恋が実るための秘密のレシピはあるのかな? 1
洗濯が終わって仕分けしたYシャツを入れたリスボックスを担当のアイロン台の方へと移動させようとしたら、ふいに名前を呼ばれた。
「宇佐美さん」
低くかすれた甘い声音。
その声を聞いただけで、私の体に甘い痺れが走る。
「なんですか工場長?」
ドギマギする心臓に気づかれないように、腰をかがめてリスボックスを押す格好のまま、あえて工場長の方を向かないように斜めに視線をあげる。
「そこ狭いから気をつけて」
「大丈夫ですよ。通れます」
フロアには所狭しと洗濯機や乾燥機、アイロン台が置かれ、天井からつりさげられたいくつものパイプハンガーにはこれからアイロンがけされる衣装やすでにアイロンが終わり包装待ちの衣装がずらりとつりさげられている。
私が今いる乾燥機の前も、もともと狭い通路にリスボックスやランドリーカートが並び、そのすぐ横にはアイロン台が並んでいる。それでもどうにかリスボックスくらいは通れる幅はある。
「リスボックスは通れるけど、宇佐美さんは通れないんじゃない?」
にっこりと麗しい笑顔で言われ、ぴくりと口元が引きつる。が、なんとか笑顔を張りつけて答えた。
「さすがにリスボックスよりは小さいんですけどっ」
そもそもリスボックスの横幅は六十五センチで、普通に見て体の幅より大きいんだけど……
でも。私は反論したい気持ちをぐっとこらえて、言葉を飲み込む。ってか、無視よ、無視っ。
私は工場長のことなど気にせずに、リスボックスを押して移動させた。
その背後で、くすっと笑われた気がしたのは……気のせいってことにしておこう。
クリーニング工場で働きだして半年が経ち、季節は夏。
工場内はプレス機の蒸気やアイロンの熱がこもり、尋常じゃない暑さだ。窓をあけて、換気扇を回してもあまりの暑さに額から汗がこぼれ落ちてくるのを首にかけたタオルで拭った。
バイトし始めて一ヵ月目に四階から三階に移動になった私は、そのまま三階で作業することに決まった。
三月には無事大学も卒業し、それまでは大学の講義の関係で週三日ほどのシフトだったのが、週六日フルタイムで入ることになり、今までは顔を合わせなかった人とも会うようになり、だいたいの人の名前を覚えた感じだ。
中須賀さんとは時々顔を合わすこともあるけど、一緒に作業をすることは滅多になくなって、以前のように怒鳴られることもほとんどなくなった。ま、高圧的な物言いは相変わらずなんだけど。
そして――
同じフロアで働くようになって一番変わったのは、紅林さんへの印象だった。
見上げるほど背の高い均整のとれた身体、天使もかくやとばかりに美麗な顔立ち、くるくると跳ねたアッシュヘアーは艶やかで、星空を切り取ったような吸い込まれそうな黒い瞳、色気の漂う唇。
クリーニング工場の工場長というよりもモデルと言われた方がしっくりくるほど人目を引く華やかな容姿を持ち、いかにも仕事ができますというオーラが漂っている大人の男で。
実際、仕事をしている工場長の真剣な眼差しは見惚れてしまうほどかっこよくて、後頭部で結わいた髪の毛の跳ねた毛先とか、うなじが色っぽい。
だけど。
そんな見た目とはうらはらに、性格はおどけているっていうか冗談とかが好きで、ちょっと子供っぽいっていうのかな……?
とにかく、なにかにつけて私のことをからかってくるから、どう反応していいのか困ってしまう。
さっきだって、通れるのは明らかなのに、通れないとかからかうし。
そりゃあさ、ちょっとぽっちゃり体系だけど、そんなに横幅はないと思うよ? まあ、身長は低いけど……
つい眉間に皺を寄せてため息をついてしまう。
そんなことを考えながらも作業をしていたら、不意打ちで耳元で声をかけられた。
「宇佐美さんって左利き?」
「ひゃっ!?」
私の肩の上から覗き込むように工場長が腰をかがめているから……、顔が近いっ!!!!
