雨の日、良い日
あの日、空は泣いていた。
世界の誰かが泣くのを我慢してる代わりに。
四月も半ばに差し掛かった頃、晴れて大学生になった俺は、大学の新入生合宿なるものに参加していた。合宿なんて何か運動部みたいだけど、ただ単に新入生同士の交流を深めましょうっていう大学側が考えた企画。もともと社交的な俺は、基礎必修のクラスメートともまぁまぁ仲良くなってて、この新入生合宿は苦にもなってない。
「あーもー、まだ雨降ってんじゃん」
「マジかよ。傘持ってきてないのに」
旅館の部屋の窓を眺めて文句を吐く俺につられて、同室の仁科良司が俺の隣に並んで嫌そうな声をあげた。良司に続いて、残りの四人の友達も次々と窓に目を向け文句を言い始める。
「朝は晴れてたのになー」
「まあ、小降りだし、明日には止むだろ。ほらっ、ナオ。続き、続き」
ぼんやりと窓の外を見続ける俺とは反対に、良司たちはさっさと窓から目を放し、布団の上にあるトランプの周りに腰を下ろしていった。俺もそうしようと良司たちの方を向いたが、なんとなくトランプの続きをする気になれなくて、良司たちの後ろを通りすぎ、部屋のドアへと向かった。
「ナオー? 続きするぞー」
「ちょっと喉渇いたから、飲み物買ってくる」
「勝ち逃げかよ」
風呂に入ったばかりで濡れた髪をした友達のからかい半分の言葉に「まあねー」と笑って返し、ドアを押し開けた。
まだ夜の十時を過ぎたくらいなだけあって、あちこちの部屋から賑やかな声が聞こえてくる。一般の客も泊まってるらしいけど、二階から六階は大学生が占めてるんだろう。確か、行きのバスでガイドの先輩が言ってた。三階の部屋に割り当てられてた俺は、エレベーターで一階に降りて、自販機コーナーに向かった。
自販機コーナーには誰もいなくて、自販機だけがブーンと稼働中の音をたてていた。ポケットから出した小銭でペットボトルの水を買い、さあ、戻ろう、とした時。
『もー、きついって』
自販機コーナーの入り口とは反対の奥にあるドアの外から声がした。このドアは外に続いていて、外にはちゃんと屋根もあるし、手作り風の木製ベンチもある。たぶん、声の主はそこに座って誰かと話をしてるんだろう。
『え? いや、ストレスとかはないけどさぁ……』
けど、誰かと話してるわりには、声が一人分しか聞こえない。変なの、と思って、興味本位で俺もドアを押して外に出てみた。
「だからさ、……あ、」
ちょうど俺が外に出たのと声の主がこちらに顔を向けた瞬間が同じで、声の主はぽかんとした顔で少し驚いたような声を発した。ぽかんとしたままだった声の主は、しばらくして気まずそうに俺に会釈をしてきた。もとから外に人がいるのを知っていた俺は、別段驚きもせず、会釈を返す。ちょっと驚いたのは、声の主が女の子で、会話の相手は携帯だったこと。たぶん、俺と同じ新入生。黒いジャージに上はフード付きのトレーナー。思いっきり、今から寝ますって格好。俺もだけど。
肩につくかつかないかの黒い髪は、俺の友達と同じように濡れていた。その子は会釈すると俺が来たことにもあまり構わず、「ごめんごめん」と携帯越しに会話を再開した。まあ、いきなり現れたのは俺なんだから、べつにそれに文句はない。
外は、まだ雨が降ってる。
しとしと、しとしと。
細かい雨が、旅館の庭に植えてある木々や葉っぱ、花を静かに濡らしていく。
前からは、雨の音。左横からは、女の子の話し声。
相手の声は聞こえないけど、女の子の話を聞く限り、どうやら女の子は人見知りで、せっかく仲良くなった子と部屋が離れてしまって、手持ちぶさた状態ならしい。
人見知りとか、俺には正直考えられない。俺だったら、その部屋の離れた子の部屋に「よーっ」とか言って乗り込んで、ついでにその部屋の子とも仲良くなると思う。
「だから、私はそういうタイプじゃないんだって。私にしたら『友達の友達は友達』じゃなくて、『友達の友達は他人』なんだもん」
「ケホッ」
