28・花の記憶 Ⅰ
[ヒューバート視点]
『王の盾』と聞いて思い出すのは、いつも野に咲く白い野菊のように楚々と笑う彼女のことだ。
彼女は現国王の『王の盾』で、自分の初恋の君だった。
幼い頃から表情に乏しく、あまり笑うことのなかった自分にも、彼女は他の子と変わらず優しく微笑んでくれた。
「綺麗な瞳ね。」
初めて掛けてもらった言葉だ。
それまで可愛げのない冷たい瞳だと言われていた自分の瞳が初めて他人から褒められたことに嬉しくなって、少し笑った。
いつか自分も国の中枢に立ち、彼女を守ろうと思った。それが将来の夢だった。
その夢を失ったのは、今から15年前、自分が8歳のときのことだ。
小雨が降る曇天の空に一筋の光の柱が立ち上り、一瞬の後に雲が振り払われた。
花が舞った。
数多の白い野菊の花が、雨上がりの柔らかな日の光に照らされて王都に舞い降りた。
王都に美しい奇跡を国中の人々の心に光を残して彼女は去った。
悲しくも美しい奇跡が今もこの目に焼きついている。
15年後、再び『王の盾』がこの地に降り立った。
魔力を受けて花びらが舞う。
彼女は可愛らしさと美しさを持ったまさに理想の『王の盾』だった。
今度こそ自分が守ることが出来る『王の盾』が現れたと思った。
「ヒューみたいな瞳は初めて。綺麗な瞳ね。」
自分の瞳を見てそう微笑んだ桃姫の笑顔が、あの白い野菊のような彼女の微笑みと重なる。
桃姫こそ自分が守るべき『王の盾』だと、彼女への想いが真剣なものに変わるのは時間の問題だった。
彼女を傷つける何者からも守りたかった。
少しでも害になるものは排除しようと躍起になっている自分がいた。
歯止めは利かず、また歯止めを利かせるつもりもなかった。
それを何度もあの子犬はキャンキャン吠えて阻んできた。
ここに来たのは、改めて自分を振り返りたかったからだ。
床に描かれた陣を見つめる。
ここに愛しき桃姫は現れた。今は失われたあの人も。
そして―――――、
バタンッ
「ヒューバート様っ!王都を出て行くって本当ですか!?」
(この子犬も一緒に現れたのでしたね。)
そう思った瞬間、視界が真っ黒になり、意識が飛んだ。
※ ※ ※
決して華美ではなく、質素だが持ち主の趣味の良さを感じさせる調度品で整えられた部屋が見える。
自分の父でもあるバルト宰相を主とするオルンハイム家の邸宅の一室だ。
バタンッ
珍しく乱暴に扉を開けてカレンデュラが入ってきた。
「お兄様っ!王都を出られるって本当ですか!?」
兄が大好きなこの妹は、それを聞いてきっと反対しに来たのだろう。
この身に受けるであろうと思って待ち構えた言葉は、想像していたのとは斜め上を行くものだった。
「ワタクシも連れて行って!」
とうとう待つことでは飽き足らず、共に付いてきたいと思ったのだろうか。
抱きとめた体はしかし強い瞳を持ってこちらを見返してきた。
「お兄様と離れたくない、ということではないの。王宮や馬車の中からでは分からなかった民の生活があるのだと、教えてくれた人がいる。ワタクシ、民がどういう生活をしているのかこの目で見たいの。ワタクシ一人では、お父様はきっと許しをくれないわ。お兄様と一緒なら、許しを得られるはず。お願いお兄様、ワタクシを連れて行って!」
「カレンデュラは王都にいなさい。誰ですか、そんなことを吹き込んだのは。」
ため息を吐いてカレンデュラの肩を落ち着かせるように押さえる。
「ヤマダよ。」
(またあの子犬ですか。)
どうやって説得しようかと考えていると、カレンデュラが言った。
「ヤマダは何も知らなくて恥じ入るワタクシに言ってくれたの。一緒に考えましょうって。そして知らないのならば知ればいいって・・・。お兄様には悪いけど、ワタクシ桃姫のこと悪く思っていたわ。それは彼女のことを知らないからだって、紹介してくれたのはヤマダよ。そうでなければ、ワタクシきっとあの人のこと嫌いなままだったわ。」
