スキよりももっと… 1
一晩悩んで決意したこと。
本当は、もっと前に決意していればよかったこと。
この気持ちに気づいた時とか、社長と約束した時に。
だからこれは当り前なことで、自然なことなんだと自分に言い聞かす。
私さえ我慢すればいい、って――……
※
今日のすべての品物を仕上げて最終便を送りだし、ぱらぱらと従業員が帰っていく中、支店以外の外注の品物を仕上げていく。
最終的に残って仕事をしていたのは私と工場長の二人だけで、なんとなく気まずいけどその空気に気づかないふりしていつも通り、工場長と他愛無い会話をして作業を進める。
すべての作業を終えて、出荷する品物を下に持っていって、フロアに戻ってきた私は、壁際に寄りかかった工場長が「はぁー」とため息をついているところを目撃してしまう。
工場長がため息なんてめずらしくて呆然と見つめていると、工場長と視線がぶつかった。
ふっと目元を綻ばせた工場長はくいくいって手招きして、私に近くに来るように合図する。それから、背を壁につけたままその場に座り込んだ。
「工場長、疲れましたか?」
近づいて、腰を折り曲げて尋ねると、工場長は両手を左右に大きく広げる。
私はその行動の意味が分からなくてこくんっと首を傾げたら。
「おいで」
艶やかで麗しい微笑みでそう言うと、呆然としている私を両手で抱きしめた。
あっと思う間に、私の顔は工場長の胸に埋められていて、自分でも分かるくらい顔がかぁーっと赤くなる。
「あのっ、工場長……?」
突然抱きしめられてドキドキしすぎてどうしていいかわからなくて、私は工場長から離れたくて、工場長の胸を手で押して距離を取ろうとしたのだけど。
私の抵抗を阻止するように、背中に回されていた腕に力が込められて強く抱きしめられて。
私の肩口にぽふんって工場長が頭を乗せるから、完全に身動きが取れなくて。
ドキドキうるさい心臓の音を聞かれてしまいそうで身じろいだ私の耳元に、くすっと工場長の甘い笑い声が聞こえる。
抱きしめられていた腕の力が緩められ、工場長の胸に埋めていた顔を上げると、この上ない美貌に艶やかな微笑みを浮かべて私を見つめていた。
「充電完了」
そう言いながら、もう一度愛しげにぎゅっと抱きしめられて。
まるで恋人に向けるみたいな慈しむような笑顔を向けられて。
工場長のぬくもりに包まれて。
安心感と切なさが胸に押し寄せて、涙が溢れてくる。
私はその涙を隠すために俯いて、コンっと工場長の胸に頭をつける。
「……工場長」
少しの間を挟んで絞り出した声はかすかに震えていて、これから言わなければならない言葉がなかなか出てこない。
だけど。
悩んで悩んで、いっぱい悩んでこうしようって決めたことなのだから、ちゃんと伝えなければ。
伝えるべき言葉を心の中で反芻して、迷いを断ち切るために自分に喝を入れる。
ぎゅっと唇を握りしめてから上げた私の顔は、きっと、ちゃんと笑顔を浮かべられていたと思う。
「工場長と私は、上司と部下ですよね?」
疑問形で、でも確固たる決意を持って言った私の言葉に、工場長は私が何を言いたいのか分からないというように困惑気に首を傾げる。
私はいまだに背中に回されている腕から逃げるように一歩下がり、立ち上がる。
そうすると、普段は見上げてばかりの工場長の顔を見下ろす形になる。
「確かに私は工場長のこと好きですよ? でもなんか勘違いだったというか、工場長に私のこと好きって言われてもぜんぜん実感なくて、付き合うとかまったく想像できなくて。ずっと女子校育ちで恋とかあんまり分からなくて、きっと、恋と尊敬を勘違いしてたんです。工場長のことは男性としてじゃなくて、上司としてすごく尊敬してます。だから、この気持ちは恋じゃなくて、憧れだったんだと思います」
一息に喋って、最後にへらっと笑う。
尊敬してるのも憧れているのも嘘じゃない。
涼子や暁ちゃんに、いつも嘘が下手だって言われるから、真実もおりまぜて誤魔化す。
「だから、私と工場長は」
「付き合えない?」
私が言おうとした言葉を工場長が言ってしまい、私はゆっくりと首を縦に振った。
これでいいんだって、心の中で自分に言い聞かせて。
それなのに。
「だから――?」
しれっとした顔で聞き返してくる工場長のマイペースな態度に、内心で地団駄を踏みたくなる。
なんでよっ!?
