6・旅路への道のり
ポチャンッ
掬った水が音を立てて落ち、円形の波を水面に広げる。
わたしが今いるのは大神殿の敷地内、禊の泉の中だった。
帰還の術の行使に入ることを知ったサイラスさんが勧めてくれたのだ。
「異界との交流の術である召喚の儀を行う際は身を清めるのが習わしです。それは帰還の術とて同じ。不浄を払い、綺麗な身で行うと良いでしょう。コザルとて色々と思い悩むことも多々あるでしょう。頭を整理する意味も込めて、禊をなさい」
相変わらず扱いはコザルだったけれど、わたしを気遣ってくれているということが心配そうな表情から見てとれた。
王侯貴族も使用するというこの泉を使わせてもらうのは恐れ多いと思って一旦は辞退したけれど、
「貴女は王都の危機を救った3人のうちの1人。泉を使うに十分値しますよ。それとも、私の厚意を受け取れないとでも?」
と凄まれたので、ありがたく使わせてもらうことにした。
泉の水は不思議と暖かく、日溜まりの匂いがした。
昨日、お父さんがいる客室を出てからのことを思う。
「もう、聞いているの!? ワタクシ正直反対よ。いくらお父様の為とはいえ、その身を捧げるなんて」
昨日の午後、淑女らしからぬ鼻息の荒さでわたしに詰め寄ってきたのはカレンお嬢様だった。
お父さんの体のこともあり、翌日には術の行使に入りたいと申し出たわたしに師匠は言った。
「それなら、自分の親しい者達に暇を言ってきな。急にいなくなったら、奴らこの家に押しかけてきて煩いからな」
鬱陶しいという態度だったけれど、それは師匠なりの優しさだと思いたい。
わたしはまず、ヒューバート様の執務室へと向かった。丁度カレンお嬢様もそこにいたのだが、術の行使には反対だと言われてしまった。
「身を捧げる、ってそんなつもりはないですよ。ただ、わたしの力を使ってもらうだけで」
「それを身を捧げるって言ってるのよ」
「行って戻ってくるだけです」
お嬢様のアイスブルーの瞳が涙で濡れていた。
「イヤよ。そんな危険な賭けに乗るのは」
わたしは持っていたハンカチでお嬢様の涙をそっと拭った。
「泣かないでください。これはわたしの願いでもあるんです。父には元の世界へ、母の元へと帰ってもらいたい。母も父の帰りをずっと待っていましたから」
執務机に腰を掛けていたヒューバート様が立ち上がる。かちっと服を着ている姿は、つい数刻前まで剣をとって王都を掛けていたとは想像もできない。
顔に掛った眼鏡をくいっと上げ、カレンお嬢様と同じアイスブルーの瞳でわたしを捕える。
「私も反対です。貴女の願いと言うけれど、貴女は人の願いを自分の願いと思っているのでは?」
「ええ、そうかもしれません」
「もう少し自分の為に生きたら良いでしょうに」
「そうですね。戻ってきたらそうします」
「硬骨な・・・」
はあっ、とため息を付いて閉じられた瞳が再度開かれたときには、冷たい色は若干の温もりを伴ってわたしの姿を映しだした。
「ならば必ず戻ってきなさい」
「お兄様っ」
「戻ってくると言っているのです。カレンデュラも友人なら信じて待って差し上げなさい」
お嬢様がぐっと唇を噛む。自分の慕う兄の言葉もあっただろうけど、お嬢様は言われたからといって「はいそうですか」と素直に納得する人ではない。この数秒の間に心を決めた彼女は、いつものように胸を張って、いっそ高慢とも取れる角度でわたしに言った。
「必ず戻ってくるのよ。必ず!」
瞳は一瞬のうちに乾いていた。代わりに強い瞳がそこにはあった。
「ありがとうございます」
わたしは頭を深々と下げて持ち上げた。
「行ってきます」
上げた顔はきちんと笑っていただろうか。確かめる術はわたしにはなかった。
ヒューバート様の次は距離も近い王子の執務室へと向かった。
