スキよりももっと… 9
「どうしたの? こんなところで一人で」
その声は少し掠れた甘い声。
ずっと聞きたくて、ずっと聞けなかった声。
ただ呆然と見上げることしか出来ない私に、工場長は壮絶に整った顔に甘やかな笑みを浮かべる。
いつもは日の光をあびてキラキラ光るアッシュカラーの髪は夜闇の中で艶やかで、会わなかった間に少し伸びた気がする。
こちらを見下ろす瞳は吸い込まれそうなほど綺麗な瞳で、口元には香り立つような甘い微笑みを浮かべている。
工場長だ……
フロリダにいるはずの工場長が突然目の前に現れて、夢か幻かとも思ったけど、こんなに整った顔立ちの人は一人しかいないだろう。それに。
「寒いの苦手な人が傘も差さずにいたらすぐに風邪を引くよ?」
いたずらっぽく笑いながら私の髪をくしゃくしゃっと掻きまわしたりするのは、工場長くらいしかいない。
気がついたら、私は、どんっと工場長に抱きついていた。
工場長の体に腕を巻きつけて、強く抱きしめる。
そうやってぎゅうって抱きしめて、やっぱり夢なんかじゃないって実感して。それからだんだんと自分の大胆な行動にかぁーっと自分でも分かるくらい顔が赤くなっていく。
「宇佐美さん……?」
訝しげに尋ねられて、反射的にぱっと工場長に抱きついていた腕を離す。
だけど、その瞬間、ヒールがぐらぐらして思わずまた工場長に掴まってしまう。
うぅ……
恥ずかしすぎて、いますぐここから離れたいのに、この十三cmヒールのせいで一人でまともに立つことも出来ないのが情けない。
それでもさっきみたいに大胆に抱きつくことはせず、工場長のシャツの裾をちょこんと掴むのにとどめる。
その時になって、工場長がスーツ姿で、傘を持っていない方の手で脱いだジャケットとスーツケースを持っていることに気づく。
「宇佐美さんがなんで紅林のパーティーに?」
「工場長こそどうしてここに……」
少し眉根を寄せた工場長に聞かれて、つい私も同じことを聞いてしまう。
「俺はお爺様にパーティーに参加するように言われてて」
「えっ、お祖父さんに!?」
工場長の言葉に思わず大きな声を出してしまう。
だって、お祖父さんは工場長がいつ戻ってくるか分からないとか言っていたのに、これってどういうこと……っ!?
ふくれっ面してたら、ふっと頭上から笑い声が聞こえて、じろっと工場長を睨みあげる。
「お爺様に会ったんだね? ってことはここには柚希に連れてこられたのか」
工場長は勝手にこの状況を整理してまとめてしまう。まあ、その通りなんだけど。
「そうですよっ、工場長はいきなりいなくなっちゃうし、柚希さんはなんにも事情を教えてくれなくて急にパーティーに行くとか言うし、お祖父さんは工場長がフロリダからいつ戻ってくるか分からないとか言うし……」
ぶちぶちっと愚痴ると、工場長は困ったように苦笑した。
「ははっ、それはお爺様にまんまと騙されたね」
「えっ?」
聞き流しちゃいけないようなことを言われて思わず聞き返したら、工場長がふっと表情を消して真剣な瞳が私を射抜く。
鮮やかなその眼差しを一瞬うるませて。
「ねえ、そんなことより、俺になにか言うことない?」
艶やかな余韻を含んだその声にドキっとする。
だって、いきなりそんなこと聞かれるなんて、不意打ちだ。
工場長に会ったら、言いたいことはいっぱいあった。
だけど、こんなふうにまっすぐに聞かれてら、私の視線をとらえた工場長の瞳が強くくらめいてドキドキする。
「工場長……、会いたかったです」
情けないくらい声が震えてしまう。
だけど、一度口をついてしまえば、想いは堰を切ったように後から後から溢れてくる。
「工場長がフロア代わってしまって、同じ工場にいるのに会えなくて寂しくて、くだらないことでからかってくる工場長がいなくてつまらなくて、工場長が私を避けるから悲しくて、休み明けに工場長が工場にいないって知って、私、すっごく怒ってるんですからねっ!」
「ああ、すまない……」
「私には工場やめるなって言ったのに、工場長がいなくてどれだけみんなが大変だったか分かりますかっ!? いくら閑散期だといっても、工場長が何日も工場にいないなんて」
まだまだ続く私の言葉に、なぜだか、くすっと笑い声が降ってきて、ギロっと鋭い眼差しを工場長に向ける。
「そこっ! 笑うとこじゃないんですけどっ!?」
「ははっ、すみません……」
笑いをこらえながら謝られてしまい、なんだか釈然としない。
「とにかくっ、私はぜんぜん工場長の気持ちを考えていなくて……っ」
仕切りなおして話を続けようとしのに、腕を引かれてビックリする。
次の瞬間、痛いほど強く工場長の腕に包み込まれていた。息もできず、身動きもできないほど激しく、抱きしめられて。
「ずっと避けるような態度をとって悪かった。でもすべてのことにちゃんと決着をつけてからじゃないと宇佐美さんに向き合えないと思ったから」
申し訳なさそうに言った工場長は、抱きしめていた腕の力を緩める。
わずかにできた隙間に私は工場長を見上げると、美しい瞳の中でうっとりするほど甘い光がきらめいて、私を射とめるように揺れていた。
「俺も。ずっと宇佐美さんに会いたかった。たった数週間なのに、なんだかずいぶん長い間会わなかったみたいだ」
そう言って、もう一度、工場長は私を抱きしめた。
「ねえ、宇佐美さん。俺の望みを聞いてくれる?」
私の頬に触れながら、艶やかな瞳で覗きこまれてどきっとする。
「特別なことなんて望んでないよ、ただ君が涙を流す時にその涙をぬぐえる距離にいつもいたいだけなんだ」
そう言いながら私の頬を包んでいた工場長の長い指が伸びてきて、優しく私の目元をぬぐった。
その時になってはじめて、自分が泣いていることに気づいた。
なんだかさっきからずっと泣いてばかりで恥ずかしい。
「宇佐美さん」
甘く痺れるような声で名前を呼ばれて振り仰げば、工場長の端正な顔がだんだんと近づいてきてどきっとする。
息も触れそうな距離に、予感に、心臓が飛び出しそうなほど騒いでいる。
キスされる――
そう思って身構えたのに、唇の触れるほんの数センチのところで工場長の動きが止まる。
至近距離で魅惑的な眼差しで食い入るように見つめられて。
「好きだよ、宇佐美さん」
囁きと一緒に、唇に優しい感触が触れて、瞳を閉じた。




