第5話
岸忠子の視点になります。
「それじゃ、フランスに行ってくる。お父さんを殴ってくるよ」
そう言って、息子の総司は、出征していき、私は、それを見送った。
総司を見送った後、私は、あらためて考えた。
夫、今や、ユーグ・ダヴーという名のフランス人になった夫と、離婚すべきなのだろうか。
だが、自分の心の中で渦巻く様々な感情が、それを拒絶してしまう。
夫と出会った頃のことは、今でも明確に私は思い出せる。
軍服姿で、柴五郎提督のお供をして、私の父と会っていた。
あくまでも、柴提督のお供ではあったが、私に好意的な目を、夫は向けており、私は、夫の顔を見る度に、それを意識するようになった。
そして、柴提督は、それを察して、父に対して、夫との見合い、縁談を勧めてくれた。
柴提督は、海外生活が長く、会津の地元の事情に、微妙に疎かった。
私と見合いをする前の夫に、誰か好きな女性はいないのか、と聞き、そんな女性はいません、という夫の答えを聞いて、それで済ませてしまった。
本来なら、もう少し、いわゆる聞き合わせをすべきだったのだろうが、何しろ、柴提督自身が、欧州に出征する時が迫っていたし、夫も欧州に出征せねばならず、そんな余裕はなかった。
余裕があったら、篠田りつと、夫との関係が、柴提督に、分かっていただろう。
そして、私と夫と見合いをし、更に、私と夫は結婚し、10日余りを共に過ごした後、夫は欧州へと出征していった。
更に言うなら、それが夫と私が共に過ごした最後になった。
夫は、到着早々、フランスで戦場の地獄を味わったらしい。
荒んだ夫は、ジャンヌという街娼に出会い、惚れ込んでしまった。
ジャンヌの体の魅力に、夫は篭絡されたのだろう。
それを知った父が、夫とジャンヌの間に介入し、ジャンヌを父の監視下に置き、夫とジャンヌの仲を引き裂いた、と父から私は聞いている。
それで、夫は目が覚めた、と私がホッとしていたら、篠田りつが、千恵子を連れて、私の下に現れた。
それこそ、私が総司を産んだ直後だった。
慌てて、夫に事の真相を尋ねたら、篠田りつは、自分の幼馴染で結婚まで考えた仲であり、私との見合い話が出たので、篠田りつには、別れを告げた。
そうしたら、私を抱いてから別れてほしい、と篠田りつは言い、夫は関係を持った、とのことだった。
責任を取って欲しい、と篠田りつは言ったが、私にも、総司という息子がいる。
夫が帰国してから、3人で話し合うことに、一旦、話はまとまった。
だが、そうこうしているとき、私の長兄が戦死してしまった。
私の男兄弟には、他に次兄がいるが、次兄は病弱なこともあり、父との関係は良くなかった。
(実際、次兄は、スペイン風邪で亡くなった。)
それで、私は、父を半ば唆し、夫を父の婿養子に迎えた。
これで、夫は、私の下に帰ってくる、とこの時、私は考えていた。
だが、夫の行動は、私の想像を超えていた。
(第一次)世界大戦が終わった直後、夫は現地除隊し、ジャンヌ(とアラン)と共に、失踪してしまった。
海兵隊の退職金を私に送ってきて、離婚してくれ、と書いてよこした。
慌てて、私が八方手を尽くして探し出した時、夫は、フランス外人部隊の士官になっていた。
更に、ジャンヌは、夫の2人目の子を産んでいた。
取り合えず、篠田りつと共闘することにし、夫をフランスから呼び戻そう、とし出した頃だった。
村山キクが、北白川宮成久王殿下に伴われて現れた。
村山キクは、幸恵という夫の娘を産んでおり、夫はそれを認めて認知したとのことで、その記載が載った戸籍を、私は北白川宮成久王殿下から示された。
私は、呆然とせざるを得なかった。
村山キクは、当初は、単に夫の行方を捜し、幸恵を娘として認知してもらおう、と考えて、小料理屋「村山」の常連客になった北白川宮成久王殿下に相談したらしい。
