初恋は実らない? 10
「夕礼報告、昨日は――……」
昨日は……
あの後、家に帰ってからの記憶があやふやだ。
普段温厚な社長からは想像もつかない高圧的な瞳で見つめられて、まさに狐に睨まれた兎状態で声も出なくて。
昨日一日でいろんなことがありすぎて、いっぱい考えたのにぜんぜん頭の中が整理できていない。
朝礼中だというのに、私の頭の中は完全に昨日のことにトリップしてて、周りの声はぜんぜん耳に入ってこない。
一つだけはっきりしていることは……
工場長には婚約者がいること……
この気持ちは、諦めなきゃいけないの……?
不安な気持ちではぁーっと小さなため息が漏れる。
「今日も一日よろしくお願いします」
そう言って朝礼を締めくくった社長の声で、現実に引き戻される。
ふとあげた視線が、笑顔でこちらを見つめる社長の視線とおもいっきりぶつかって、びくっと肩を震わせる。
今日の社長はいつも通り女性の格好をしていて、麗しい美貌なんだけど。
笑顔なのに、なんだか目力がありすぎて怖いですよ、社長ぉ……
なんだか眼差しが「わかっているよね?」って釘をさすように迫力があって、びくついてしまう。
『本当に柊吾のことを思うなら、諦めてくれるよね――?』
そう言った昨日の社長の緊迫した表情を思い出して、はぅ~っと情けないため息がこぼれてしまった。
朝礼が終わりそれぞれ休憩に向かう中、私は居たたまれない気持ちでその場からすぐに立ち去ろうとして、不意に腕を掴まれた。
驚きのあまりびくっと肩を震わせたら、心配そうな声が肩越しに聞こえる。
「うさちゃん?」
振り向けば、訝しげに眉根を寄せた暁ちゃんが私の腕を掴んでいた。
そこにいたのが暁ちゃんだったことに安心して、ほっとする。
「暁ちゃん……」
「うさちゃん、大丈夫……? 元気ないみたいだけどなんかあった?」
「あー……」
心配そうに尋ねられて、私は視線を彷徨わせる。
元気がないというか、混乱してるというか……
いろいろあったわけで……
困って言葉に詰まっていたら、暁ちゃんがなにかを察したように「こっち」と言って私を非常階段の方へと誘った。
工場内は暖房きいてないし、窓が開いてて寒いんだけど、扉一枚外に出ると、やっぱり外の寒さは尋常じゃなかった。
肌に刺さるような風の冷たさにぶるっと体を震わせ、肩にかけていたショールの前をかき合わせる。
「ごめん、寒いよね。でも」
寒がりの私を心配して先に謝った暁ちゃんは、こちらの様子を伺うように尋ねてきた。
「もしかして社長となんかあった?」
「えっ!?」
いきなり核心に触れられて、思わず大きな声を出してしまう。すると。
「やっぱり、なんかあったんだ?」
確認するようにもう一度聞かれて、私は渋々頷くしかなかった。
「朝礼の時のうさちゃんぼーっとしてるし、社長と視線があったときの様子が変だった」
ああ、だから、心配して声をかけてくれたんだ。暁ちゃんは優しいなぁ。
しかも、社長がらみだと工場内で話しずらいだろうと気を利かせて、非常階段に連れ出してくれたのだろう。寒いけど、ここなら他の人に話を聞かれる心配はないものね。
ちょっとの間逡巡して、それから、思い切って暁ちゃんに昨日の出来事を聞いてもらうことにした。
社長が本当は男性だということは秘密にする約束だからそこは伏せて、社長が工場長のお姉さんで昨日一緒に出かけた時に工場長には婚約者がいるから諦めてほしいと言われたことを話した。
「――って社長に言われてもう頭の中ぐちゃぐちゃで、やっぱり、この気持ちは諦めなきゃいけないのかな……、諦められるのかな……?」
話していたらだんだん切なくなってきて、鼻の奥がつんっとする。
涙が溢れてきそうになって鼻をすすって、暁ちゃんがなにも言ってくれないのを不思議に思って顔を上げたら。
振り仰ぐとすぐ上に暁ちゃんの真剣な眼差しがあって、一瞬、私を見つめて切なげに揺れて。
「じゃあ、俺と付き合う?」
あまりにも真剣な眼差しでまっすぐに見つめられて、胸が大きく跳ねる。
「――っ」
暁ちゃんの名を呼ぼうと口を開いた瞬間。
「難波君」
心に染み入る甘いバリトンボイスに、びくっと肩を震わせる。
ちょうど非常階段の扉に背中を向けていた私は、振り返らなくてもその声が工場長の声だって分かってしまって、体中に甘い痺れが広がって、それを誤魔化すように固く瞳を閉じ、自分の体を抱きしめるように腕を回す。
「梅田さんが呼んでたよ」
「分かりました、今いきます」
目の前で暁ちゃんが動く気配がして、通り過ぎざま、暁ちゃんは私の肩をぽんっと叩いて工場の中に戻っていってしまった。
扉が閉まる音を聞いて、私はゆっくりと閉じていた瞳を開けて振り返る。
そこにまだ工場長がいる気がして。
振り返ると、やっぱりそこに工場長がいて。
工場長はなんともいえない表情で私を見てて、なんだか気まずい雰囲気が漂う。
工場長と視線がぶつかって、その一瞬に、工場長が非常階段を開ける音に気づかなかったけどもしかして話聞かれてたのかなって、そんな考えが目まぐるしく頭をよぎる。
でも、「話聞こえていましたか?」なんて聞く勇気もなくて、あたりさわりのない会話ですぐに立ち去ろうと思ったのに。
「難波君と付き合うの――?」
まっすぐにこちらを見て尋ねた工場長の言葉に息を飲む。
一番聞かれたくなかったところなのに……
すぐに否定したかったけど。
「宇佐美さんと難波君ならお似合いだと思うよ。まあ、俺には関係ないか」
そう言った工場長がいつものからかうみたいな笑顔じゃなくて、あまりに綺麗な笑顔を私に向けるから、胸が焼けるように痛い。
綺麗すぎる笑顔が、私の事なんてどうでもいいって言っているようで。言っているも同然で、鋭いナイフのように胸に突き刺さる。
喉が熱くなって、視界の端がにじんでくるのをぐっと堪える。
何か言わなきゃと思って口を開いたのに。
「そ、ですね……」
強がって口にした言葉は、嗚咽に交じってかすれていた。
ぽろっと瞳から溢れた涙が頬を伝って落ちていく。
いまさら傷ついたりしないと思っていたのに。
工場長にぜんぜん恋愛対象として見られていないのは分かっていたし、もうすぐ結納を交わす婚約者もいるって知っている。でも。
工場長の口から関係ないって言われて、傷ついている自分が嫌になる。
そんな自分に気づかれたくなくて、絶対に工場長の前では泣くもんかって思ったのに。
涙が溢れてきて止まらなくて、私はその場から駆け出した。
わずかに開いたままの非常口の扉を押し開けて工場内に駆け込んだ私は、どんっと誰かの胸にしたたかに額をぶつけてしまった。
涙でぐしょぐしょの顔で見上げたら。
「だから初恋は実らないって言ったのに……」
呆れたような困ったような表情で、社長がつぶやいた。




