失恋に覚悟は必要ですか? 1
ジュボーっと白く吹き上げる蒸気、ガタゴトと振動しながら回転する乾燥機の熱気にじわりと額に浮かんできた汗を、半袖の袖の部分でぬぐった。
クリーニング工場二度目の夏。
窓をすべて開け放ち、空調をきかせ扇風機も回しているのに、工場内は熱気がこもって蒸し暑い。
まさにサウナ状態。
普段、あまり汗をかかない私でもじわじわと汗がにじんでくるくらいで、普通の人は汗だくになって働いている。
ただでさえそんなサウナのように熱気と蒸気がこもった工場内なのに、その外でさえも例年を上回る暑さで真夏日が続いている。
アスファルトに照りつける日差しは肌を焼くように熱く、ほんの少し日差しに当たるだけでもその日差しの強さに眩暈がしてくる。
そんな夏の暑さに、熱中症で倒れる人が続出。
工場内の夏の暑さを毎年経験しているベテラン勢が熱でダウンしてしまい、今、三階フロアには私と工場長の二人きり……
もともと人手不足の中、各フロアで倒れる人が出てしまい、私と工場長以外で三階フロアで無事な人は他のフロアの手伝いにいっていて、フロア内に工場長と二人きりの日々が続いていた。
私は夏の工場を経験するのは二回目だし、まだ慣れはしないけど、もともと寒がりで寒いのはすっごく苦手だけど、その代りというか暑さには強い方で、とりあえず毎日元気に出勤している。
普段は六人体制で働いているけど、いまは閑散期であまり品物の数が多くないからなんとか二人で回しているんだけど……
私はちらっと前のアイロン台で作業している工場長の後姿に視線を向ける。
くるくると癖の強い髪を後頭部でまとめた工場長の後姿が見える。アッシュカラーの髪は窓から差し込む日差しを受けて透けるようにキラキラ輝き、艶めいて眩しい。
見とれちゃダメだって分かっているのに、この広い空間に二人きりという状況に、つい意識が工場長に向いてしまう。
もちろん手は動かしているけど、視線は吸い寄せられるように工場長にいってしまう。
真剣な眼差しでYシャツにアイロンをかけて仕上げていく工場長の横顔。
袖からのぞく均整のとれた腕が、綺麗に品物を畳んでいく様子。
下からの品物が上がってきて、それをとりに移動していく工場長の動きに見とれて、つい目で追ってしまう。
工場内は蒸し暑くて、工場長は簡素なグレーのVネックのTシャツにジーンズを合わせているだけなのに、それだけで絵になるというかカッコイイんだからちょっと悔しくなる。
私はため息をついて、工場長に吸い寄せられていた視線を手元に戻して、作業を続けたんだけど、気付いたらまた工場長を見ていて、不意に振り返った工場長と視線がしっかり交わってしまった。
どきっと大きく心臓が跳ねて、どきどきと鼓動が全身をかけぬけていく。
こういう時、工場長はいつも、「ん? 宇佐美さん、なに?」とか「俺の顔に何かついてる?」とか言って天使も裸足で逃げ出していきそうな無駄に麗しい微笑みを浮かべて近づいてきて、そのついでのように私のことをからかったり、大量の仕事を押しつけていくんだけど……
星空を切りとったような澄んだ瞳に一瞬、不快そうな色がにじみ、視線がきつくなる。
『よそ見してないで働こうね』
そう言外に告げて、すっと視線をそらされてしまう。もとい、さっさと前を向いて工場長は仕事に戻ってしまう。
閑散期といっても二人で回すにはいつもの倍以上の仕事をしなければならないわけで、おしゃべりしている暇があるなら手を動かせってことなんだろうけど。
いつもなら他愛無い会話をしたり、くだらないことで工場長がからかってくるのに、工場長は始終無言で黙々と作業してて、私が話しかけようとしてもその気配を感じてすっと離れてしまったり、話しかけるタイミングをつかませてくれない。
そんな日が続いて、ちょっと息がつまっていたある日。
十一時便の品物をすべて仕上げてから出荷チェックをしていた私は、品物が一つ足りないことに気づく。
普段出荷チェックをする人が熱中症で休んでいて、ここ最近は私が代理でチェックをしている。
十一時便の品物の前でチェックをしていた私が立ち往生していると、一人黙々と次の便の仕上げをしていた工場長が近づいてきて声をかけられた。
