スキよりももっと… 8
「本当にすみません……」
俯いて謝ることしかできない私に、柚希さんは楽しそうにくすくすと笑う。
「まあ、お爺様の考えは間違っていますけど、望みはありますよ。彼女と姻戚になりたいならいますぐ柊吾を呼び戻してください、彼女は柊吾の想い人です」
艶やかな笑みを浮かべてそんなことを言われて、私は思わず柚希さんを振り仰いでしまう。
私と視線が合った柚希さんは、勝気に微笑んでウィンクしてみせた。
でも。
「ほう、柊吾となあ……」
品定めするような眼差しで見つめられてたじろぐ。
だけど尋ねられずにはいられなくて、つい勢い込んで聞いてしまう。
「あのっ、こ――柊吾さんはどこに?」
私の問いかけに、お祖父さんはそれまでの柔らかい雰囲気をひっこめ、厳つい表情に戻る。
「柊吾は小松家との婚約を破談にした責を問ってフロリダだ。この婚約は個人的なものではない。紅林家と小松家との関係にひびを入れ、私の顔にも泥を塗ったんだ。その責任は取らなければなるまい」
「いつ戻ってくるんですかっ!?」
「さあなあ、やつの手腕次第だ」
そんな……
工場長がどこかに行ってしまったとは思っていたけど、まさかフロリダだなんて思いもしなかった。おまけに、いつ帰ってくるかも分からないと言われ、泣きたい気持ちにぎゅっと唇をかみしめる。
「柚希、紅林家に戻るなら、挨拶をしておきなさい」
私達との話は終わりとでもいう様に、お祖父さんは柚希さんにすげなく告げて歩き出してしまい、その後をお父さんがついていく。
柚希さんもその後を追おうとして、私を残していくのが心配だとでもいうように逡巡してその場に踏みとどまるから、私は大丈夫だと笑って見せる。
「ごめんね瑠璃ちゃん、すぐ戻るから適当に時間つぶしてて」
「大丈夫です、いってらっしゃい」
片手を振り、柚希さんを見送る。
少し先で、お祖父さん達がまたスーツ姿の男性に声をかけられていて、そこに柚希さんが合流する。その姿を見つめて、はぁーっとため息をもらした。
柚希さんが戻るまでどうしよう。軽食があるみたいだけど、一人じゃまともに歩けないのに食事なんて難しいだろう。
視線を会場に向けて、会場に隣接したバルコニーから中庭に繋がっているのが見えて、私は吸い込まれるようにバルコニーに足を向けた。
バルコニーに出ると、日はすっかり沈み、ひんやりとした夜風が肌を優しく撫でていく。
九月になったといっても広間はまだまだ半袖でもいいくらい暑くて、工場内ももちろん四十度越えているんだけど、さすがに夕方は半袖では涼しい。というか、ノースリーブだし。
私はバルコニーの手すりに腕をおいてもたれかかり、眼下に広がる中庭をぼんやり眺める。
フロリダ、かぁ……
日本からフロリダってどのくらいかかるんだろう。確か、フロリダ行きの直行便はなかったと思うけど……
とにかくすごく遠い場所だということだけがはっきりしている。
もしかしたら工場長に会えるかもしれないという淡い希望は、お祖父さんの言葉によってぐしゃぐしゃに握りつぶされてしまった。希望のかけらすら残っていない。
おまけに、いつ帰ってくるかも分からないなんて……
先が見えなくて、希望をもてなくて。
気がついたら、ぽろぽろと涙が頬を伝っていた。
こんなことになるなら、あの時離れなければよかった……
“俺の気持ちはどうでもいいの……?”
泣きそうな表情でそう尋ねた工場長の言葉に、どうしてもっと耳を貸さなかったのだろう。
みんなが幸せになれる選択がいいって思った。そんな都合のいい答えがないなら、私が我慢すればいいんだって。
でも、じゃあ、工場長の幸せってなに――?
薫子さんと結婚する事?
紅林家の後継者になること?
そんなことを望んでいるなんて工場長は一言も言わなかった。
工場長は「小松家との婚約は俺の意志じゃない。祖父や父が望んだことで、取り消そうと思えばどうとでもできる」って言ったけど、私は卑屈になって、出来るといいながらそうしないのは、取り消すことを望んでいないからだって決めつけて。
みんなの気持ち、みんなの気持ちって言って、私は結局一番大事な人の気持ちを考えていなかったじゃない。
工場長の気持ちなんて考えていなかった。
社長や薫子さんが悲しむのが嫌で、二人の気持ちを裏切って自分が悪者になるのが怖くて、逃げていただけ。
私は自分のことしか考えていなかった……
それなのに、自分の事ばかり優先させていた私の気持ちを、工場長は優先してくれた。
なんであの時、もっと素直にならなかったんだろう。
勇気を出さなかったのだろう。
『宇佐美さんはそれでいいの――?』
そう尋ねられて時、どうして、ちゃんと自分の気持ちを伝えられなかったのだろう……
工場長の側にいたい――
そう伝えられなかったのだろう……
涙は後から後から溢れてきて。
なんだか体が冷えるなと思ったら、夜空からぱらぱらと雨が降り始めていた。
雨のせいか、バルコニーにさっきまで出ていた人は皆、会場に戻ってしまっていて、いま、バルコニーには私一人だけだった。
会場に戻ろうかとも思ったけど、こんなぐしゃぐしゃの顔では戻れないよねと、自傷気味に苦笑する。
まあ、誰も見ていないし、私の頬が濡れているのも雨のせいということにしよう。
そう思ってバルコニーの手すりに寄りかかりながら、ふっと鼻歌を歌い出す。
なんとなく泣きたい気持ちで、そんな気持ちを励ますような恋の歌。
ワンフレーズ歌い、涙も落ち着いたかなと思ったのに、またぽろりと涙が頬を伝い落ちる。
まあいっか、雨のせいにしてしまおう。そう思ったら。
周囲の雨音が遠のいて、頭上に傘がさしかけられていることに気づく。
反射的に振り返って、私は息を飲んだ。
だって、そこにいたのは、ここにはいないはずの人だから。




