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love it  作者: 滝沢美月
8便
55/78

失恋に覚悟は必要ですか? 4



 ピーン、ポーンッ……

 その音がやけに長く響いて聞こえる。

 一度しか押していない呼び鈴の音がこだまのように何度も耳に響いた後、静寂が闇を包む。

 ドアホン越しに工場長の声が聞こえるのを、ごくんっと唾を飲み込んで待ち構える。

 だけど。

 ドアホン越しに会話がもたれる前に、家の中でバタバタっと足音が聞こえた思うと玄関内に明かりがつき、ガチャガチャっと乱暴に開錠される音が響く。


「……しつこいぞっ、柚希っ!!」


 扉が開くと同時に怒気をはらんだ工場長の声が降ってきて、私は驚きにびくっと大きく肩を揺らす。

 一息に怒鳴り、そのままの勢いで扉をしめようとした工場長の視線がゆっくりと下がってきて、私を見つけた瞬間、夜空を切りとったような漆黒の瞳が大きく見開かれた。

 目を見張るその動作がやけにスローモーションに映って、ドキドキと心臓が駆け出していく。

 不機嫌そうに眉間に皺を寄せた表情が驚きに一瞬固まり、ゆっくりと見開かれて揺れる。


「う、さみ……さ、ん……、なんで……」


 動揺でひどく掠れた声で工場長が私の名を呼ぶから、胸がきゅっと締め付けられる。

 そんな迷惑そうな顔しなくてもいいのに、ってちょっと傷つく。

 工場長に帰れって言われる前に、私は一息にここにいる理由を説明する。


「こんばんはっ、夜分遅くにすみません」


 言いながら、ぺこっと頭をさげる。


「本当は帰りに工場長に話そうと思っていたのですが、集荷に代わりに出かけられたと聞いて明日にしようかとも思ったのですが、こういうことは早めに話しておいた方がいいかと思いまして……」


 回りくどい言い方をしていることへの後ろめたさで、ごにょごにょと語尾は口の中で掻き消える。

 こんな時間にわざわざ家まで来てする話ってなんなんだって不可解そうだった工場長の顔がすっと引き締まり、「仕事のこと?」と聞かれて、私はこくこくと首を縦に振って頷いた。

 本当は仕事の話がしたいわけじゃないんだけど、ここで違うって言ったらすぐにでも追い返されそうな雰囲気につい頷いてしまったことに、ちょっと罪悪感を覚えながらも。


「それならとりあえずなかに入って」


 と言って中に招き入れてくれる工場長に従って、工場長の家に一歩を踏み入れた。

 入ってすぐは広い玄関ホール。横には備え付けの靴棚があって、玄関を上がってすぐの場所には左手に扉が一つ、正面に扉が二つ、右手に階段がある。

 それを見て、うん、やっぱりと思ってしまう余裕がある。

 なにがやっぱりかというと、隣の社長の家と間取りが反転していること。

 前に社長の家にお邪魔した時、社長の家も玄関入ってすぐ正面に扉が二つあり、それぞれお手洗いと浴室で、右手にリビングキッチンに続く扉が、左手に階段があった。

 つまり、工場長の家も正面の扉のどちらかがお手洗いと浴室で、左手の扉の奥にリビングキッチンがあるのだろう。

 前に、一度工場長の家に招き入れられた時はそこまで間取りを見る余裕はなかった。

 今日も余裕なんてぜんぜんないけど、緊張しすぎて逆に冷静に間取りを分析してしまっただけ。

 うん、まあ、この場所で起きた思い出したくない小っ恥ずかしい出来事を思い出さないように強制的に違うことに意識を持っていってるとも言えないけど……


「こっち」


 と招かれたのは左手の扉の奥で、やっぱりそこにはリビングキッチンが広がっていた。

 縦長のリビングキッチンは、入ってすぐのところが対面式のカウンターキッチンになっていて、その前にはダークブラウンの二人掛けのダイニングテーブルとチェアのセット。

 さらに奥に一人掛けのこれまたダークグレーの革張りのソファーとガラスのサイドテーブルが置かれ、その下に惹かれたカーペットは澄んだ青空のような淡いスカイブルー。庭に面した窓の角に小さめのTV台とその上にTVが置かれている。

 部屋を見回してふわぁ~っと間の抜けた感嘆の声をあげている私に、「そこ座って」と二人掛けのダイニングチェアの一つを指すから、視線をまだ室内に彷徨わせたまま、ゆくりと椅子を引いて浅く腰掛ける。

 社長の家は観葉植物が置いてあったり、色鮮やかな家具で華やかな室内だったけど、工場長の部屋は白い壁にダークブラウンの家具で統一され、必要最低限の家具だけが置かれていて、あまり生活感を感じさせないけど。