「宇佐美さん、十一時便揃った?」
「それが、一つ足りなくて……」
私は戸惑いに声がだんだん小さくなってしまう。
工場長は私の言葉を聞くなり、すぐに伝票で足りない品物の番号を確認して探し周り始めた。
私もそれにならって品物を探す。
店舗から工場に入荷した品物は基本的には下階で入荷チェックをしてから洗って仕上げに回ってきているわけだから品物が足りないはずはないんだけど、出荷チェックの時に品物が足りないことが時々ある。
たいていはしみ抜きやボックス乾燥や修理などで通常ルートから外れてしまったものが戻ってきていないだけなんだけど。
しみ抜きの場所を探しても、ボックス乾燥機の中にも、修理品の棚にもなくて困り果ててしまう。
ただでさえ三階フロアには私と工場長の二人だけしかいなくて、品物の乾燥も仕上げも出荷チェックもしなければいけなくて忙しいのに、仕上げの手を止めて二人して足りない品物を探し回っていては作業が完全にストップしてしまう。
私にはすでに確認したしみ抜きやボックス乾燥以外の場所でどこを探したらいいのかも見当がつかなくて、品物を探すのを工場長に任せて、その間に、私は次の便の仕上げをすることにする。
二人で探すよりは効率がいいかなと思ってアイロンがけをしていたら、どこかに探しに行っていた工場長が戻ってきて、すでにチェックしてハンガーパイプに並んだ十一時便の品物の中に混ざっていないかもう一度確認していく。すると。
「これじゃないか?」
そう言って工場長がハンガーパイプにかかった品物を一つ取り出す。
私は慌てて工場長の側に行き、伝票と品物についているタグの番号とを確認する。
「あっ、これです……」
伝票と品物のタグを二度見してから声を絞り出す。
品物がなかったらどうしようという緊張感から喉がからからに乾いて声が張りついたように掠れてしまう。
工場長が品物を見つけたのは、チェックした十一時便の隣のハンガーパイプだった。そこには出荷時間より先に仕上がった品物や一時的に品物を保管しておく場所で、そういえばさっき中須賀さんが四階で仕上げたものを持ってきてそこにかけていたなと思い出す。
「はい」
工場長から品物を手渡されて、とりあえずそれをすでにチェックした十一時便の品物がかかっているパイプの一番後ろにかけて、伝票にチェックを入れる。
それから慌ただしく揃った十一時便の品物を下に降ろす作業をし、何回かゴンドラとハンガーパイプとを往復してすべての品物を下ろし終わって、私はまだ工場長に謝罪もお礼も言っていないことに気づく。
品物を見落としたのは明らかに私の失態だ。
その上、探すのを工場長に任せてしまって、本当に申し訳なくて穴があったらはいってしまいたい心地だった。
十一時便をすべて降ろし終わって一息つく前に、謝るために工場長の背中に呼びかける。
「工場長、すっ――……」
だけど。
タイミング悪く私が謝ろうとしたのとほぼ同時に、四階から降りてきた中須賀さんが工場長に声をかけた。
「工場長、ちょっと」
私の声に振り返った工場長は、だけど何も言わずに中須賀さんに呼ばれて行ってしまって、私は一人、三階フロアに取り残されて呆然としてしまう。
静まり返ったフロア内に、乾燥機の機械的な音だけがガタゴトとやけに大きく響く。
中須賀さんに呼ばれたんだから、工場長がいってしまったのは仕方がないと思う。それが私の声に気づいていなかったのなら仕方ないと思う。でも。
違う。
工場長は私の声に気づいて、振り返ってくれた。
それなのになにも言わずに行ってしまった。
私がなにか言おうとしていたのに気づいていたのなら、普段の工場長なら「ごめん、後で聞く」とか何か一言くらい言ってくれるのに、それすらなかった。
なんだか、あからさまに避けられたみたいで、胸がざわざわする。
二人きりで仕事するようになってから工場長の態度はおかしくて、話しかけようとしてもどこか行ってしまったり、話しかけにくいオーラがでていて。それでも仕事に関することなら、しつこく声をかければちゃんと返事してくれたのに。
ちゃんと視線があったのに、なにも言わずにそらされて、胸がきゅっと締め付けられた。




