5・愛すべき小鳥 その2
結局、わたしと陛下は日が昇るまで聖堂で過ごした。
正直、寒かった。凍えるかと思った。冷たい聖堂の中で、陛下は微動だにせず獅子の像を睨み付けたままだった。一緒にいたのは、部屋に戻りたかったけど落ち込む陛下を残してその場を去ることはできなかったからだ。
寒い中、震えて耐える気分は修行僧。そのまま悟りを開けてしまうんじゃないかと思った頃、朝のお勤めに来た神官によって扉が開かれたことでようやく朝が来たと知る。
その神官は聖堂内のロウソクに火を灯すと、陛下の姿に気を利かせたのかすぐに出て行ってしまった。
聖堂内を回る神官がわたしの傍を通り過ぎたとき、ぎょっとした目でこちらを見てきたのだが、足に鎖を巻いているからだろうか、と思ったがそれだけではなかったようだ。目が首元に釘付けだったので締められた跡が残っていたのだろう。ものすごい憐れんだ瞳が気まずかった。
(うーんと、これってもしかして、ものすごい暴力を受けてる哀れな奴隷とか思われてないか?)
さすがに「わたしって可哀想な子なんだろうか」という思いがぬぐい切れない。
絞められた首は痛かったが、わたしの方としては陛下を怖がったり恨んだりする気持ちはなかった。
何かもっとひどいことをされたことがあるみたいで、
(こんなの何ともない)
というのが正直な気持ちだった。
(もっとひどいこと・・・腕を切られたり、頬を叩かれたり、槍で突き刺されて死にかけたり・・・)
記憶の欠片だろうか、断片的に思い出された記憶はまともなものではなかった。
(ん? わたし、ロクな生活送ってなくないか?)
一体、わたしはどんな生活を送ってきただろうか。ロクな生活を送ってなさそうなわりに、自分は比較的まともな性格をしている気がする。思考回路にしろ、歪んでない性格にしろ(自己評価が良すぎかな)、よくまともな人格をしているなと思う。
おもむろに陛下が立ち上がり、聖堂の入り口へと向かった。
そこには鏡が張られた扉がある。聖堂を出ていく人の全身が映るほどの大きな鏡だ。
「カンパールの神殿の扉には全て鏡が張られている。何故か分かるか? 祈りを終え、帰る者に今一度自分の姿を見て己を見直すためだ。そこに映るのは自分の真実の姿なのだそうだ。見てみろ。これが余の真実だ」
そこに映るのは獅子の顔。
麦色の金のタテガミ、若草色の猫科の動物の瞳、その体は鍛えられた軍人のようにがっしりとしている。
「小鳥、お前の目に余はどのように映る?」
鏡越しに陛下がわたしを見た。
きっと陛下は、わたしが「獅子の顔です」と言っても笑うし、「人の姿です」と言ってもまた笑うのだろう。笑っていながら、瞳には哀しい色を宿すに違いない。
わたしは目に神経を集中させた。陛下の顔に蜃気楼のようにぼんやりとした靄ができ、像を結んでいく。
獅子の顔に重なって見えた人の顔は、麦色の金の髪に若草色のやや釣り上がりぎみの瞳をしていた。人の顔だとよりその表情が分かる。陛下の顔は自嘲気味に笑った顔をしていた。
「どうだ。この顔は怖ろしいだろう」
そう言っているみたいだった。
「陛下は格好良いと思いますよ」
立ち上がって陛下の方へと歩く。
ジャラ
歩くのには邪魔だが、鎖はわたしの心を縛らない。むしろ縛られているのは陛下の方だ。
陛下がわたしと普通に会話をするのは、わたしが陛下の小鳥だからだ。
(そもそも人間扱いじゃなかったんだよね)
自分を獣と思っている陛下は、わたしを「小鳥」にしないと傍に置くことが出来なかったのだろう。こうして鎖を付けて「人」から貶めることによって初めて(精神的な意味で)視線を同じくして話が出来たのだ。
それを夢の中で殺してしまった。獣と人の分岐点としての象徴が夢の中でのわたしの死。夢の中でわたしは「小鳥」ではなく「人」だった。
(境界線を張って、わたしを自分寄りの「獣」とみなしていたのに、陛下の無意識ではわたしが「人」だったことに気付いて怖くなって逃げたんだ)
近づいて、陛下の方へと腕を伸ばすと、ピクリとその体が動いて避けられた。
「わたしに逃げるなと言っておいて、自分は逃げるんですか? 人のわたしには触れられませんか?」
陛下の瞳に浮かんだのは困惑、そして怯え。
「獣」と恐れられるのではないかということに対する怯え。「獣」の自分が相手を壊してしまうのではないかということに対する怯え。
「陛下はもっと人に触れることを覚えたらいいんです」
人の世に生きている限り、人に触れないで生きていくことはできないのだ。人に触れるとき、できればそこには困惑や恐怖ではなく、喜びがあればいいと思う。
(自分は人だと認識できたら、人に触れられるようになるかな?)