 きちんと整理整頓された室内は、工場長っぽいといえば工場長っぽいかもしれない。


「どうぞ」


 ぼぉーっと室内を見回していた私にくすっといつもの意地悪な微笑を浮かべた工場長は、机の上に二つのグラスを置く。


「コーヒー豆切らしてて麦茶しかなくて」

「いえ、大丈夫です。自転車こいで喉乾いてたし、麦茶大好きです。それに、コーヒーは苦手で……」

「ああやっぱりね」


 カミングアウトに恥ずかしげに顔を伏せれば、知ってましたとばかりに艶やかに微笑まれてつい聞き返してしまう。


「やっぱりって……」

「いつも昼休憩でご飯食べ終わった後に宇佐美さんがみんなにコーヒー入れてくれるけど、よく見るといつも宇佐美さんは飲んでないから、苦手なのかなぁ~って」

「よく、見てますね……」


 そんなとこ見られてたとは思わなくて恥ずかしくなる。


「宇佐美さんがいれてくれるコーヒー美味しいから、苦手とは思えなかったけど、でも一度も飲んでるとこ見ないから、もしかしてって思ってたんだ」

「この年でコーヒー苦手とか子供っぽいって思いますよね?」


 ちらって上目づかいに見上げれば。


「そんなことないよ」


 想像していた言葉とはうらはらに、優しい瞳で工場長が見ているから不意打ちでどきっとしてしまう。

 だって絶対、「うん、そうだね。それじゃなくても宇佐美さんは子供みたいなのに」とか、いつものいたずらっ子みたいな楽しそうな笑みで言われると思ってたのに。

 あまりに優しげな瞳で見つめられて、どきどきと心臓がうるさくて、工場長に私の心臓の音が聞こえてしまうんじゃないかって心配になって。


「わっ、私は、やっぱりさっぱりしてる麦茶が一番好きです……」


 工場長から視線をそらして話題をかえるように早口で言ったのだけど。


「俺も好き」


 そう言った工場長が天使も逃げ出しそうな麗しい笑みを浮かべたのが、顔を背けてても眩さがびしばし顔に当たってわかった。

 私はやけくそで工場長の方へきっと向き直り、本題にはいることにした。


「それで工場長っ! 話したいことなんですがっ」


 無駄にドキドキしている私になんてまったく気づきもせず、工場長がいつもの柔和な微笑を浮かべる。


「うん、なに?」

「私……っ」


 工場長のことが好きです――

 たったその一言を、勢いに任せて一息に言ってしまおうとして、言葉を飲み込む。

 私にとっては自分の気持ちを伝えるのが本題だけど、工場長にとっては私の口から出まかせの仕事の話が本題だと思っているはずだから、それを先に終わらせた方がいいかしらと、思いとどまる。

 大した話ではないけど、振られた後に言うのはやっぱ気まずいし。

 うん、先に仕事の要件を済ませてしまおう。


「宇佐美さん?」


 怪訝そうに首を傾げられて、私はごくんっと唾を飲み込む。


「私、の休みと梅田さんの休みの日を交換してもいいですか? 梅田さん、足が痛くて病院に行きたいらしいんですけど木曜日は休診だから、火曜休みの私と休みを交換してほしいって梅田さんに言われて、明日からさっそく代わってほしいって言われて今日中に工場長に伝えなければと思って……」

「ああ、そのことは梅田さんから聞いてますよ、って、もしかしてそれだけを言うために来たの?」


 それまで穏やかだった工場長の表情が訝しげに私を見つめる。


「いえっ、それだけじゃなくて、他にも話したいことがあって……」

「それって仕事の話?」


 私の言葉に被さるように冷ややかな工場長の声で遮られて、胸に氷を流しこまれたみたいにひゅっと息を飲む。

 さっき一度嘘をついて、でも梅田さんと休みの日を交換することを伝えたかったのは本当で、でももう他に仕事の話とかこつけることはできなくて、押し黙って俯くと。

 工場長の冷ややかな視線が突き刺さる感じがして、なおさら顔を上げられない。

 振られるって分かってたけど、急に険悪になった工場長の雰囲気に、「好き」と口にするのもはばかられて、泣きそうになる。

 瞳の端にじわじわと涙が溢れそうになって、ぎゅっと奥歯をかみしめる。

 だめだよ、ここで弱気になったらっ!

 言うって決めたんだもの。

 結果は分かってても、ちゃんと自分の口から伝えるって。


「仕事の話じゃなくて、プライベートのことで工場長に話があって……」


 勇気を振り絞ってなんとか言って恐る恐る顔を上げて、息を飲む。

 工場長が、あまりにも皮肉気な笑みで私を見つめているから。

 ドキドキと心臓が嫌な音を立てて、背中を汗が伝っていく。


「宇佐美さんがプライベートで俺になんの話があるっていうの? 俺には宇佐美さんから聞くようなことはなにもないけど?」


 こくりと首を傾げたその動作はまるでスローモーションで、優美な彫像が首を傾げたみたいに、その動作だけで絵になって。なのに、その瞳があまりに冷たくて。


「ああ、もうこんな時間だ、明日も仕事になったんだから、早く帰って休みなさい」


 話はここまでだと言う様に工場長は椅子から立ち上がり、玄関へと続く扉を開けて、その横に立つ。

 すぐにでも帰れというその態度に、胸の中がぐちゃぐちゃで何も考えられない。

 自分がなんのためにここに来たのかもわからなくなって、ただ、あまりにも冷たい工場長の視線から早く逃れたくて、私はがくがく震える体をかばうように左手で抱きしめ、立ち上がりながら床に置いていた鞄を掴むと、駆け足でダイニングを横切り、玄関を飛び出した。


「お邪魔しましたっ……」


 俯いたまま、なんとか絞り出した声は嗚咽交じりであまりにも掠れてて情けない。

 早く、この場から立ち去りたいのに、こういう時に限って上手く靴が履けなくて、玄関でもたついてしまう。

 なんとか靴を履くことが出来て、すぐにでもこの場から消えてしまおうと足を踏み出そうとした瞬間、後ろからぐいっと腕を掴まれて、その場に縫い止められる。

 震える体。びりびりと緊張して鈍った感覚。

 なのに、そこだけがひどく熱を持っていて、掴まれているのは腕なのに、心臓を鷲掴みにされたような衝撃に、びくんっと大きく肩が飛び跳ねる。

 振り返らなくても、工場長が私の腕を掴んでいることが分かる。

 でも、怖くて振り返れなくて。俯いたまま、ぎゅっと唇をかみしめる。

 背後で、何か言おうとしてためらっているような気配がして、すこしの間を挟んで、やけに不機嫌な声音で尋ねられた。


「どうして帰るの――?」




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