そうしたら、夫がフランス外人部隊にいることが分かり、夫に連絡を取ったら、夫はすぐに幸恵を娘として認知したとのことだった。
北白川宮成久王殿下は、お節介にも、立会人として、村山キクと共に、私の下に現れたという訳だ。
ともかく、ここまでの話となっては、幸恵も、千恵子と同様に、総司の異母姉と認めざるを得ない。
私は、あらためて色々苦慮することになった。
ここまでのことをした夫と離婚すべきかどうか。
夫の相手のジャンヌが、もう少し真っ当な女性だったら、私は離婚していた。
それこそ、篠田りつとやり直したい、と夫が言い出したら、私は離婚に応じていただろう。
だが、相手が相手だった。
父やその周囲から聞いた話だが、ジャンヌは街娼で、地元マルセイユでは、1年で1000人の男と寝た女とか、色狂いとか、サキュバスとか悪名を轟かせた女だった。
そんな女の為に、自分が離婚する。
そんなことになったら、自分の心の中で、自分の誇りがズタズタになる感じがした。
私は、離婚を断固、拒否することに決めた。
篠田りつは、このことについて、(今まで)何も言わなかった。
(案外、私がすぐに諦めて、離婚に応じる、と思っていたのかもしれない。)
村山キクは、(これまでに一度だけ、幸恵が認知されたばかりの頃だが)私に忠告した。
「諦めて、離婚して、自分の幸せを考えるべきだ、と私は思うわ」
だが、キクは、別の男性と結婚して、幸せを既に築いている。
だから、そんなことを言えるのだ。
そう考えた私は、キクの忠告を無視した。
夫は、ある意味で誠実だった。
私が離婚を拒否したら、自分の給料を割いて、私の生活費(婚姻費用)を送ってくれた。
更に、子どもの総司、千恵子、幸恵の養育費も、子どもが20歳になるまで、夫は送ってきた(キクは、一時、養育費の受け取りを、かなり躊躇ったが、結局は受け取った。)。
夫の私への愛は冷めていない、いつか、夫は目が覚めて、自分のところに帰ってくる、と私は思い込むことにした。
だが、歳月が経つにつれ、状況はどんどん変わっていった。
ジャンヌは、夫との間に、2年に1人どころか、それ以上のペースで子どもを産んだ。
最初の頃は、日本に3人もの子がいる以上、夫は帰国すべきだ、と言えていたのに、気が付けば、フランスにいる夫の子の方が多くなってしまった。
更に、夫は、フランスに帰化してしまった。
日本人の妻子がいる身で、よくもまあ、と思わなくもないが、フランス外人部隊の士官として、10年以上に渡り、真面目に務め上げ、更に軍功を挙げたことから、夫のフランスへの帰化が認められたらしい。
そして、当然のことのように、フランス陸軍士官として、夫は出世し、今や准将になっている。
こうなっては、夫が、今更、日本に帰国する等、夢物語に近い、というのが、私の心の中に染み渡ってくるようになってくる。
だが、20年以上も、頑張り続けて、今更、夫との離婚に応じたとして、どうなるだろうか?
私は、20代前半から40歳を超すまで、事実上、夫との結婚にしがみつき、ある意味、女の華の時代を一人で過ごすという代償を払った。
今から、夫との離婚に応じては、あの頑張りが全て無駄になってしまう。
そう思うと、自分の心の中から、何とも言えない感情があふれ出してくる。
唯一の救いは、子どもの総司が、幸恵、千恵子と仲が良いことだろうか。
母が違うことを無視して、姉弟は本当に仲が良く、しょっちゅうお互いの家を訪問している。
それにしても、私はどこで間違えたのだろう。
どこかで別の道を歩めば、もっと幸せになれたのではないだろうか。
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