驚きのあまり持っていたはさみを落としそうになり、それを工場長が支えてくれた。
触れた手のひらから熱がほとばしるように全身に広がっていく。
どきどきと心臓がうるさく騒ぎ始めて、落ち着かない。
「きゅ、急に声かけないでください……」
「別に急じゃないでしょう? はさみ使っている人がぼーっとしてたらダメだよ」
「ぼーっとしてたんじゃなくて集中してたんです」
「そう? そんなふうには見えなかったけど?」
くすりと口元に薄い笑みを浮かべた工場長の瞳は、すべてを見透かしているみたいに鮮やかでどきっとしてしまう。
「ずっと気になってたんだよね、宇佐美さんが左利きかどうか」
すっと顔を近づけて耳元でささやかれて、私は思わず身をがばっとそらして工場長から距離をとった。ささやかれた方の耳を両手で押さえならが、振り返りざまふりあおぐ。
そんな私の行動を、工場長は一瞬驚いたように瞳を見開いて、それからゆっくりと口元の笑みを深くした。
工場長はモデル並みにカッコイイ。そしてなにより素晴らしく魅惑的な声をしている。そんな声で耳元で囁かれたら……腰が抜けてしまうくらい破壊力抜群なんだから。
現に今だって、腰が砕ける一歩手前、的な?
「そんなこといちいち気にしないでくださいよー」
私はとにかくこの会話を終わりにしたくて、適当に相槌をうつ。それに気づいたのか、工場長の瞳に一瞬、妖しい光が浮かぶ。
「やっぱり左利き?」
「そうですよ」
「へー。それ右利きようの普通のはさみだよね? 左で使えるの?」
「使えますよ、現にこうして使ってるじゃないですか」
「でもさぁ~。はさみの原理的には……」
「はいはい、それは知ってます。でも、実際は切れますから」
「はさみ以外も左なの?」
「そうですね~、基本的には」
「ふ~ん」
なんだか意味深に相槌を打たれて、嫌な予感がする。
ちらっと盗み見るように視線をあげると、工場長の星空を切り取ったような瞳がじぃーっとこっちを見ていた。その視線があまりにも真剣で、不覚にもどきっとしてしまう。
「可愛いね」
ふっと微笑んで甘やかな声音で言うから、一瞬、思考が止まった気がする。
「宇佐美さんの左利き、可愛い」
微笑んでさらっとそんなことを言った工場長は、私の横から移動して作業へと戻っていった。
残された私はというと……
自分でも分かるくらい顔が真っ赤になっていたと思う。
なんて甘い声で、キザなセリフを言うんだろうか……
なにあれ!?
嫌がらせ?
それともなにか?
天然なんですかぁ……!?
もう頭の中パンク寸前で、うっきゃーとか意味不明な言葉を叫びたい衝動を必死に押さえながら、アイロンがけが終わってパイプハンガーに掛けられた衣装を次々に包装機にかけていく。なんとか作業に集中して心を鎮めようと思ったんだけど。
包装機の前で黙々と衣装を包装していたら、斜め横のアイロン台で作業していた工場長が振り返って、私の目をまっすぐに見ていった。
「可愛い、見れば見るほど可愛い」
しみじみと言われて、心臓が爆発寸前。と思ったら。
「見て見て~、これすっごく可愛いよ~」
そう言って持ち上げか工場長の左手には、ハンガーに掛かった子供用の紫のドレスだった。胸元のリボンとふんわりと広がった裾がなんとも可愛らしいドレスだ。
確かに小ささがその可愛らしさを引き立たせていたけど、そんなに可愛いを連呼するほどじゃないのになぁ……
って呆気にとられていたら、ドレスをパイプハンガーにかけた工場長がにんまりと微笑んだ。
「あっ、もしかして可愛いって宇佐美さんの事だと思った? あー、宇佐美さんならこのくらいのドレスも似合うかもしれないけど――」
「いくら私の身長が低くてもそんな小さなドレスは着れませんっ!」
工場長が言い終わる前に叫ぶ。
そんな私と工場長のやりとりを見て、同じフロアで作業している人たちはくすくすと笑って見ているだけ。
うぅ……、見ていないで、助けてくださいよぉ~
目線で訴えかけてもみんな笑うだけなんだもの。薄情者ぉ……
工場長が私のことをからかって楽しんでいるだけだって分かった今、私は完全に工場長に無視を決め込んで、黙々と作業を続けたのだけど。
「やっぱ可愛いなぁ~」
言いながら流し目で私を見た工場長は。
「このドレスがね」
って分かりきっていることを言って、楽しそうに微笑んだ。




