風来坊
東京に到着したのは深夜二時だった。
だから時間を潰してからきたんだ。
悠二はそう言って上がりこんだ。
時計を見ると朝の八時。
ひとまず化粧を終えていて良かった。
もっと言えば排便も洗濯もすんで、何もかもすっきりした所だった。
人を迎えるには危なげないタイミングではあった。
悠二が上がると胸が悪くなるような苦い匂いが鼻についた。
ブロッコリーのように精力的に盛り上がり、次々に空気中に胞子を放つカビの塊。
それをまるっと飲み込んでしまったようなひどい匂いが、肺を真っ黒に満たす。
お土産、と押し付けられたシワシワのビニール袋には、ザビエル饅頭と書かれたこれまた折れた包装紙にくるまれた箱がひとつ。
大分。
俺、今大分にいるんだ。
悠二の言葉をああそう、と流すと、お土産を裏返し賞味期限を確認した。
生ぬるいそれを袋から出して冷蔵庫に放り込む。
まずは風呂に入ってくんない、と急いで浴槽に湯を張りに走る。
近いうちに寄る、と聞いていたから新しい石鹸を買い足しておいたんだ。
準備に抜かりはない。
遥希は、と悠二は部屋を見回すが、そんなの仕事に決まってるじゃないか。
今家を出たばかりだよ。
と控えめに答える。
君と違ってさ、もう少しだけ私の夫は普通なんだ。
決まった家があって、決まった仕事があって、毎日同じ場所へ出かけていくくらいには。
私だって同じ。
たまたま今日が午前休だったってだけの話で。
これは心の中だけのつぶやき。
悠二は目を瞬くとそうか、と少しだけ気まずそうな声を出した。
さあさあ、とまだ湯の溜まりきったわけではない風呂場へ悠二を誘導する。
何をおいても風呂なのだ。
悠二が動くたび部屋中にカビの匂いが転がっていくようで目がしみるから。
このままじきにばら撒かれた胞子があちこちで芽吹いて床材の奥まで匂いが滲みこんでしまうんじゃないか。
カビの根が部屋を包む空想に、グッと奥歯に力がこもる。
悪いねと、心にもないような言葉を口にして悠二は脱衣所の扉を閉めた。
私はほっと一息つきダイニングチェアに腰掛けると、遥希に”悠二到着”とラインを送った。
悠二は少し前まで鳥取にいた。
その前は長崎。それから高知。
何をしているか、知らない。
住所もわからない。
数ヶ月前に悠二からお守りが届いた。
安産のお守り。
その時の住所は京都だった。
定形外郵便で届いた茶封筒の差出人欄は京都府、までで終いだった。
何年か前に京都にいた時は、外国から来た男達が借りている部屋に時々転がり込んで暖をとってると言っていた。
彼らの素性は知らない。
そもそも彼らもひとかたまりではないんだ。
たまたまそのうちの一人とどういうきっかけか懇意になって、時折まぜてもらうということらしい。
お守りをくれた時もそうしてしのいでいたんだろうか。
悠二に決まった家なんかどこにもない。
どこででも眠り、風呂なんかめったに入れなくて、仕事はあったりなかったり。
だからいつもあんなに酷い匂いがするんだ。
飯はどうしてるんだろう。
血が煮え立ちそうなくらい暑い日は?
皮膚に霜がおりそうなくらい凍える夜は?
私の空想なんて届かないことばかり。
悠二の移動手段はヒッチハイク。
だからいつも到着時刻なんてわからなかった。
わかるのは
近々悠二が寄るって。
遥希からそう聞かされたらじきに悠二が現れるってことだけ。
そしてそれは生きてたな、という安堵とともに語られる。
私がはじめて悠二と出会った時、悠二は二十歳の大学生だった。
それから何年も留年し、卒業をしたかどうかもわからないままいつの間にか悠二は風来坊になっていた。
その間に私は卒業し非常勤ながら仕事について学校の代わりに毎日を職場で過ごすようになった。
共通の友人だった遥希と結婚し、今から半年もしたら子供が生まれることになる。
変わらないのは、悠二だけ。
私は、進んでいる。
ほんとうに?
ふと目をあげると11時、出勤の時刻になっていた。
悠二は、まだ風呂場から出てこない。
不安になって声をかけるも返事はなかった。
意を決して扉を押すと悠二は浴槽で眠っていた。
貝柱を押し上げるように張り付いた瞼を押し上げ、むくんだ顔して悠二は謝った。
私ももう仕事だから、寝るんなら風呂を出てからにしなさいね。
遥希が五時には戻るって、言ってたから。
そう言い残すとフラットシューズに足を差し入れ部屋をあとにした。
鉄製の扉の閉まる大げさな音。
凛とした外の空気。
高い空。
どう生きたらいいのかわからないのだ。
どうやって……。
冷たい空を見上げた。
初めて巣立つ若鶏のぎこちない羽ばたき。
どうしてだかいつまでもしっかりしないで気づくとぽっかり浮いている。
繋がり方がわからずに、知らず取り残されて。
みんな行ってしまう。




