恋を忘れる方法はありますか? 5
明るい照明に照らされた木目調の床に落としていた視線をあげれば、ダークグレーのスーツを着た人が立っていて、ちょっと目を見開く。
えっと……、工場長……?
名前を呼ばれた声だけでそこにいるのが工場長だって確信したけど、目の前にいるのは見たこともないスーツ姿の男の人で、驚きを通り越して呆然としてしまう。
細身のダークグレーのスーツがまとうのはほどよく筋肉のついた均整のとれと長身で、華やかなオーラとスマートな印象を与えている。いつもは無造作に後ろでまとめている髪は降ろされていて、ワックスで丁寧にセットされている。二重のきりっとした瞳と整った眉と鼻筋、涼しげな口元の端正な顔立ちを引き立てるように癖のついたアッシュベージュの髪がサイドで揺れている。
ジーパンにラフな格好をしている工場長しか見たことのない私には、工場長なのに工場長じゃないみたいに見えて何度も目を瞬いてしまう。
あまりに工場長のことばかり考えていたから、幻が現れた……?
だって、だって、スーツとか絶対着そうにないし……
でも、スーツ姿もすごくきまっててカッコイイなぁ……
完全にてんぱって頭の中にいろんな思考が飛び交って眩暈がする。
やっぱ、幻……
そう思ったら、ぽんっと肩をたたかれて大げさなくらいビクっと肩を震わせる。
「宇佐美さん?」
腰を折り曲げて顔をのぞきこまれて、息も触れそうな至近距離に工場長の顔が迫ってきて、やっとこれが現実なんだって実感する。
「工場長っ!?」
あたふたと工場長の名を呼べば、工場長は腰をかがめたまま呆れ顔でため息をついた。
はい、そんな顔もとても絵になりますね……
「やっと気づいたね、ずっと呼んでたのに。どうしたの? こんなとこで」
「えっと……」
工場長に尋ねられて、私ははっとする。
慌てて俯いて、目元を手の甲で拭う。それからぱっと顔を上げて、なんでもないというようにへらっと笑う。
「いつのまにか足の甲をぶつけたみたいで痛くなっちゃって……」
「ふーん、それで泣いてたの?」
言いながら、工場長は私の方に腕を伸ばしてきて、親指の腹で優しく目元を撫でた。
「~~~~っ!?」
私は声にならない悲鳴を上げる。
泣いてたのばれてるしっ! でも理由は勘違いしてくれたことに安堵するべきなのかな……
そんな葛藤をしている私をよそに、工場長がはぁーっとまたため息をつく。
「で、なんでこんなとこにいるの?」
「えっと、だから足が痛くて……」
「そうじゃなくて、この店にどうしているの? 友達と来てるの?」
「えっと……」
そこで言葉をきり、私は一瞬逡巡して目を泳がす。
できれば言いたくないけど、でも嘘ついてもすぐばれそうだし……
「朋さんと……」
まあ、嘘はついてないし……
ひやひやしながらちらっと工場長を見上げて言った私を見て、工場長は瞳を一瞬鋭くさせて、意味深に相槌をうつ。
「ふ~ん、岩瀬さんと、ね……」
そう言って工場長は私を立たせながら私の格好を上から下までじっくりと見つめ、横を向いてはぁーっと盛大なため息をつかれてしまった。
うぅ……、なんかすべてお見通しってカンジで怖い……
私は鷹に睨まれた兎な気分で、びくびくしてしまう。
ってか、さっきまではぜんぜん気づいていなかったから痛みも感じなかったけど、足をぶつけたことに気づいた今は、立っているだけでも足の甲がジンジンして痛い。
足元に視線をおとしていた私は、工場長の視線を感じて顔をあげる。すると、星空を切り取ったような漆黒の瞳があざやかにきらめいて、じぃーっと私を見ていた。その瞳がふっと甘やかに細められて、口元に薄い笑みが浮かぶ。うわっ、キラキラフラッシュ……
眩しい微笑みに身構えたら。
「なんで白タイツ?」
ほら、やっぱりぃ~~!!
私は驚きのあまり口をぽかんと開けてしまう。
やっぱり工場長の反応は予想通りだった。あまりにも予想通りすぎて怖いかも。ぶるっと体を震わせる。
それに、やっぱり足の心配はしてくれないんだ……
別に心配されるほどのことじゃないけど、そこまで予想通りでちょっとへこんでしまう。
「……別に、いいじゃないですか白タイツ……、工場長は私のファッションに厳しすぎです……」
意気消沈で声まで沈んでしまう。
ぼそっともらした私を工場長は無表情で見つめてくるから、私はぱっと視線をそらす。
えっ、なに……?
ってか、もういいかな?
工場長のそばにいるのが居たたまれなくて、挨拶もせずにお手洗いに逃げ込もうと一歩踏み出したら、なぜか腕を掴まれた。
「…………?」
意味わかんなくて首を傾げた私を見ず、工場長は胸元から携帯を取り出してだれかに電話をかけている。
工場長はコール音を聞いているのかしばらく微動だにしない。それから繋がったのか、口を開く。そこから聞こえた名前に驚いてしまう。
「ああ、岩瀬さん?」
ええっ、朋さんに電話? なんで!?
「実は今、通路で宇佐美さんとすれ違って足を痛めているようだから家まで送っていこうと思うんだけど」
会話に耳をそばだてていた私は、聞こえてきた言葉に驚いて工場長を振り仰ぐ。
「……ああ、ああ、わかってる」
朋さんがなんて言っているのかまでは聞こえないけど、私の存在まるっと無視して工場長と朋さんの間で会話が終了したみたいで、ピッと通話を切り携帯をポケットにしまう工場長。
ええっと……
私は状況を理解できないで工場長をみていると。
「その足で自転車は焦げないだろ? 家まで送っていく」
「えっ、大丈夫ですよ? 今日はお酒飲むから電車で来たので一人で帰れます」
「そんな腫れた足で? 立っているのも辛いんだろ?」
「…………っ」
私の怪我なんて気にしていないと思っていたのに、立っているのも辛いのまで見抜かれて、肩がびくっと震える。
どうしてなの……、優しい言葉なんて一つもかけてくれないのに、こうやって心配してくれて、そんな優しくされたら……
胸に押し寄せる想いと、瞳の奥に熱いものが込み上げてくる。
私はそれを必死でこらえようとして、でも抗えなくて。瞳の端がじわっとにじんでいく。
工場長は呆れたようにため息をつくと、また優しく涙をぬぐってくれた。
「泣くほど痛いのに我慢するなんてばかだね、宇佐美さんは」
言葉はぜんぜん優しくないのに、耳に響く言葉が心がとろけてしまいそうに優しから、涙がぽろぽろと溢れてくる。
「ほら、帰ろう」
そう言ってそっと手を引いて歩き出した工場長に連れられて歩き出す。
涙が溢れてくるのは、工場長が優しいから。
胸が苦しいのは、自分が思っているよりも工場長のことを好きになっているから。
心が切ないのは――、いまにも口をついてこぼれてしまいそうなたった一言を、言葉にすることができないから――
だって、私は、工場長のこと諦めなきゃいけないんだよ――?