コンコンと扉をノックして中に入ると、桃姫とレオール陛下も共にいた。
「小鳥。もう体調は良いのか?」
「はい。滋養強壮剤を貰って飲んだので」
家に戻ってから、師匠に無理やり飲まされた。どす黒いならぬ、どす緑の濃い液体にわたしの胃は拒否反応を起こして身を引いたのだが、体を押さえつけられて流し込まれた。
何が入っているか分からない物凄い匂いを発していたけど、それを呑んだおかげか体力はかなり戻っていた。
(飲んだ後は何度もうがいしたけどね。師匠の鬼め)
彼らは今後の2国間の関係について話し合っていたと言う。
今回の王都の騒乱について、書式上ではカンパールはまったく関与していなかったということになり、奇跡を起こして民を鎮めたのは桃姫1人の功績とすることになったそうだ。ウサギが起こしたこととはいえ、騒乱の原因となった珠が一時期カンパール側にあったことが問題にされては困るからだ。
その原因の珠の存在もうやむやにする方向性で、ということだ。民の心を乱した原因は、王都の地脈を流れる魔道(そんなものがあるのかは不明。でっち上げとも言う)の暴発ということに収まりをきかせるつもりである、と王子の口から聞かされた。
わたしも「それでいいか?」と一応の確認は取られたけれど、まったく表に出る気もなく、むしろ人々の桃姫への信望がこれで不動のものになると諸手を上げて賛成した。
しばしの暇を告げたわたしに王子が言う。
「お前と約束した塔の封印だがな、そのときにはデカい花火を打ち上げるつもりだ。帰還の陣は召喚の塔の真下。いつまでもグダグダしてると見逃すぞ。さっさと戻ってこいよ」
王子の計画にわたしはハハッと笑った。
「まったく、『バカ王子』らしい計画ですね。でもとても小気味いい計画です。是非、わたしにも現場を見せてください」
「もたついてると『バカ王子』が『バカ王』に変わるからな」
ふんぞり返って言う王子は、この春には新国王となる戴冠式を控えている。さぞや立派な祭典になると思われるので、その前には是非とも戻ってきたいものだ。
わたしは王子の耳元に寄って囁いた。
「わたしはわたしの願いの為に帰還の術を行います。貴方は光の道を進んでください」
王子はわたしという犠牲を払った王の道を進むつもりだったろう。でも、その意義はどこにもないのだ。
「わたしは貴方の枷にはなりません。だって、わたしはわたしの我が侭で行って戻ってくるんですから」
だから堂々と前を見据えて王の道を進んでもらいたい。
「生意気な」
離れるときに見えた王子の唇はそう形作っていた。
「桃姫。しっかりこの人の横に立っていてね。態度はエラソーだけど、とても有能な人だから。きっと良い王様になる」
「おいヤマダ。そのくらいで口を慎んでおけ。そのうち本当に叩き斬るぞ」
「失言でした。謝ります」
陛下は謝るわたしの横に立って、若草色の目を細めて見下ろした。
「戻ってきたらカンパールに来ると良い。帝都を案内しよう」
固い手がわたしの頭に触れる。武骨で優しい手つきだった。この人はこうして少しずつ人に触れることに慣れていったら良いと思う。
(そうしたらいつか必ず愛を返してくれる人はあらわれる)
そんな祈りを込めて陛下を見つめ返した。獅子の顔は穏やかで、怖さなど欠片も浮かばなかった。
「はい。楽しみにしています」
陛下はわたしが必ず戻ってくると信じてくれているようだった。
それを口にすると、
「一度死の淵から戻ってくるのを見ているからな。小鳥ならばと思ってしまう」
と口の端を持ち上げて笑っていた。
けれど、その大きな体で包み込んで「無事で」と祈ってくれた。
「行ってきます」
いずれ訪れる再開の日を期待して言った。
(みんなにはわたしの我が侭で悲しい顔をさせてしまったな・・・)