池でのことが思い出された。
自分が守るべきだと、そうしなければ簡単に折れてしまうと思っていた彼女は、真っ直ぐに相手を見て微笑んでいた。
その姿は美しくも、強かった。決して儚く散るような花ではなかった。
ヤマダはカレンデュラに「彼女は優しく守られているだけの花じゃない」と言ったらしい。
(自分は何を見ていたのだろうか・・・。)
そう思ったからこそ、一度彼女と距離を置こうと王都を出ることにしたのだ。
「知ればいいって、彼女のことだけじゃない。他のことにだって当てはまると思うの。ワタクシは知らないことが多すぎる。いいえ、オルンハイムという人間でいる限り、ワタクシは知らないでは済まされないと思うの。お兄様、どうかワタクシに知る機会を与えてちょうだい。」
その性格ゆえ友人が少なく、その寂しさからか兄に依存していた妹が短期間でこうも変わるとは思っていなかった。
それ程、ヤマダとの出会いは衝撃的だったらしい。
ヤマダの何がここまで影響を与えるのだろうか。己の一部でさえ、影響を受けていないとはいえないのだ。
あの言葉がなければ、今も桃姫から離れず寄り添ったままでいただろう。
『綺麗な花を愛でていたいだけなら、綺麗なモノだけ見ていたいなら、王宮に引っ込んでいてください。』
以前ははらわたが煮えくり返るような思いさえしたのに、今となっては心に深く打ち込まれた釘のような気さえしてくる。
それは己の責任と義務を改めて思い返させる釘だ。その釘は、今後間違った方向へ進もうとすれば己の胸をえぐって痛みを訴えかけてくるだろう。
(気付かないままでいられれば、綺麗なモノだけ見ていられたのに・・・。)
―――――そこで再び暗転し、場面は夕食後にカレンデュラと二人でくつろいでいたときのことに移っていた。
カレンデュラは森の妖精にどんな悪いことを言われたか思い返して、頭から湯気を出していた。
「今思い返しても腹が立つわ。あの人達、ワタクシがオルンハイム家の人間でお兄様の妹だからって、良い顔して近づいてきてたって言うんですから。」
「ワタクシの瞳が悪く言われたとき、ヤマダまで睨まれると凍りつきそうなのは確かです、って言ったのよ。本当に失礼なんだから。でも・・・、」
今度は口元を緩めて微笑む。自分とは違い、表情の豊かな妹に愛しさを感じる。
「ふふっ。ヤマダが何て言ったと思う?」
子犬の言ったことなど検討もつかない、と首をかしげて先を促す。
「お兄様と同じ、意志の強い瞳だと褒めてくれたのよ。」
あの野菊のような彼女の優しい言葉が耳に響いた。
「綺麗な瞳ね。」
「冷たい瞳だとみんなには言われます。」と言った自分に返ってきた言葉は・・・・・
「そんなことない。お父様と同じ、意志の強い瞳だと思うわ。」
今もはっきりと覚えている。
一言一句その口調さえ鮮やかに覚えているのは、それ程嬉しかった言葉だからだ。
※ ※ ※
「―――――さまっ。ヒューバート様!」
泣きそうな声で自分のことを呼ぶ声がする。
ヤマダが目に涙を溜めて不安そうにこちらを覗き込んでいた。
ぼんやりした頭で今の状況を確認してみる。
自分はさっきまで扉近くで陣を見つめていたはず。それが今は床に倒れこんでいる。そして慌てて扉を開けて入ってきたヤマダ。その時にドンッと頭に衝撃が走ったような覚えがある。
扉で頭を打ち付けて意識が飛んでいたらしい。
(それで悪かったと思ったヤマダは今泣きそうになってうろたえているといったところですか。)
いつもキャンキャン吠えている印象のあるヤマダがシュンと項垂れているのが面白くて、もう一度目を閉じてみた。
「お願いっ。いなくならないで・・・。」
掠れた懇願の声がして、頬に冷たい水が一滴落ちてきた。
ヒューバートの想い。
何故桃姫にそうまでして固執する理由がこれです。




