これって恋のはじまりかな? 5
翌日出勤すると、すでにいくつかの衣装の乾燥が終わり、乾燥機前のパイプハンガーにアイロン待ちの衣装がかかっていた。その中に浴衣を見つける。
以前、三階でハンガーに掛かった衣装を包装する時に裾の長いドレスがあり、そのまま包装機に吊るすと裾がついてしまうくらいだった。そういう裾の長い衣装は床につけないように、床に使っていないリスボックスを置いたり、包装のあまりのビニールを敷くように言われていた。
見れば、浴衣の下にはリスボックスがあり、裾が床につかないようにリスボックスに収められていた。
中須賀さんはまだ出勤していなくて、高安さんに浴衣の裾が収まったリスボックスの隣のリスボックスに入ったシーツや布団は乾燥機が終わっているから包装するように頼まれて、仕事を開始した。
次から次へとシーツを包装していき、毛布と布団も包装していく。
包装し終わったシーツなどを置く棚があるんだけど、置こうとして棚に近づいてみると、棚はいっぱいで置く場所がなかった。
どうしよう――、と思った時に中須賀さんが出勤してきたので尋ねると、開いているリスボックスを棚の前に移動させてそこに入れるように言われた。
辺りを確認するといまは空いているリスボックスは見当たらなくて、仕方なく、乾燥が終わって包装待ちのシーツの入ったリスボックスを移動させて、その中からこれから包装するシーツを取り出して作業台の上に一度置き、包装し終わったシーツをしまった。
作業台に置いたシーツも包装が終わると元入っていたリスボックスにしまっていく。
シーツが終わり次はシーツが入っていたリスボックスの隣の布団を取りに行こうと振り返った時、浴衣の裾が入ったリスボックスを高安さんが持っていくのが見えた。
もちろん、浴衣の裾が床につかないように、リスボックスの奥に置かれていた箱の上にくるくるっとまとめて乗せた。箱はパイプハンガーの真下ではなく斜め下に位置し、浴衣はやや斜めに吊るされる形だった。
なぜか最近、リスボックスが足りない……と高安さんも中須賀さんも言っていて、ちょうど乾燥機が終わった衣装をだすのにリスボックスがなかったから高安さんはそうしたのだろう。
その行動を横目にとらえつつ、私は自分の作業を進める。
リスボックス三つ分の乾燥が終わった衣装を包装し終えて、とりあえずやることがなくなったので中須賀さんの指示を仰ごうと、中須賀さんに話しかける。
中須賀さんは伝票を片手に衣装をチェックしていた。
「ちょっと、こっちに空いてるリスボックスを一つ持ってきて」
そう言われて、私はさっきまで布団や毛布が入っていたリスボックスを引っ張ってくる。
そこに中須賀さんは伝票をチェックし、包装し終わった衣装を店舗ごとに仕分けていく。
乾燥機の終わるの待ちで今はやることがないと言われ、私は少しでも仕事を覚えようと中須賀さんの伝票チェックを斜め後ろで観察する。
中須賀さんは伝票をめくり次の伝票を確認すると、伝票を机の上に置いて、乾燥機がある方へと進んでいく。
通路が狭いから、乾燥機の前のパイプハンガーに掛かった衣装に中須賀さんの肩が触れて、衣装が揺れた。斜めにかけられた浴衣が揺れ、箱の上に丸めて置かれていた裾が箱の上から滑り落ちた。
足元に浴衣の裾が現れ、はたっと足を止めた中須賀さんは、慌てて浴衣の裾を持ち上げると裾を払って側にあったリスボックスを引き寄せてその中に裾を入れた。振り返るなり。
「ちょっとっ! 私は空いてるリスボックスを持ってきてって言ったでしょっ!? 浴衣の裾がついてるじゃないっ!? ここにはリスボックス置いておかなきゃダメでしょうっ!!??」
あまりの剣幕で一息に怒鳴られて、私はひゅっと息を飲み込む。
「……っ」
なんとか言葉を発しようとしたけど、中須賀さんはじろっと鋭い眼差しで睨むと吐き捨てるように言った。
「まったく……、使えないんだから……」
あんまりな言葉に、瞳の奥が一気に熱くなる。
中須賀さんの高圧的な態度は仕方ないと分かっていたつもりだけど、昨日といい今日といい、さすがに自分がやったのか確認もせずに怒られた理不尽さに腹が立つよりも涙が溢れてくる。
じわっと視界が揺れそうになって、私は込み上げてくるものを堪えるためにぎゅっと唇を噛みしめて、四階を飛び出した――
どんっと、扉を出たところのエレベーターホールで何かにぶつかって顔を上げた瞬間。
瞳から涙がぽろっとこぼれ落ちた。
「あっ……」
ぶつかったのは紅林さんで、入ってこようとした紅林さんの胸にしたたかに顔をぶつけてしまった。
急に飛び出してきた私に驚いてこっちを見下ろした紅林さんの瞳が一瞬、驚いたように見開かれ、すぐに前を向いてしまった。
次の瞬間、ぽんぽんっと頭をなでられる感触にささくれたった心が不思議なくらい落ち着いていく気がした――
ぽんぽん、ぽんぽんと、優しく頭をなでられて、私はその感触に全神経を向けるように瞳を閉じた。
言葉はなくても、温かなぬくもりに安心してしまうのはなんでだろう……
しばらくの間、そうして頭をなでられていたら、すっかり涙は引っ込んでしまった。喋るのはまだ嗚咽交じりになりそうで、涙で湿った顔で見上げたら、紅林さんはふっと微笑を浮かべてくれた。
その笑顔が、天使のように鮮やかで、夜空を切り取ったような黒い瞳に吸い込まれそうで、きゅっと心が震える。
「ちょっと三階手伝って」
微笑を湛えた紅林さんは、私の頭を抱えるように後頭部に腕を回した状態でくるんっと方向転換させられて、そのまま三階に連れて行かれた。
結局その日はそのままずっと三階で作業を続け、中須賀さんとは一度も顔を合わせなかった。
次の日、五階でタイムカードを押した私は、なんともいいがたい苦々しい気分で四階に足を踏み入れた。
自分は別に悪いことをしたわけでもないしなにも後ろめたいことはないけど、やっぱりちょっと中須賀さんと顔を合わせるのが気まずい。
きっと中須賀さんは、私がなんで飛び出したかなんて分かっていないだろう。もしかして、飛び出したことすら気づいていないかもしれない。
普段、中須賀さんは私より後から出勤してくるんだけど、フロアに中須賀さんがいないかどうか確認するのに、ビクビクしてしまう。
そっと入り口から顔をのぞかせると、まだ高安さんと塚本さんしかいなくて、ほっと胸をなでおろす。
ここでのアルバイトももうすぐ一ヵ月が経つため、すっかり慣れてきて、高安さんに聞かなくても朝一は乾燥機の前の乾燥が終わってリスボックスに入っているシーツなどを包装し始める。
黙々と作業をしていると、「おはようございます」と言ってフロアに入ってきた中須賀さんの姿についびくついて肩が震えてしまう。
「おはようございます……」
振り返り挨拶を返すと、中須賀さんはじっと私を見据えた。その瞳が疑惑というかなんか言いたそうというか寄り目になって見つめられて、思わずたじろいでしまう。
うぅ……、なんだろう、朝からなにかダメだしとか!?
