恋が実るための秘密のレシピはあるのかな? 2
はじめからこうだったわけじゃない。
四階が私語厳禁な緊迫した雰囲気といったが、基本的にはどこのフロアでも仕事中はみな黙々と作業をしている。時々、確認程度の会話から少し話が広がるくらいで、常におしゃべりをしていることはない。
私が三階に移動になった当初、江坂さんがやっている包装を手伝ったり、長瀬さんがやっている洗濯物の仕分けをしたり。基本的にはみんなアイロン担当で、その合間に洗濯物の仕分けや包装をするといったかんじで、私はその補佐的な仕事をしていた。
包装に慣れ始めた頃、普段は江坂さんがやっているYシャツのプレスと立体アイロンをやってみないかと声をかけられた。
はじめてやる作業に自分にできるのか最初はかなり戸惑った。衣装の仕分けや包装のように簡単な作業ではなく、技術を必要とするような作業にみえた。
最初は江坂さんがやりながら説明をしてくれて、それから江坂さんに横についててもらいながら実際にやってみた。
プレス自体は襟や前立ての皺を伸ばして置いてプレス機のスイッチを押すだけだから動作的にはそれほど難しくなかったが、立体アイロンは皺が残らないようにYシャツを着せるのが難しかった。ところどころ皺っぽいものが残ってしまう……
江坂さんに確認に行くと、あまりに目立つ皺があるときはアイロン作業をしている従業員に声をかけて直してもらえばいいと言われた。
裾の皺っぽいのは自分がやっても残ってしまうし、着れば裾はズボンの中にしまうからあまり気にしなくていいと言う江坂さんの言葉に励まされる。でも。
「隣にいる紅林君に自分で直してもらうように声かけて」
と言われた時には、「えぇっ」と叫びそうになってしまった。
だって、工場長である紅林さんにそんなことお願いするなんて恐れ多いというか……
ちらっと視線を紅林さんに向けると、アイロン台にむかって黙々と作業をしている長身が見える。彼の背後で誰かが花びらや光の粉をまいているのだと聞かされても納得してしまいそうな麗しさだ。
アッシュカラーの髪は窓から差し込む日差しを受けて透けて金色のようにキラキラ輝き、艶めいている。火の打ちどころのない整った顔立ち。背中に羽があれば天の御使いの姿だ。
そんな紅林さんに、立体アイロンで失敗した皺を直してほしいと声をかけるなんて……
だけど直してもらわないことには作業は進まなくて、仕方なく勇気を振り絞って声をかけた。
「紅林さん、あのっ」
アイロン台の上に広げた花柄のYシャツにアイロンをかけていた紅林さんは、アイロンをかける手を止めて振り返った。
「ここの皺を直してもらえますか?」
「ああ、うん、前側ね。いいよ」
にっこりと微笑むと、花柄のYシャツが広がっていないアイロン台の端の方にYシャツを乗せてささっとアイロンがけをしてくれた。
学生時代にYシャツを手作りするという課題があり、何度もYシャツにはアイロン掛けしたことがあるから、こんな立体アイロンで四苦八苦するよりもアイロンを使った方が皺もなく上手に仕上げることができるのに……と歯がゆく思いながらも、立体アイロンほど手早くできるかと聞かれたらそこは微妙なところで。
「はい、これで大丈夫」
皺が綺麗になくなったYシャツを手渡され私はぺこりとお辞儀する。
「ありがとうございます」
「いいえ~、最初は慣れるまで大変だろうけど、数をこなせば自然と慣れるよ。習うより慣れろってね」
紅林さんは優しい笑みを浮べて私を見下ろした。
確かに、今日中にこなさなければならないYシャツは山のようにある。これを毎日こなせば慣れるのも時間の問題だろう。被服学科だったからアイロンに対しての抵抗はないし、上手くYシャツをしあげるために自分なりに四苦八苦するのは楽しい。
受け取った皺一つなく綺麗に仕上がったYシャツをハンガーにかけて持ち場に戻ろうとしたら。
「また皺があったら持ってきていいよ、直すから」
甘く耳に響くバリトンボイスでそんなことを言われて、流し目で見つめられて、くらっと眩暈がしそうだった。
「はっ、はい……」
私はふらつきそうになる体をなんとかふんばって、持ち場へとそそくさと戻った。
その日は何度か紅林さんに直しをお願いした。
翌日はYシャツのプレス機と立体アイロンの機械が置かれた隣のアイロン台では誰も作業してなくて、紅林さんは一番離れた場所のアイロン台で作業をしてて、向かい側のアイロン台で作業している梅田さんという白い髭を生やした七十代くらいの男性に直しをしてもらった。
梅田さんは身長が小さくて、ほとんど私と変わらないくらいで、ふわふわの髭とおおらかな笑顔がテリア系のわんちゃんみたいな可愛らしい雰囲気のおじいさんで、気さくに話しかけてくれて優しい人。
本当に親切な人ばかりで、三階に移動できてよかったと改めて思った。




