それぞれの想い、そして決意
「柊吾は幼い頃にたった一人の血縁である母親を亡くして、血縁が一人もいない、仮面をかぶって上辺だけで接する大人ばかりに囲まれて育った。血がつながっていなくても父親に愛され、将来を約束されている――それだけが柊吾の希望だった。紅林家の跡を継ぐことだけが柊吾の唯一の生きる意味だったんだよ」
泣きそうな切なげな声で喋る社長に、胸の奥が苦しくなる。
「だから、私は何度も柊吾に釘さして、瑠璃ちゃんにまで釘さして、二人の気持ちを遠ざけた……」
社長が言葉をきり、居たたまれないという様に私から視線を背ける。
沈黙が個室に広がり、だけど私は何も言えなくて、俯いた。
社長から聞かされた工場長の幼い頃の事情は、想像もつかないものだった。
人間離れした美貌で、いつも笑みが絶えなくて、でも、どこか人を寄せ付けないような空気を放っていた原因が垣間見えたようで、胸が締めつけられる。
幼い頃、寂しい環境で育った工場長が悲しくて。
そんな空気微塵も出さない笑顔が寂しくて。
父親に愛されないことに嘆くどころか、父親の溺愛する義弟を守ろうと必死な社長の想いが切なくて。
涙が溢れてしまう。
「……だけど」
少しの沈黙の後、そう口を開いた社長の瞳は、迷いを捨てきれないように揺らいでいた。
「時々、私のしたことは間違っていたのかもしれないと思う時がある。紅林家の跡を継ぐことだけが柊吾の唯一の生きる意味だなんて誰が決めたの――? 本当に柊吾はそれを望んでいるのか――私には分からなくなってきちゃった。柊吾が瑠璃ちゃんを気にかける度に何度も釘を刺して、その度に柊吾はそんな気はないって澄ました顔して、小松家の御嬢さんとも何事もないような顔で結納を済ませて。これでまた紅林家の跡取りとしての地盤が盤石になった、これが柊吾のためなんだって思うのに、どこかで矛盾した気持ちがあって――」
泣きそうな顔を隠すように、社長が前髪をかきあげる。
「昨日、柊吾が瑠璃ちゃんの腕を引いて車に向かっているのをみて、柊吾は瑠璃ちゃんをすごく好きなんだって思ったよ。小松家と結納を済ませた大事な時期だっていうのに、瑠璃ちゃんを捕まえたくなるくらい。瑠璃ちゃん、前に私と約束したこと覚えてる?」
社長との約束といえば一つしかない――
こっちを見た社長の瞳は優しくて、だけどなにもかも見透かさすような瞳で、びくっと体が震える。
「あのっ、それはっ」
私が口を開くと、それを遮るように社長が優しく微笑んだ。
「あの約束は、反故にしよう。私は今でも柊吾が後継ぎになることを願っている。でも、柊吾が小松家との婚約を解消してでも瑠璃ちゃんと一緒になりたいっていうなら、もう私は口出ししない。人の恋路を邪魔するやつはなんとやら、だからね」
そう言った社長はどこか困ったような、でもすっきりしたような表情をしていた。
※
昼休憩をだいぶ過ぎてから瑠璃ちゃんと一緒に工場に戻り、自分は事務所で作業をしていたけど、下の階に用事が出来て降りて行ったとき、彼女は誰かに話しかけられても上の空で仕事をしてて、その姿を見て、胸が痛む。
まあ、無理もないよな……
あんな話、聞いていい気がするものではない。
自分の家の事情でも、それが普通ではないことも、もちろん自分自身がしていることも普通じゃない自覚はある。だけど、それが私なのだから、どうしようもない。
理解してもらおうとは思わない。
ただ、知っていてほしかっただけだ。
何も知らないままの彼女に柊吾のことを任せられないし、彼女も何も知らないままでは前に進むこともできないだろう。
だけど。
心ここに非ずの状態で仕事をする瑠璃ちゃんの姿は痛々しくて、引っ掻き回していたことが申し訳なくて。
瑠璃ちゃんを早めに上がらせるように江坂さんにそれとなく頼んでから事務所に戻った。
※
なんだろう……
考えなきゃならないことはいっぱいあるはずなのに、うまく考えがまとまらないというか、頭が働かないというか……
それでも体に染みついたように手だけは動いて、無意識にでも仕事をこなしていたのに。
江坂さんに「体調悪そうだから、今日はもう上がっていいよ」って言われたのは、やっぱり足手まといになっていたのかな、とちょっと落ち込む。
ほんと、最近の私はダメダメだ……
全然、仕事に身が入っていない。
がっくり肩を落としながら、まだみんなが働いている工場の階段を下り、外に出たところでピタッと足を止めた。
※
「こんばんは」
声をかけられて顔を上げると、工場の出入り口の向かい側に立っていたのは、一度だけ会った、工場長の婚約者の薫子さんだった。
腰まであるふわふわのロングヘアを揺らして、にこっと微笑む少女はまさに「ザ・女の子」といった雰囲気を漂わせている。
だけど、なんで私に……?