あまりにもタイムリーな言葉に、思わずむせてしまった。なんか、今一瞬心の中読まれたかと。
ちらっと横を見ると、女の子がきょとんとこっちを見ていた。話を聞いていたのを誤魔化すために、とりあえず曖昧に笑ってみせる。すると、女の子も小さく笑って、また会話に戻ってくれた。セーフ。
「ねー、雨止まないかなあ」
まるで俺に聞いてるような感じに、ちょっとだけ横を向きそうになった。けど、残念。相手は俺じゃなくて、携帯越しの友達。女の子の話は、どうやら、俺も携帯越しの友達も見ている雨のことに変わったみたい。
それにつられたわけじゃないけど、俺は目線を上にして、灰色の空を見上げた。真上じゃなくて斜め上を見てるから、細い雨が背の高い木の葉っぱに当たるのがかすかに見える。
しとしと、しとしと。
こんな風に春先に降る、細い雨って何て言うんだっけ。
視線を下げて、今度は花が雨に濡れるのを見ながら考える。えーと。蝉時雨……違う、これは雨と関係ない。だいたい時雨は秋の終わりだ。何だっけなあ。春……。あ、思い出した。
「春雨だねえ」
……え。今のは俺が言ったんじゃないぞ。
もしかして、と思って、気づかれないように横目で女の子を見てみる。
「知らないの? 春先に降る細い雨のこと春雨っていうんだよ。は? ばか。春雨ヌードルじゃないって。春雨ヌードルが降ってたら、気持ち悪いじゃん」
確かに。女の子の言葉に心の中で同意する。
女の子の会話はなかなか面白くて、水を飲んで外を眺める振りをして、聞き耳をたてる。なんか、変態みたい。
「うん? ああ、あれ? うん、みんな爆笑してたよね」
爆笑?
なんだ、なんだ?
「違うー。『雨が降るのは、誰かの代わりに泣いてる。世界の誰かが泣くのを我慢してる代わりに、空が泣くんだ』だって」
「ぶっ」
やばい、今のは完璧に吹いた。てか、水飲んでたせいでむせる。なんだ、今のせりふは。恥ずかしいせりふ。そりゃ、友達も爆笑するよ。
ケホッ、ケホッと、何度か咳をしてると、隣が静かになったことに気付く。あ、と思って横を向いた。
「あー、ちょっとごめん。場所変える」
案の定、俺に聞かれたことに気まずくなった女の子は、初めのように会釈をして、ドアから自販機コーナーへと戻っていった。
『ちょっと! 知らない人に聞かれたじゃん! はずー』
ドア越しに女の子の声がかすかに聞こえた。電話中は悠然としていた女の子が慌てる様子を思い浮かべて、笑みが浮かんだ。
あの子、何組の基礎必修だろ。朝配られたネームシールを服に貼ってなかったから、名前が分かんなかったな。何かの授業で一緒にならないかな。
「雨が降るのは、誰かの代わりに泣いてる、か。恥ずかしー」
言ってから、やっぱり恥ずかしくなって、笑いながら旅館の中に戻ることにした。
部屋に帰ると、真っ先に良司が俺に気付いた。
「遅かったじゃん」
「んー、ちょっと外出てた」
「まだ雨降ってる?」
良司とは別の、茶色い髪の友達が振り返って尋ねてきた。俺はさっきのことを思い出して、咳払いをして笑いそうになるのを堪える。
「降ってるよ」
「うわ、最悪」
良司がばたん、と布団に倒れ込みながら溜め息をつく。俺は足を止めて良司を見下ろした。良司が、なんだ、という顔をする。
「いいじゃん、雨でも。雨が降るのは、誰かが泣くのを我慢してる代わりに泣いてるんだからさ」
「はあ?」
良司ほか四人の友達も一斉に俺の方を見てくる。俺はさっきの女の子を思い出して、少し笑った。
「えー、気持ちわるーい」
「直之くんは頭でも打ったのかな?」
「どこの詩人だよ、お前は」
友達は口々に悪態をついて、俺をからかっていく。良司なんて腹抱えて笑いながら、布団の上をのたうちまわってる。
「うるせーな。ほら、続きやるぞ。お前ら、ちゃんと負けた分払えよ」
ひーひー笑う良司の背中を蹴飛ばして、俺も布団の上に座り込み、散らばったトランプをかき集めた。
あの子のことは、まだ誰にも秘密。