なにを言われるのかと身構えていた私に言われた言葉は、とても思いがけないことだった。
「今日からずっと三階を手伝って、朝来たらすぐに三階に行っていいから」
言い終わると同時にぷいっと顔を背けて、いそいそと作業に取り掛かる中須賀さんの後姿を思わず呆然と見つめてしまう。
えっ、いま、なんて……????
理解するまでに数秒かかってしまう。
三階で作業? 今日からずっと? 朝もすぐに三階に行っていいの……?
それってつまり――、本当に厄介払いされたのか、私……
思わず項垂れてしまう。
そんなに役立たずだと思われているのかな。これでも結構頑張っていたと思うんだけどな……
そりゃあ、最初は慣れないことばかりで失敗とかしたけど、いまはもうだいぶ失敗はしなくなったと思ってたんだけど……
私はなんとも言えない気持ちでじっと中須賀さんの方を見て動けないでいたら、視線を感じたのか中須賀さんが振り返った。
「なに? ほらさっさと三階に行ってっ!」
いつも通りの高圧的な言葉に、私は「はい……」といつもとは違う覇気のない返事を返して、一歩を踏み出した。
厄介払いされるのはショックだけど、冷静に考えたら、これって私にとっては嬉しいことかも……?
だって私語厳禁な空気の四階とは違って三階はみんな優しい人ばかりだし。
中須賀さんの下だと指示を待ってから動かなきゃならないけど、三階だと作業の一通りの流れを説明されているから、ある程度のことは一人でもできるし、一つの作業が終わっても次の作業を自分で見つけて動くことができる。
それはすごく働きやすい環境だ。
なにより、いちいち高圧的に怒鳴られたり、理不尽に怒られたりすることもないんだ。
それから――
三階には紅林さんがいる。
天井から伸びるコードにつながったアイロンを片手に真剣な眼差しで衣装にアイロンをかける紅林さんにちらっと視線を向ける。
彫像のように整った顔立ち。癖の強いアッシュヘアーは艶やかで、星空を切り取ったような吸い込まれそうな黒い瞳、うっすらと微笑みを浮かべた唇に漂う色気。
はじめてみた時から惹きつけられるような美貌に見とれていたけど。
あちこちにはねる癖の強い髪を後頭部でちょこんとまとめたうなじが色っぽくて、衣装に向けられる真剣な表情にどきどきする。
昨日はあまりのことにてんぱってたけど、今考えると泣き顔を見られて恥ずかしい。
だけど、頭に触れた手が温かくて包み込むように大きくて、すごく安心して。
紅林さんはあの時の状況を全く分かったいないはずなのに、なにも聞かずに私をあの場所から連れ出してくれた。それだけでどうしようもなく心が締めつけられる。
気がつくと、私の視線はいつも紅林さんの姿を追っていた。
瞬間、こっちを振り返った紅林さんと視線が合ってしまった。
「ん? 宇佐美さん、なに? わからないことでもある?」
ふわりと香るような微笑みを浮かべた紅林さんに尋ねられて、私はぶんぶんと首を振った。
あまりに勢いよく振りすぎて、ちょっと眩暈がする。
額を抑えると、そんな私を見てくすっと笑い声が聞こえて、恥ずかしすぎて私は俯いて止まっていた手を動かす。
その時の私の顔は自分でも分かるくらい真っ赤になっていたと思う。
ただ紅林さんと視線が合っただけなのに、なんでこんなに動揺しているのかわからなくて、その答えを求めるようにちらっと視線をあげる。
すると、まだこっちを見ていた紅林さんと視線が合い、にっこりと魅惑的な微笑みを浮かべられたものだからくらりと眩暈がした。
斜めにこっちをみつめたその美しい瞳に甘い笑みがにじみ出てて、心臓がばくばくとうるさく騒ぎ出す。
わっ……
なんなんだろうこの気持ち……
私は慌てて横を向いて紅林さんから視線をそらす。
それでも心臓はうるさく鳴り続け、胸の奥がきゅーっと切なくなる。
もしかして、これって恋のはじまりなのかな――?