そんな疑問がすぐに浮かんできて、その場に縫い止められる。
薫子さんは微笑みを浮かべたまま私に近づいてくると、ぺこりと頭を下げた。
「宇佐美 瑠璃さん――、ですわね? 少しお時間よろしいかしら?」
そう言って歩き出す薫子さんについていきたくなかったけど、一緒に行くしかなくて、私は渋々薫子さんの後を追った。
※
駅前の喫茶店に入った私と薫子さんは窓側の四人掛けの席に向かい合って座り、それぞれ紅茶を注文した。
薫子さんは紅茶が運ばれてくるまでずっと視線を窓の外に向けていて、優雅な仕草で紅茶を一口飲むと、カップをソーサに戻して、まっすぐに私を見つめた。
「……以前にも、お会いしたことがありますわね?」
「はい……」
「あの時は、まさか柊吾さんの会社の方とは知らず、挨拶もできずすみません。わたくし、小松 薫子と申します。あなたとお会いした日に柊吾さんと正式に結納を交わした婚約者ですわ」
砂糖菓子みたいにふんわりと微笑んで言った薫子さんに、私は「ああ」と内心納得する。
このことが言いたかったのか……
「工場長からも伺っています。ご婚約おめでとうございます」
まったく気にしていません。私と工場長は何でもありませんから――って含みを込めて、単調にお祝いの言葉を口にすると、薫子さんは思惑が外れたようにちょっと不機嫌そうに眉根を寄せて、それからすぐに笑顔をはりつかせる。
「ありがとうございますぅ、柊吾さんとの結婚式の日が今から待ち遠しくて、日取りはいつにしましょうかって毎日電話で話しているんですの」
薫子さんは鈴の音のように声を弾ませて楽しそうに言う。当てつけで言っているのではなく、本当に心から待ち遠しいという気持ちが伝わってきて、胸が苦しくなる。
「それで、私に何の用ですか?」
尋ねつつ、何を言われるかだいたい想像はつく。
薫子さんは話をぶった切られて、おまけに強気で尋ねた私に驚いたように目を瞬かせ、それから少し困ったように視線を伏せる。
「えっと、その……、柊吾さんの事で……」
いきなり歯切れ悪くなった薫子さんに、こっちの方が動揺してしまう。
さっきまでの婚約者の余裕みたいなのはどこにいってしまったのだろうか……?
まさか、本当にさっきのは天然でのろけていただけなのだろうか……?
判断しかねて、私は薫子さんの言葉を待つしかできない。
「先日、柊吾さんとお会いしていましたよね……?」
こちらの出方を伺う様に上目づかいで尋ねられて、でもその質問の内容に、目が点になる。
「ええっと……」
先日っていつのこと……?
ってか、工場でほぼ毎日会っているけど……?
そういうことを聞きたいわけじゃないよね……?
頭の中で疑問が飛び交って、つい首を傾げてしまう。
「あの日、柊吾さんを夕飯にお誘いしたら用事があるからと断られてしまい、でもどうしても会いたくなってしまって社長さんに居場所をお聞きしたら店舗にいると教えてくださって……、見てしまったのですわ、あなたと柊吾さんが一緒にいるところを。わたくしには用事があると言って、あなたと会っている柊吾さんを……」
涙をにじませながら喋る薫子さんに、私はぽかんとしてしまう。
ええっと、それって……
私が涼子と飲んだ帰りに偶然店舗の前で工場長と会った時のことかな……?
なんかすごく誤解されているみたいだけど、さすがに訂正した方がいいよね……?
会っていたんじゃなくて、本当に偶然すれ違ったようなものだし。
だけど。私が口を開く前に、ずずずっと薫子さんがすすり泣く。
「そうですよね、こんな可愛らしい方と毎日一緒にお仕事なさっていたら、柊吾さんだって好きになってしまいますわよね……、でも、嫌です」
幼子みたいに嫌々と首を横に振る。
「私は柊吾さんが好きなんですわ。ずっと生まれた時から柊吾さんのお嫁さんになることだけを夢見てきたのに……、私には柊吾さんしかいないのですわぁ……」
目の前でわぁーっと机に泣き伏してしまった薫子さんに、目を瞬かせる。
なんだかどこから突っ込んでいいのか分からなくなって、閉口する。
可愛いって、絶対、違う意味だよなぁ……
がくんっと肩を落とす。
初めて会った時、お人形さんみたいな可愛らしい容貌と高飛車な喋り方がいかにも、社長のいう「紅林家の後継者にふさわしい家柄のお嬢さん」って感じがしたけど。
目の前でほろほろと泣く少女は、どこにでもいる恋する女の子でしかなくて、なんだか身につまされる。
私はてっきり「わたくしの婚約者に色目を使わないでくださる?」とか「わたくしという婚約者がいるのだから柊吾さんのことはきれいさっぱり諦めてくださる?」とか言われるのだろうと思っていたのに。
想像の斜め上をいく、薫子さんの発言にどうしていいものかとため息がこぼれた。