ちゃんと説明したじゃないっ!!
そう叫びたくて。
でも、心の奥では、「はいそうですか」ってあっさり受け入れられなかったことに泣きそうに安心してしまう。
なにも言い返せなくて悔しくて、ぎゅっと唇をかみしめて工場長を睨みつける私を、工場長は余裕たっぷりの笑顔を浮かべて立ち上がる。
形勢逆転と言わんばかりに、今度は工場長を見上げるかっこうになってしまう。
「俺は宇佐美さんのこと、女の子として意識しているし、好きだよ?」
吸い込まれそうな漆黒の瞳にまっすぐ射抜かれて、口元に甘い笑みを浮かべて、勝気に言われて、二の句が継げない。
「~~~~~~っ」
声にならないうめき声をあげて、どうしてくれようかと思う。
こうなっては、口で工場長には勝てる気がしなくて、でもここであっさり負けを認めるような半端な覚悟をしてきたわけじゃなくて、頭をフル回転して反撃の糸口を見つける。
「っ! 工場長には薫子さんっていう婚約者がいるじゃないですかっ、婚約者がいる人となんて付き合えませんっ」
ふんっと鼻息も荒く言った私を真顔で見下ろして工場長は、顎に手をあてて考え込む仕草をする。
「小松家との婚約は俺の意志じゃない。祖父や父が望んだことで、取り消そうと思えばどうとでもできる」
感情のよみとれない冷めた声音で他人事のように言う。
工場長の口から家のことを聞くのは初めてで、自分の事なのに自分の事じゃないみたいに喋る工場長が切なくて、そしてどこか冷たい態度にゾクっとする。
それと同時に、薫子さんや社長の想いがぜんぜん工場長に伝わっていないことが分かってもどかしくなる。
「そんなっ、だって、薫子さんは生まれた時から工場長のお嫁さんになることを夢見てきたってあんなに楽しみにしてて。社長だって、ずっと工場長が紅林家の跡取りになることを応援してて、女装だって――っ」
ついカっとして感情に任せて喋ってしまい、そこまで言ってはっとして口元を手で押さえる。
社長が工場長に跡取りになってほしくて、そのためにずっと女装していたっていうことは言っちゃまずかったよね……
恐々と視線をあげると、工場長は吹雪が吹きつけるような冷ややかな眼差しでこちらを見ていた。
「だから――?」
尋ねる言葉はさっきと一緒なのに、まるで別人みたいな寒々しい言葉に、びくっと肩を震わせて、思わず後ずさる。
「薫子さんが俺と結婚したがってるから結婚しろって? 柚希が俺に紅林家の後継者になってほしいからなれって――? 俺の気持ちはどうでもいいの……?」
小さな声で付け加えられた最後の一言にぱっと工場長を仰ぎ見ると、寂しげな瞳を伏せてて、まるでその様子が泣いているように見えて、ぎゅっと唇をかみしめる。
「宇佐美さんはそれでいいの――?」
掠れた声が降ってきて、私は頷くことも首を横に振ることも出来ない。
だって、工場長のこと好きだもの。
工場長が他の人と結婚するなんて嫌だ。
でも、じゃあ、社長の想いは――?
心の中で誰かが問いかける。それと同時に、工場長の言葉が胸の中に響く。
“俺の気持ちはどうでもいいの……?”
工場長の気持ち……?
だけど、社長が……
泣きそうな苦しげな社長の表情を思い出して、ほろほろと泣く薫子さんの姿を思い出して、ちくちく痛む胸に、どうしたらいいか分からなくなる。
みんなの想いがぐちゃぐちゃに混ざって、何が正解なのかわからない。
はじめから正解なんかないのかもしれない。
だったら、みんなが幸せになれる選択がいい。
みんなが幸せになれる、そんな都合のいい答えなんてないなら、私が我慢すればいいんだって思う。
それでみんな幸せになるなら、いいじゃない――?
無意識に唇を強くかみしめてて、血の味がにじんでくる。
「私は……それでいいです。工場長とはどうあったって付き合えないんです」
「どうしても――?」
淀むことなくいった私の真意を探るように、工場長がまっすぐに見返してくる。
わたしはコクンっと唾を飲み込んで、次の言葉を口にする。
「工場長が納得してくれないなら……、私はここをやめます……」




