯爽と距離を詰めると腰にさしていた剣を抜き放ち無防備な喉へと突き付ける。

 にも拘らず少女はまるで怯える様子もなく被ったドレスハットを脱ぐと立ち上がった。ウッドチェアの上にそっとドレスハットを載せると一礼さえして見せる。

 飾りのついたドレスハットで良く見えなかった髪の色が団長の前へとあらわになり、彼の表情が驚きに変わった。

 彼女の髪の色は世界的に見ても珍しい、温かい紅茶にミルクティーを注ぎ入れたような特徴的な、バレル・ノーティスのそれと同じだったからだ。

 彼の元にもこの地の情報は入ってきている。目の前の少女がフィーリルが辺境伯、セシリア・ノーティスである事は疑いようもなかった。

 ―馬鹿な。なぜ貴族がこの様な危険な場所で一人お茶などしているのだ―

 余りにも奇怪で命知らずな行動のどこにも合理性が見当たらず、団長は混乱した。これは何かの罠なのだろうかと。

「娘、貴様はどうしてこんなところにいるのだ」

 その疑問が、彼に剣を動かすより先に問いを投げかけさせる。

 "想定通り"とセシリアは心中でほくそ笑む。凡そ軍人、特に指揮官と言う物は意外性に弱い。彼らの中の常識を何かが大きく侵害した時、判断力がどうしたって鈍るのだ。

 無理もない。彼らの肩には後ろに続く何千人と言う兵の命が背負われているのだから。

 だからセシリアはこのおよそ戦場にはまるでにつかない奇異な光景を意図的に作り出した。ただ会話をして誑かすその為に。

「この砦を攻めるのを諦めてほしいのです」

 団長はセシリアの言葉に思わず失笑を漏らした。小娘が何を世迷いごとを。

 砦からここまでは距離的にかなり離れている。おまけに砦までの直線には身を隠せるような岩や木はどこにもなく、魔術師や騎士が隠れる事は出来ない。

 今のセシリアには魔法の援護も騎士の護衛もなかった。誰かが微かにでも彼に殺意の刃を向ければ容易く切り裂けるだろう。

 けれどセシリアはその殺意が動く前に手に持ったカップをやや離れた円筒状の物質に向かって投げつけた。

 同時に発動させた魔法によって軌道が微調整され寸分の狂いもなく接触した、瞬間。

 地面から炎の柱が立ち上り、包んでいた鉄を食いちぎるように四散させると、幾つかが渓谷の壁を抉り、残りの幾つかはセシリアと兵士に向かって突き進む。

 それを直前で発動したセシリアの防壁魔法がどうにか阻んだ。

 生まれた爆発と衝撃から騎士の何人かが驚いて地面に転がる。まきおこった熱風はセシリアの髪をたなびかせ、ウッドチェアにおいてあった帽子を空に浮かべた。

「あれと同じものがここにどれだけあるか、見えますよね」

 セシリアの言葉に団長とその周囲の騎士が辺りを見渡して、今度こそ驚愕の表情を浮かべさせた。

 数えるのが嫌になるほどの圧倒的な数が地面中にばら撒かれている。

 もちろんその殆どは火薬の詰まっていないただのダミーで爆発するものではない。けれど彼らがそれを知る術があろうはずがない。

「これだけではありません。この地の地面にも、同じものが大量に埋まっています」

 淡々と無表情でセシリアが告げた。もっとも、こんな硬い岩盤に穴を掘って地雷を埋めることなどできない。

 セシリアの言葉は完全なブラフ、はったりだったが団長は事もなげに言うセシリアに苛立たしさを隠す事もなくギリリと強く歯を噛んだ。

 だが彼も軍を率いる団長だ。同時に冷静に頭を回転させる事を忘れない。

 なぜ、この少女はそんな大切な事をこちらに教えたのか。

 あんな魔法は見た事も聞いた事もない。場合によっては大して気にせずに突撃し、多大な被害を被っていた可能性だってあるのだ。

 守るために用意した布石をそう簡単に教える事に意味があると言うのか。

 しかしその思考はセシリアによって寸断される。

「私は誰も殺したくありません。傷つけるのも傷つくのも、どちらも好きではないのです」

 剣を向けられて動じない様とは余りにかけ離れた、いっそ笑えるくらい子どもの思考だった。