どうしたら陛下にも見えるだろうか。
(わたしの見ているものが陛下に見えたらいいのに)
そう願いながら陛下の顔を両手で包んだ。
ドクン
大きな鼓動を立てて、何かがわたしの中に入り込んできた。優しく、力強い光が流れを持ってわたしの生命の流れに逆流するように渦のように流れてくる。禍々しくはないけれど、強すぎる力に身体が焼け付くような痛みを感じた。
流されそうになりながらも、流れを掴もうとあがく。その力にはどこかで触れたことがあるような気がした。
(どこまでも透明な白い光。優しい力)
優しく白い光がわたしの視界を埋め尽くした。
『―――――これに触れてはならん。これは祝福であり呪い。呪いであり祝福』
声が聞こえ、続いて白い光の中に誰かの姿が見えた。
「俺はどうかと思うけどな。後世の子供が泣くぞ」
『良い。これは決めたこと。人の感情を教えられたことへの対価』
『感情を知らないほうが良かったの?』
真っ白な空間の中、3つの影があった。一つは男の人、他2つは金色の獅子と真っ白なウサギだった。
男の人が肩をすくめて苦笑いをする。
「対価って、恨んでるんだか喜んでるんだか」
『両方。人の感情を知って我は孤独を覚えた。愛しむ心を覚えた。お前と我の愛する女が教えてくれた』
「だから、祝福であり呪いってことか」
『そして呪いであり祝福』
『ふーん、ボクには分かんないや。古参の神獣は頭が固いよね』
「自分の身を挺してまですることか」
男の人は獅子の祝福を止めようとしているのだろう。
(でも止められないことを知っている)
声に苦いものが混じっていた。
『それだけの価値はある。古き時代の力は徐々に失われつつある。我はただ絶えるよりも、子に力を残したいと思った。子を見ていると胸が温かくなる。子とその次に続く子らに我の力を明るき道へ進む為の標として使ってほしい』
「そういった感情を何と言うか知っているか?」
眉と口元を歪めて言った。
「親心って言うんだよ」
『ほう、これがそうか』
獅子のタテガミが揺れた。まるで笑っているようだった。
『ほんに人の心は面白い。たくさんの感情を覚えた。遥か長い時の中で、お前と我の愛する女との時間は実に満ち足りた時間だった・・・。我は消えるが、力の欠片は残る。いずれまた、会うこともあろう』
獅子の姿がゆっくりと空中に溶けて消えていく。男の人が、消え行く獅子のタテガミに手を伸ばし触れようとしたけれど、その手は空をかいて終わった。
「・・・神獣って身勝手な生き物だよな」
ポトリと小さな雫が男の人の頬を伝って零れ落ちた。
残った二つの影が光の中に消え、先ほどの声がまた話しかけてきた。
『そろそろ戻ると良い。我の力を継いだ子が泣いている』
まばゆい光がわたしを包み、次の瞬間にはわたしは息苦しさに喘いでいた。
ゴホッ ゴホッ
むせながらも必死に呼吸をして肺に酸素を取り入れる。
「良かった。気付いたか小鳥」
目の前に人の顔をした陛下がいた。目に涙を溜めて、わたしを見下ろしている。
「へい、か」
鈍い頭を左右に動かして扉の鏡を探した。そこに映る陛下の姿も人の姿をしていた。
(今なら陛下にも見えるはず)
「かがみ・・見えますか?」
「ああ、見える」
「ほら、言ったでしょう? 陛下は格好良いって」
鉛みたいに重く感じる腕を伸ばして頬に流れる涙を拭いた。
「陛下は人です」
今なら、小鳥のさえずりも陛下に届くだろうか。そう期待を込めて言った。
[余談]
カンパールの皇帝レオールが訪れた国境沿いの森の神殿にて、奇跡が起きた。
陛下が朝の祈りを終えた直後、まばゆい光が聖堂を満たした。
聖堂内の長椅子から若葉が生え、壁を緑の蔦が覆った。
外は広範囲に渡ってタンポポの花が咲き、綿毛を飛ばした。凍てつく冬の季節に春の奇跡。鐘の鳴り響く中、真白の綿毛がふわりと風に踊るその様は、まるで天上の世界が一部だけ現世に姿を現したかのようだった。
これは後世に残るもっとも賢なる皇帝カンパールの獅子王レオールの奇跡である。
~カンパールの謳より~
山田の起こした奇跡は陛下のものとなりました(笑)




