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love it  作者: 滝沢美月
6便
46/78

恋を忘れる方法はありますか? 8



 後継者としてそれにふさわしい婚約者がいるって聞かされた時、どこか現実離れした話だと思った。

 工場長が大財閥紅林コンツェルの後継者だっていっても、実際にはラビットクリーニングで働いていて、大財閥とか後継者とか、ぜんぜんそんなのと結びつかない。

 婚約者がいても、それは後継者として親が決めたことで工場長が望んでいることじゃないと思っていた。

 だから、工場長が薫子さんに対して宝物のように大切に接しているのを見て、がんって現実を突き付けられた気がした。

 もうすぐ婚約するって聞かされてて、でもそれはずっと先の事だと思ってたのが、結納を済ませたと聞かされて、目の前が真っ暗になった。

 この気持ちを諦める方法も、諦める決心もつかないままで、私は決定的な失恋をしてしまった――

 そう思ったら、もういてもたってもいられない衝動にかられる。

 工場長が運転する車の助手席に座っているのが居たたまれなくて。

 この場所に相応しいのは薫子さんで、工場長の隣を独占できるのは薫子さんなんだって。

 つい昨日までは架空の存在のような婚約者の薫子さんに会ってしまって、どうしようもなく苦しくなる。


「……もう、ここでいいですっ」


 赤信号で止まった瞬間、そう言うと同時に私はシートベルトを素早く外してドアを開けて車からすべり降りた。


「えっ、宇佐美さん!?」


 地面に足をついた時、痛みが走って顔をしかめるけど、今はそんなこと気にしている余裕もない。背後で工場長が私の名前を呼ぶ声がするけど、それを振り切るように駆けだした。



  ※



 どのくらい走ったのか。

 内出血で腫れあがった右足を引きずるようにして無我夢中で走って、気がついたら家のある通りまで来ていた。

 ズキズキと脳を直接かなづちで叩かれているような鋭い痛みに、ぎゅっと顔をしかめる。

 走ったせいか、さっきよりも足の痛みがひどくなってきたみたい。私ってなんてばかなんだろう……

 自傷気味に口元を歪めて、その瞬間、ぽろぽろと堰を切ったように涙が溢れてくる。


「あれ? ……あれ?」


 もう乾いちゃったんじゃないかってくらい泣いたと思ったのに、後から後から涙がこぼれてきて戸惑う。その時。

 ブロロロロ……

 とエンジン音が街灯に照らされた道路に響く。


「うさ、ちゃん……?」


 ヘルメットでくぐもった声が聞こえて顔を上げれば、家の斜め向かいにある公園の前でバイクを止めた暁ちゃんがいた。


「どうした……?」


 跨っていたバイクから降りヘルメットを外して暁ちゃんが私の方に駆けてくる。

 いま、私の顔はきっと涙でぐしゃぐしゃで、こんな情けない顔見られたくなくて慌てて俯く。


「うさちゃん……?」


 何も答えないことに訝しがって、暁ちゃんが心配そうにもう一度私の名前を呼んだ。

 このまま黙っているのも申し訳なくて、私はコートの袖で涙をぬぐって顔を上げる。

 瞬間、暁ちゃんははっとしたように顔をしかめる。


「泣いてたのか? 何かあった……?」


 思いやりに満ちた声で尋ねられて、暁ちゃんの優しさが伝わってきて、堪えようとしていた苦しい気持ちが胸に押し寄せる。


「振られちゃった……」


 あまり深刻に受け取ってほしくなくて、へらっと笑ってみせる。だけど。


「お店で偶然工場長に会って、婚約者と結納を交わしたって言われたの……、初めから気持ちは伝えないつもりだったけど、これって決定的な失恋だよね……」


 そう言った私の声はひっくひっくと嗚咽交じりに掠れ、笑おうとしたのに笑えなかった。

 悲しくて、苦しくて、顔がくしゃくしゃに歪んでしまう。

 自分の言った言葉に現実を突きつけられて、胸がどうしようもなく締めつけられる。

 ぽろぽろ涙が溢れてきて、もう一生分泣いたんじゃないかってくらい泣いたはずなのに、後から後から涙が溢れてきて止まらない。


「うっ……、っ……」


 子供みたいに声をあげて泣いていたら、ぽんっと頭に温かい感触が触れる。

 暁ちゃんが困ったように眉尻を下げて、「しょうがないやつ」ってこぼす。

 ぽんぽんって何度も頭を撫でてくれて、それからちょっと強引に頭を暁ちゃんの胸に押しつけられた。


「泣きたいなら気が済むまで泣けよ、愚痴りたいならいくらでも聞くし、ヤケ酒にも付き合う。だから一人で抱え込むな――」


 斜めにこっちを見下ろした暁ちゃんの瞳があまりに真剣で、胸をつく。

 頬に触れる逞しい胸の感触にドギマギして、でもそこから聞こえてくる鼓動が駆けだした様に早くなったのに気づいて、ふっと笑ってしまう。

 こんな慰め方、暁ちゃんの柄じゃないって思ったけど、暁ちゃんなりに気づかってくれてるんだって分かって、胸が温かくなる。

 私はずずっと鼻をすすって、暁ちゃんを振り仰ぎながら笑ってみせる。

 今度はぎこちなさはなく、ちゃんと笑えた気がする。


「今日の合コンで思ったけどね、暁ちゃんと一緒に飲むお酒が一番楽しいよ」


 そう言ったら、暁ちゃんは押さえていた私の頭をぐいっとまた胸に押し付けるから、暁ちゃんの顔が見えなくなってしまう。

 頭上から「ばーか」って暁ちゃんの照れたような小さな声が聞こえた。

 暁ちゃんのおかげですっかり私の涙は引っ込んで、公園の柵に暁ちゃんと二人並んで腰かける。


「そういえば、暁ちゃんはどうしてここに? 家、この近くじゃないよね? この辺に用事?」


 そう尋ねたら、どこか歯切れの悪い暁ちゃん。


「あー、ちょっとぶらぶらしてて……?」


 よく分からないことを言いながら、暁ちゃんは私から視線をそらして横を向いて、がしがしと前髪をかきむしった。

 その後も暁ちゃんの他愛無い会話に笑わされて、さっきまで泣いていたことなんて忘れてしまった。

 もちろん暁ちゃんは、失恋したことには決して触れなかった。




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