泉は神殿の内部、白い大理石の壁に囲まれた部屋の中にある。地下から汲み上げられた水は微量の神聖魔力を含んでいるという。手に取った水はわずかにトロミを持ち、腕を流れる速度は純粋の水よりも流れが遅い。
こう静かで神聖な空気を纏った泉に身を浸していると、自分の思考の中にもぐりこんで逆に迷いが生じそうだ。
わたしは禊を切り上げ、泉から出た。ポタポタと透明の水が冷たい大理石の床を濡らして広がった。
「どうせ止めたってやるんだろ?」
フェイトの言葉だ。
孤児院では戻ってきた子供達が数刻前に降ったモモの花について頬を紅潮させ興奮気味に話していた。
奇跡を目の当たりにした、というより花びらの雪にただ純粋に楽しかったのだろうことがはしゃいでいる様子から見てとれた。
無事だった子供達に「もうその話はいいから、落ち着け」と言いながらも、フェイトが「みんなが無事で済んで良かった」と思っていることが伝わってきた。
帰還の術の行使を伝えたわたしに
「行って来いよ。そんで戻ってこい。約束だ」
小指を重ねて約束させたフェイトはわたしの性格をよく理解しているように思う。
「お前は約束を守る人間だと俺は信じている。絶対に戻ってこいよ」
彼はわたしの性分をよくわかっている。
(そう言われたら守るしかないじゃない)
「ずるいな」
困った顔をして笑った。
「今は無理して笑うな。戻ってきたらちゃんと笑え」
(あぁ、本当にずるい。そんなことを言われたら、作り笑いさえできなくなる)
頬を包み込まれて額を突き合わせる。
「怖くて震えていても前に進むこと。俺はお前にそれを教えてもらった。俺が前に進めたのは、お前が信じてくれたからだ。だから俺も信じる」
まつ毛が震えるのを感じた。これは怖いからじゃない。嬉しいからだ。何も持っていない、何も返せないわたしという人間を信じてくれることが嬉しい。
「ヤマダ。俺はお前のことが―――」
耳にボソボソと告げられた言葉は私の胸を柔らかく締め付ける。
「ありがとう」
「ごめんとは言わないのな」
「気持ちが嬉しかったから」
(だからありがとう。想ってくれてありがとう)
わたしと同じくらいだったフェイトの頭は、いつの間にかわたしを追い越している。顔つきも少年のものから青年のものへと移行しつつある。
瞳だけは変わらない。
騎士になると決めてから、瞳だけはずっと暖かい強さを秘めている。
(この瞳だけは変わらず成長していってほしい)
願いを込めて、わたしはフェイトの頬にそっと音を立てずに口づけて身体を離した。
「じゃあ行ってくるね」
勇気はもらった。あとは戻ってくるだけだ。
ふわふわと手触りの良い布地で身体を拭く。それはひと撫でで泉の水をスッと吸い取っていく。
祈りの時間だろうか。どこからか歌が聞こえてきた。遠すぎて言葉の意味は分からないけれど、大理石の壁に染みこむような澄んだ歌声だった。
「お父さんを元の世界に返す手助けをしてください」
師匠の前でわたしは頭を下げてそう言った。
「お前はそれでいいのか?」
初代であるお父さんの帰還は、師匠がウサギの脅威を危惧しての行動から始まったものだ。
彼を止めるため、これ以上の犠牲を払わないためには、より強い力の者を呼び寄せて初代を帰還させるしか方法はなかった。それはその人間一人を犠牲にしても、という意味だ。
師匠は冷徹に見えて人に優しい。本当は誰の犠牲も望んではいないのだ。長い時を生きているけれど、そこは神獣達とは少し考え方が違う。一人に偏ってしまうことはない。大多数の人間の幸福を願う人だ。そして一人でも多くを救いたい人。
大多数を救うため、その方法を選ばざるを得なかった。かつての友人の守ったこの国を師匠もまた守りたいと願ったのだ。
わたしは初代がお父さんでなかったら逃げていたと思う。