 そう告げるセシリアの瞳には深い憂いと揺るぐ事のない決意を秘めているようでもあった。

 だからだろうか、団長はその言葉を笑い飛ばす事が出来なかった。現実味のない理想論が叶う事はないだろう。でもそれが"理想"である事を否定できない。

「それをこちらに話して、諦めると思ったのか?」

「諦めてほしいと思っていますが、きっと無理でしょうね。貴方がたにも理由があるのでしょうから」

 目の前の少女は一体何者なのかと団長は不思議に思った。子供らしい理想論を唱えるようでいて、こうして現実も見えている。

 いや、それは今必要な情報ではあるまいととめどなく浮かぶ想像をからっぽにした。今すべきことはこの砦を落とすことだ。

 彼は気づかないうちにセシリアの持っていた不思議な雰囲気に飲まれつつあった。


「団長、我々には時間がありません。どんな魔法か知りませんがこちらの数は2000です。あの程度の魔法、我々に何の意味もない事を証明して見せます!」

 その時、彼の周囲にいた一人の若い騎士が意味もない会話を続けている団長とセシリアに我慢できないといった様子で叫ぶなり、腰に下げられた剣を抜き掲げた。

 王国の軍には動作で後衛の魔術師に指示を送る為の型が存在している。

 剣を空高く掲げるのは突撃する、支援を行えの意味だ。そして向かったのは、セシリアが設置した地雷原。

「っ! ダメ! 止まって!」

 走り出した彼に向って放たれたセシリアの甲高い叫び声は酷い憔悴が入り混じっていて、まるで敵軍を心の底から心配しているようでもあった。

 それに釣られるようにして団長もまた止まれという鋭い叱責を飛ばすが、若い故に少々突っ込むきらいがある彼は止まらない。

 足元に転がっていた地雷の一つを大して気にも留めず右足で思い切り踏み込んだ刹那、再び爆音が渓谷を揺らす。

 防御魔法によって幾重にも守られていたはずの彼は眼を見開いて、時間を巻き戻すように空を飛んだ。

 十数メートルも後ろへと吹き飛ばされた彼は数度跳ねるようにして転がる。何事かと起き上がろうとして、しかし彼の右足は無残にも千切れ5メートルほどの距離を置いて転がっていた。あるはずの足が地面を捕らえられず、彼の瞳に困惑と絶望が浮かぶ。

 即死はしない。ただ、大怪我を負うだけ。

 そこに慈悲などない。あるのは戦場で動けない怪我人を量産する事で戦える人員を減らすという悪魔じみた合理さと計算だけだ。

 千切れた右脚からは一定のタイミングで大量の血液が飛沫を散らしていた。

「早く手当てを! 患部の圧迫と止血をして!」

 セシリアの悲鳴に似た声によってようやく何人かが我に返り慌てたように彼に処置を施す。けれどその処置は患部を魔法によって焼き固めるという想像を絶する治療法だ。

 この世界にはまだ外科的な治療法が確立していない。作りだされた炎が彼の足に触れると背筋が凍るような絶叫が渓谷に反響した。

 立て続けに数度、セシリアの口から呪文が紡がれる。数秒の内に叫び声を上げていた彼の意識は深い眠りへと落ちて行った。

 

 団長は一連の経過をどこか現実離れした夢を見ているようだと思った。彼に後方の魔術師3人が防壁魔法を発動したのをしかと見ている。

 一人に行うには手厚すぎる防御魔法を、それこそ紙のように突き破った未知の攻撃魔法。

 そしてどういう意図か真っ先に助け船を出した揚句、大怪我によって負傷した兵士に眠りの魔法をかけて治療の痛みを鎮めた少女。

 彼女の行動に合理的な意味を何一つ見出せなかった。戦場で敵兵の心配をする馬鹿がどこにいるというのだ。

 それともまさか本当にこの少女は子供じみた理想を叶えようというのだろうか。

 何にしても状況が不利だという事を団長は痛感した。しかしまだ可能性はあるとも考えている。

 それはきっと、戦場で敵の兵すら助けようとした彼女とは凡そ正反対の作戦だ。だが団長も個人的な理想の為に動いているわけではない。

 

