山頂の廃校<FA:萩尾滋さんから>
またしても山道でガイドの仕事をしている。
この山では廃校が山小屋として活用されているらしい。
ガイドするルートは二つ。
麓の登山口からA校舎。
それからA校舎から山頂付近のB校舎を経て頂上まで。
B校は煉瓦造りの20以上の部屋を持っているそこそこの中規模校だったらしい。
多くの登山客が昼過ぎに到着しここで宿泊して、翌朝稜線を辿って縦走し、もう一泊して下山する。
麓から少し登ったところにあるA校は、木造の簡易的な造りだ。
分校だったのかもしれない。
ここに泊まるのは、大概早朝ここから登山を開始し山頂には泊まらず、すぐに下山するシビアな日程のグループだ。
校舎を見ると、何故麓より山頂に近い学校の規模が大きかったのか、と不思議に思う。
つまりかつてはこの山頂近くに大きな集落があったということになる。
しかし集落の跡は見つかっていない。
そもそもどのような経緯で何を中心にしてここに人が集ったのか。
ガイドの誰も知らないのだ。
B校舎へは登山道の他に車道からも入ることができる。
紅葉のシーズンなので校庭は観光バスや車、人々でごった返している。
B校舎でけが人が出たと無線が入り、ガイドたちはばたばたと慌ただしくなる。
ここの医療スタッフはゴリラなので、珍しがって人が集まってくる。
道を塞がれては対処が遅れてしまう。
私たちガイドが登山客を誘導し、道を確保しなければならないのだ。
ゴリラは倒れた人を片腕に抱えて山頂の方へと運んでいく。
軽々と片手に抱えて飛び去る様子は、あまり患者を丁寧に扱っているようには見えない。
校舎のまだ向こうにゴリラたちの集落があり、そこで人は癒されるらしい。
傷の癒えた人は自身で校舎のあるところまで山を降りてくる。
どんなひどい怪我や病気であっても必ず翌朝には戻ってくるのだ。
下山は大概朝靄の中だ。
何があったのか、どこにいたのか、どんな治療を受けたのか、下山してきた人に皆が群がる。
私たちガイドも話を聞きたいと思う。
誰もゴリラのことを何も知らないから。
下山してきた人は話しかけられると、自分で山を降りてきたくせに、たった今目覚めたような顔をする。
皆自分が怪我をしたことすら忘れている。
当然ゴリラのことも覚えていない。
私は思う。
もしかしたらこの立派なB校舎は、ゴリラたち山の人の学び舎だったのではないか?
校舎だけを残し、周囲のどこにも集落の跡が見つからないのはそういうことなのではないか、と。
20191030