全てはお父さんがこちらの世界に落ちてきたことが始まりだったから、娘のわたしが何とかしなければという、そんな使命感すらあった。
けど、ウサギは止まった。その狂気による脅威も去った今、お父さんが還ることは必須事項ではない。
それでいいのか、と尋ねる師匠にわたしを心配する色を見る。
「いいんです」
命を賭してまでする緊急性はもうどこにもない。だからお父さんの帰還はわたしの我が侭だ。
「わたしはそれがいいんです」
師匠の言葉を訂正する。わたしがそれを望むのだ。
「だから手伝ってください」
もう一度、深々と頭を下げた。
濡れた身体を拭き取り、サイラスさんがいつも着ているような白地の絹で出来た衣装を着る。
いくぶんゆったりとした衣装は、ドレープした裾が細やかに布の波を作って足首まで隠すように流れている。
(これって相当質の良いものなんじゃないかな。良いのかな。こんなもの着せてもらって・・・)
しかし、渡されたものはこの衣装だけで、脱いでいた服はいつの間にかどこかへと片づけられてしまっていた。
慣れない手触りに萎縮して、汚さないよう歩くのは骨が折れた。
小部屋に案内され、サイラスさんに旅路の祈りを捧げてもらう。
人々への説教は国の言語で行われるのだが、こういった祈りの文句は古代言語で行われるらしい。複雑な音階を持つ言語だったけど、サイラスさんの澄んだ声はそれを歌のように紡ぐ。それは心地よい響きを持ってわたしを包んだ。
召喚の儀の際に行われる通常の祈りは穢れを祓う祈りなのだそうだ。穢れを祓い、清い身体をもって召喚の儀を執り行うための祈り。
けれど、わたしが行ってもらったのは『旅路』の祈り。
わたしが行う術は体と魂を切り離して力を分離するもの。行って戻ってくる様は旅路のようなものだから、無事に戻ってこられるよう旅路の祈りが順当であろう、というのがサイラスさんの意見だった。
祈りの最後に、手に持っていた小ぶりの水瓶の水(聖水らしい)で額を濡らされた。
宗派は違えど、神聖なものに触れたことで気持ちがスッと落ち着いていく。
騎士団の宿舎へ行った時、そこにはほとんど人がいなかった。王都の騒乱の事後処理にまだ追われているらしい。
たまたま居合わせたチックさんに「しばらく王都を離れます」とみんなへの伝言を頼む。
「どれくらいの期間になりそうなんだ?」
「予定は分かりませんが、あまり長く留守にするつもりはないんで。そのうちひょっこり戻ってくると思います。みなさんにはよろしくお願いします」
頭下げて伝言を頼む。
「そっか。しばらくお前で遊べなくなると思うと寂しいな。道中気を付けて」
出来れば「お前と」と言って欲しかったが、わしゃわしゃと頭を撫でてくれるチックさんは、それでも優しいお兄さんみたいな存在だ。
しばらく会えないと思うと、わたしも寂しい思いがした。
結局、ディー団長には挨拶できなった。
でも、心のどこかで安心していた。
(会ってしまうと決心が揺らいでしまうかもしれない)
ディー団長には怒られてしまうかもしれないけれど、わたしはこのまま出立するつもりだった。
「貴女の旅の無事を祈ります」
これは現在使われている言葉で。サイラスさん本人の祈りだ。濡れた額を綺麗な文様が刺繍された布で拭われる。さらりとした触感が額を通り水気を取り去った。
「ありがとうございます。心の準備が出来ました」
礼をとるわたしの耳に静かに開かれる扉の音が入ってきた。
「まだだ」
やはり会わずには行けないらしい。
振り返って見たディー団長の顔はいつもの爽やかさなどどこかへ飛んでいっているみたいだった。
(あー、そうですよね。怒ってますよね。それはもう盛大に)
それぞれへの挨拶を済ませ、心の準備。
やって来てしまうディー団長。