 団長は既にセシリアが民を纏める領主としては余りにも甘すぎる存在だという事に気づいていた。

 そして甘い人間が引き連れるのもまた酷く甘い人間でもある。

 辛そうに治療中の兵士を見つめているセシリアに団長は音も立てずに忍びよった。そして左手で彼女の口を押さえて右手で剣を喉元に突き付ける。

 これだけの魔法をセシリア一人で行っているわけがない。ならばおそらく、あの砦には制御している兵が居ると考えたのだ。

 そこにいる誰かに見せつけるように、団長はセシリアを連れて地雷原の直前まで進むと渓谷に響き渡る大声で呼びかけた。

「姿を見せろ! こいつが大切ならここにかけられている魔法をすぐに解除しろ! 俺たちの目的は皇国に逃げ散らばる事だ、もし通せば危害は加えないと約束しよう!」

 団長の声は風の魔法によって遠くまで運ばれていく。間をおいて届いた彼の声によって遠くの砦の最上階に何人かの騎士が姿を見せた。

 団長はそれを目を細めて確認すると後方の魔術師に合図を送り魔法によって視界を強化させる。

 すると霞んでいた兵の姿がどうにか視認できる程度の大きさに切り替わった。

 姿を見せたという事は要求をのむつもりだろう。やはり甘いと団長は嘆息を漏らした。

 戦争に私情を持ち込んだ時点で勝ち目などなく、負ければ死しか残らない。

 当然彼は要求が通った暁には全ての兵と民を一人残らず殺して回るつもりだった。約束を守るつもりなど始めからありはしない。

 それが戦争という物なのだから。

 

 だから再び、今度は遠くからの爆音が響き、数拍の間を持ってすぐ近くの渓谷の一部が崩落した時は、さしもの彼も再びの驚愕に慄くしかなかった。

 ―奴らは一体、何をした―

 魔法は距離によっても威力が減衰する。それに、これほどの距離から魔法を発動させることなど聞いた事もない。

 かつて死神と呼ばれたバレルでさえ、これほど離れた場所から魔法を使った事はなかったはずだ。

 その砦がまた同じ爆音を奏でる。今度は先ほどより近い背面で渓谷が崩れた。巻き込まれた人間はいなかったが、振り返れば壁には放射状の罅が入っており、攻撃の壮絶な威力を物語っていた。

「馬鹿な……! 領主がどうなってもいいというのか!」

 セシリアの口を塞いでいた左手が離れ、華奢な右腕をがっちりと掴んだ。万力のような力にセシリアの顔に苦痛が浮かぶ。

 そして剣を高々と振り上げ、少女に振りぬく直前でその動きを止めた。

「攻撃を今すぐ止めろ!」

 その返答は、再びの爆音。セシリアは彼らに何があっても砲撃を止めないように強く命令していた。

「できるなら人を殺したくありません」

 唐突に、しかし芯のある凛とした声でセシリアは告げた。

「でも、フィーリルの為に犠牲になる事は厭わない」

 団長の顔に、初めて焦燥の色が浮かんだ。

 目の前の少女は他人に対しとてつもなく甘い。だが、その反動のように自分に対しては真逆、あまりにも厳しい。誰かの為ならば、自分の命さえ厭わない輩ほど恐ろしく、何をしでかすか分からない相手は居ない。

