小人の旅<FA:萩尾滋さんから>
わたしはどうやら親指ほどの大きさの小人らしい。
ゆるりとした百日紅のような木肌を滑り降りると、危険を避けるためイソギンチャクみたいな植物の下へと身を潜める。
八方に伸びたその植物は透明な葉先からねっとりとした乳白色の毒の滴を飛ばしていた。
触れたら肉がすっかり溶けてしまう猛毒だ。
どうにか傘の下へ入ってほっと一息つく。
あたりはいつでも暗く湿っていて、びっしり生えた苔で滑っている。
毒の届かない湿った淀みには大概危険なカニが潜んでいる。
このままではジリ貧だ。
どこかもっと安全な場所を探さないと。
木のうろの奥にぼんやりとした光が見える。
光なんか届くはずもない場所。
わたしはそこへ潜り込むことにした。
穴を滑り抜けるとそこはいきなり排水路の上だった。
ギリギリ縁に足をかけ落下せずにすむ。
鼻先にいきなり水が滝のように降ってきてぞっとする。
見上げみた先はマンションのベランダ。
建物の端から重くなった滴が垂れただけだ。
わたしがあまりに小さいからそれが滝みたいに見えるだけで。
滴はオーロラみたいに帯状の膜になってぶら下がっている。
変な形だ。
どこかの時点で重みに耐えきれなくなってちぎれ落ちるらしい。
この世界に水というものはなかったので、危険なものかと思っていたが飛沫を浴びてもなんともない。
キラキラしている。
美しく清浄で、これは良いもの、宝物だと直感する。
見惚れる。
唐突に、落ちていく滴がわたしに話しかけた。
「わたしを追って降りれば、それはたくさんの水があるよ。流れ込む水路があるからそこまで来なさい」
わたしは言葉通り水路を目指した。
水路では真っ赤な目のカエルが泳いでいる。
変なところに顔がある。
背中の上の方に子供が鉛筆で書いたようなまん丸な目が二つ。
一本の線で書かれた口は背中の中央にある。
話しかけてきたのは滴ではなく落ちると同時に飛び込んだカエルだったのだ。
水路にはめちゃくちゃ大きな金魚が泳いでいる。
ちがう。
わたしがちいさいのか。
水は淵まで目一杯であふれんばかり。
白地に赤と黒の斑の、振袖のような華やかな尾鰭を持つ金魚は美しい。
手を伸ばし触れても知らんふりでたくさん撫でることができる。
暴れたり逃げたりしない。
何も感じていないのかもしれない。
カエルはとても小さくてわたしとそう変わらない大きさだ。
ちがうわたしがカエルのように小さいのか。
いや、どちらも小さすぎる。
カエルは器用に金魚の背中を渡り泳いだ。
その先で犬が泳いでいる。
波一つ起こさない優雅な金魚と違って、犬はひとかきひとかき大きな飛沫をあげている。
カエルは犬が怖いよう。
マンションから水滴が垂れ落ちると水が揺れる。
犬が泳ぐと尚更大きく。
カエルは犬が怖いんじゃないな。
水面が揺れるから警戒しているんだ。
小さすぎるカエルは大きなしぶきがかかると流されてしまうもの。
淵を歩いて追っていたわたしは赤目のカエルをうまく傍の水路に逃してやろうと思う。
滴の落ちた勢いを使って、カエルを引っ張りあげ、傍の水路へ流してやる。
空を舞い、ぽちゃりと落ちて流れていく。
「ありがとう。水路のことを教えてくれて」
手をふるも表情一つ変えることなくカエルは流れる。
きっとカエルの顔は子供が描いた絵だから動かないんだ。
どこまでも流れて小さくなる。
本流では飼い主の女性の姿を発見した犬が水から這い出て、水路脇を歩いていた。
草に隠れて追いかけるとなぜか犬は飼い主から気が逸れて、水門にかかったチェーンを咥えて自分から絡まった。
回転するタイヤの遊具で遊ぶ子供みたいにチェーンを巻いて解ける勢いで犬はぐるぐる回った。
同じ刺激を何度も自分に与えて興奮している。
ちょっと怖い。
飼い主のたんぽぽ色のアンサンブルを着たおさげの女の子が近くで草を摘んでいる。
赤い縁のメガネが似合っている。
犬は飽きるまで放っておくつもりのようだ。
彼女の手にした草は、花も蕾もないただの雑草に見える。
けれど彼女はいい匂いとばかりに、花の香りを嗅ぐように草に鼻を埋めてうっとりしている。
変な人、変な犬。
わたしは元の金魚の住まう水路に帰ることにした。
少し水量の減った水路の淵に腰掛け、マンションから水の膜がちぎれ落ちてくるのを見る。
「わたしは一人、こんなところまで来た」
毒に塗れた危険な世界から、はるばるこんな美しいところへ。
滝を眺めるように、順々に滴が垂れ落ちるのを。いつまでも眺めていた。
20191126