 いつしか団長は年端もいかぬはずの少女にある種の恐れすら覚えていた。


 それに、先ほどから降り注ぐ魔法攻撃は間隔さえ長い物の威力でいえば地雷よりも遥かに高い事に団長もとっくに気づいている。

 魔法で防ぎつつ敵をいかに減らすかが戦争の基本。しかし今ここで行われてる戦争は従来の物とは全てが違う。

 魔法で防ぎようがない攻撃の中を突き進み、自軍の死体をうず高く積み上げなければ至る事が出来ない。

 団長からしてみれば、これほど強力な遠距離攻撃をしてくる魔術師と騎士による近距離の戦闘がさらに想像を絶するのは当然と言えた。

 それが実は魔法も使えない新米の騎士だなんて微塵も思わないだろう。

 それでもなお攻めるべきか、或いは目的は達せられたとみて引くべきかを団長は逡巡する。

 その小さな隙をセシリアは見逃さない。

 繋がれていた団長の手に向けて魔法を放つと彼を吹き飛ばし自由を得る。

「ええい……魔術師部隊は地面を攻撃し道を作れ! 理由は分からんがあの物体が魔法の起点だ!」

 数限りない情報から団長は最も合理的な指令を下した。その賢明さにセシリアは舌を巻くが、彼女とて何もしないで見ているわけではない。

 呪文を唱えた魔術師に向けて、片っ端からロウェルに使った発声を阻害する対魔術師用の魔法を連発する。

 十、二十発とサイレンスの魔法を使うたびにセシリアの動きは鈍り続ける。

 それほど大きな魔力を使う訳ではないが、とても全ての魔術師を沈黙させることなどできない。

 だが突然呪文を唱えられなくなった魔術師は大きく狼狽し、それに引きずられるように混乱の波が広がる。

 降り続ける大砲の弾丸は徐々に正確さを増していた。ついに1発が魔術師の集まる一角に突き刺さり数人の死者が出た。

 それによって混乱の波は狂乱へと変わった。姿なき敵に一方的に蹂躙される恐怖はいかに訓練を経た兵士であっても耐えきれるものではない。

 一度混乱した軍隊の統率を再び取り付けるのは難しい。ここで引けばもう攻める期はないと知りつつも団長は撤退命令を出さざるを得なかった。

 このままでは全滅させられるのは彼らなのだから。

「全軍撤退! 渓谷を抜けろ、急げ!」

 団長のどなり声を皮切りに2000の軍が我先にと渓谷の奥へと走り去る。

 しかし隊長はその瞳をセシリアに向けたまままだ逃げようとしていない。


 この時点で、セシリアの一つ目の賭けは勝利に終わった。

 だが何の庇護もなく無防備な姿を晒しているセシリアを敵が斬りつけることなど容易い。

 セシリアと団長の視線が交差する。セシリアはもう団長を止められるほどの魔法を使う余力を残していなかった。

 慣れない、運動に不向きな服装に加えて連続での魔法の使用が多大な負荷となって肩で荒い息をしている。

 団長がゆっくりとセシリアの元へと近づいた。

 皇国に侵入することは叶わなかったが、領主である少女を殺せば少なくとも多少の諍いの原因にはなるだろう。

 既に軍の大部分は撤退が終わっている。地雷原のすぐ手前には、もう団長とセシリアしか残っていなかった。

 彼の腕がセシリアの頭上に降り上げられ、陽の光を浴びた剣が光を反射する。

 セシリアは力の入らない足で大地を踏みしめて精一杯後ろに跳んだ。しかしそこにあったのはセシリアが座っていたウッドテーブルだ。

 盛大な音を立ててテーブルと一緒に後ろ側へと回転するように転がり、重いテーブルが上に被さって身動きが取れないセシリアを見て団長は口角を釣り上げる。

「終わりだ」

 とどめをさす為に一歩踏み込んで、その足が微細な砂の感触を捕らえた。その感触にふと違和感を覚える。

 この渓谷に、この様な砂などあっただろうか。ちらりと足元を見ればウッドチェアとテーブルに隠れるようにまっ黒な砂が撒かれていた。

 瞬間、彼の今までの経験が第六感として危険を告げる。これ以上の追撃は危険だと。

 本能のまま反射的に彼がさっと飛びのいた、瞬間、目の前に猛烈な火の手が上がり、視界を真っ白な煙が覆い尽くす。

 完全に姿を見失ったことに舌打ちが飛んだ。煙を超えてみるべきかと逡巡しながら息を浅く吸い込むと思わず咳込むほどの酷い臭いに気付かされた。

 同時に喉と目の痛みを感じ、まさかこれが毒霧の類なのかと疑う。

「私が意味もなくあんな服装をしてると思いましたか? さて、ここで問題です。服の下には一体何が隠されていたでしょうか。ヒントは周囲にばら撒く物、ですよ」

 そこへ追撃するかの様なセシリアの悪戯っぽい声と何かが転がる音が響いた。

 団長の脳裏に浮かんだのは若い騎士の足を吹き飛ばしたあの魔法だ。

 普通ならあの威力の魔法をこんな間近で使えば自分も被害を被ると考え使用しないだろう。

 しかし先ほどの問答でセシリアなら何をしでかしてもおかしくないという印象を深く心に刻みつけられてしまった。

 団長は苛立たしげに手にしていた剣を思い切り投げつける。

 足元の安全さえ確保できず毒霧まで撒かれたとあっては先へ進もうという気が起ろうはずもない。

 がむしゃらに投げつけた長剣は僅かに岩肌に突き立つ様な音だけを残して沈黙した。確信する。あの少女には当たっていない。

「隊長! 急いでください!」

 背後から彼の部下が最後に残った団長を大声で呼んだ。砲弾がまたいくつか渓谷に突き刺さり、岩を砕き落下する音が轟く。

 このままのんびりとしていたらいつあの強力な魔法に撃ち抜かれるか分かったものではない。

 未練がましく煙を眺めてつつも、結局は踵を返し部下の元へと走るしかなかった。


 どうにかして煙が晴れたころ、セシリアは煙の向こうで動けずにへたり込んでいた。

 ウッドチェアとテーブルの下に隠していたのは圧搾していない点火用の黒色火薬だ。軽く巻かれた火薬は爆発ほどの速度で引火せずに緩やかな燃焼をおこない、猛烈な白煙を吐き出す。

 後はぎりぎり残しておいた魔力を使って風向きを調節して相手の方向に流し込めばいいだけだ。微風であっても煙は流れてくれる。

 これがセシリアの行った2つ目の賭けだった。自分が生き残れるかどうか。

 一つ目の賭けが会話に引きこみ不利を突き付ける単純な物だったのに対して、二つ目は運に左右される。

 全軍がセシリアに向けて魔法を放とうものなら今頃彼女は消し炭に変わり果てていたのだから。

 今回セシリアが生き残れたのは本当にただ運が良かっただけだ。

 その何よりの証拠が、彼女の足元に突き刺さった剣だ。

 ドレスの裾を大きく切り裂き地面を穿っているそれがもう20センチ程ずれでもしていたら串刺しになったのはセシリアの方なのだから。

 まだ生きた心地がしていない彼女に、砦から一人の人影が近づいてきた。

「セシリア様!」

 ロウェルは突き立った剣を見つけると悲痛な叫び声をあげる。

「ロウェル!? ちょ、ちょっとまって! まだ魔法具の発動が……」

 地雷に仕掛けられた魔法具は予め込められたセシリアの魔力によってまだ稼働を続けている。にも関わらず、少しの恐れもなくロウェルはセシリアの元に駆け寄ると突き立っていた剣を抜きとった。少し遅れて魔法具の起動が解除される。これで全ての地雷はただの鉄の箱に変わり果てた事になる。

「お怪我はありませんか!? 腕は、脚は! 切り傷が出来ているではないですか! 早く砦へ、治療を行います」

 セシリアの肌には近くに落ちてきた砲弾が砕いた岩肌によって気づかぬうちに幾筋もの血が流れていた。

「大袈裟です。私は大丈夫ですから」

 そう言って立ち上がろうとして、しかしずるりとその場に崩れ落ちた。

「セシリア様!? ……失礼します」

 起き上がれないセシリアをロウェルが抱き上げる。膝と肩に手を通す絵本の王子様が良くやるあれだ。

「ちょ、ちょっとロウェル!」

 焦ったようにセシリアが暴れるがロウェルに離すつもりは全くなかった。こうしていないと、また腕の中の主人がどこか遠くへ行ってしまうような気がして。

 ふと、暴れていたセシリアが急に静かになった。諦めたかと思って顔を見れば、その視線は渓谷の一点に注がれていた。

 追いかけるようにそちらを見れば、そこには無残な死体が幾つか転がっていた。ばらばらになった体はもう誰のものかも分からない。潰れ千切れた肉の塊と夥しい量の血液が岩肌を悪趣味に飾っていた。

「私は、誰かを殺したんですね」

「……そうしなければ、殺されていたのは我々です。セシリア様は、我々がああなったほうがよかったと思っているのですか?」

 ロウェルの問いはとても優しく、同時に卑怯でもあった。セシリアがそういう事を言いたいのではないと理解した上で是としなければならない問いを発したのだから。

「そう、ですね」

 それに対して、セシリアは頷く。

 力を持つという事はこういう事だ。防衛力を高めるというのはいざという時に圧倒的な力で誰かを殺すという事だ。

 そんな当たり前のことをセシリアはどこかで理解していなかった。

 でもロウェルの言うように、備えなければ良かったのかと問われれば否と応えざるを得ない。

 フィーリルを守ったのはセシリアの功績である事は疑いようがない。

「ままならないですね」

「世界とはそういうものですから」

 淡々とロウェルは応える。せめて主人の心に傷を残さないように。

 7歳の少女に、或いは平穏な世界で誰かの死にすら触れた事のなかった少年に、誰かを殺すことの重みを受け止める事なんて、まだできない。

 戦争とはそういうものだ。どうしようもない理由で人が死ぬ。

「大丈夫です。もしセシリア様が道を間違えたときには、私とシスティア様がきちんと止めて見せます」

 ロウェルの腕の中で、セシリアは一度微かに微笑んで、そのまま静かに瞳を閉じた。後には規則正しい寝息が続く。

「本当に、お疲れさまでした」

 ロウェルの声に、今度は反応がなかった。

もう少しで第二部は終了、今回の事件をきっかけに戦争の規模は肥大の一途を辿ります。

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