恋にハプニングはつきもの? 2
「……じゃあ帰るけど、めんどくさいからってそのまま寝ないでちゃんとお風呂であったまりなさいよっ!」
「くどいな、わかったよ……」
鼻先にびしっと指をつきつける勢いで言った社長に、渋々といった様子で頷いて顔を上げた工場長と――、視線があった。
瞬間、夜空を切り取ったような漆黒の工場長の瞳が大きく見開かれる。
「えっ……、宇佐美さんなんで……」
「なんで……」
工場長の呆気にとられてつぶやかれた声に、私の小さな小さなささやきがかき消される。
なんで工場長の家から社長が出てくるの……?
胸の奥がざわりと鳴って、泣きそうになる。
なんでと聞きたいのはこっちの方で。
でもそんなこと聞ける雰囲気じゃなくて、私は慌てて斜めにかけていたポシェットの中から工場長のお財布を取り出して差し出した。
「あの……、これがアイロン台の裏に落ちてて、誰のだろうって中見たら工場長ので、お財布ないと困るだろうなと思ったので、失礼だとは思ったんですが、免許証の住所を見て届けに着ましたっ」
動揺で震える声で一気に説明して、ふぅっと肩で息をする。
「ああ、どこかで落としたと思ったらアイロン台の裏か……。ごめん、わざわざありがとう」
「いえ……」
照れたような苦笑を浮かべて工場長がお財布を受け取り、そのままズボンの後ろポケットにしまうから、私は慌てて突っ込む。
「えっ、あのっ、なか確認しなくていいんですか!?」
もちろん盗んだりしてないけど、お財布の中身が減っていないか確認しなくていいのかと視線で訴えたら、ふわっと香るような甘い微笑みで見つめられてしまった。
「必要ないよ。宇佐美さんのこと信用しているから」
自信満々で当たり前だとでもいうようにきっぱりと言い切られてしまうと、なんだか恥ずかしい。
「恐れ入ります……」
恐縮して俯いて、ぼそぼそっと小さな声で言うのが精一杯だった。
そんな私と工場長のやりとりを横でずっと黙って見ていた社長が、ふっと鼻で笑った気がする……のは、気のせいだろうか……?
ちらっと視線をあげると、工場長を見ていると思っていた社長はなぜか私をじぃーっと見ていた。それも妖艶な微笑を浮かべて。
なっ、なんだろう……
工場のトップワンとツーを目の前にして、意味もなくびくびくしてしまう。
「ほんと財布落とすなんて間抜けね。じゃ、帰るから」
ふふっと微笑を浮かべながら辛辣な言葉を残して、社長はひらひらと手を振って帰っていく。
帰っていく……って!?
社長の後姿を追って、目玉がこぼれてしまうんじゃないかっていうくらい大きく目を見開いた。
だってだって。
工場長の横から前を通り過ぎて、そのまますぐ隣のテラスハウスの玄関を開けて入っていってしまったから、驚かずにはいられなかった。
ど、どういうこと……!?
工場長の家に社長がいただけでもビックリしたのに、まさか隣の家に住んでるとか予想もしていなくて驚きを通り越して唖然と、社長がたったいま入っていった隣の玄関を見つめてしまう。
社長は外回りが多いからあまり工場にいることはないけど、工場にいるときはよく工場長と喋ってるし――まあ、工場のことでいろいろと相談とかしてるのかもしれないけど――、お互いに下の名前で呼び合ってたし。
社長と工場長が仲良いんじゃないかって思ってはいたけど、この展開は予想外というか、なんというか。
自分の思考の斜め上を行く展開に、くらりと眩暈がしてくる。
ダ、ダメだ……
考えても分からない。
とにかく、退散しよう……
そう決めると、私は社長の家の玄関から工場長に視線を戻す。
工場長が私を見ていたのは予想外だったけど、帰宅の挨拶を口にする。
「では、お財布も無事に届けましたので、帰りますね。お疲れ様です」
ぺこっとお辞儀をして工場長を見ずに踵を返したら、ふいに腕を掴まれて後ろに引かれた。
ふわっと鼻先にお酒の香りがする。
「待って、宇佐美さん」
甘くかすれた声でささやくように名前を呼ばれて、耳がひりひりする。
「な……、んですか?」
「遅いし送っていくよ、いま車の鍵持ってくるから待ってて」
「えっ、いいですよっ!」
反射的に拒否したら、明らかに、しゅんと沈んだ表情を浮かべた工場長に驚いてしまう。
いつも澄ましてて、私のことをからかってばかりいるのに、こんな子供みたいに拗ねた表情なんて、反則だよっ。
なんだか良心が痛んで、慌てて言葉をつけたす。
「だって、工場長、お酒飲んだんじゃないですか……? ってか車、工場でしょう?」
「あっ、そっか……」
「それに、私、自転車なんで」
「自転車だとここまで結構かかっただろ……?」
「まあ……、でもこのくらいの距離は移動可能範囲ですよ。チャリ族なんで」
「ああ、そうなんだ……」
工場長にしてはめずらしく、しどろもどろとした様子にくすっと笑ってしまう。
「あっ、じゃあ、あのさ……」
工場長が何か言いかけた時、隣の家の玄関がガチャッと開く音がしてそっちに視線を向けると、社長が玄関扉から顔をのぞかせていた。
「柊吾、いつまで女の子を外に立たせておくつもり? 話すんなら家にあげて、お茶の一杯もご馳走しなさいよ」
呆れたようにため息をついて言う社長に、私は慌てて首を振る。
「いえ、もう帰るので」
「え~、わざわざ宇佐美さんのお家逆方向なのに財布届けに来てくれたんだから、お茶ぐらいご馳走になりなよ~」
社長がさりげなく言った言葉に、内心ビックリしてしまう。
私の家が工場長の家と逆方向だって、よく知ってるなぁ……
驚いたのは工場長も同じなのか、なにか言いたげな視線を社長に向けていた。
それから振り返ると、困ったような苦笑を工場長が浮かべる。
「外、寒かっただろ? とりあえずお茶入れるから温まっていって。お礼は今度別の形でするから」
「いえ、本当に大丈夫です。お礼も気にしないでください。じゃ、お疲れ様ですっ」
引き留められる前に、お辞儀だけしてそそくさと工場長の前から小走りで立ち去ろうとしたら。
ぐぅぅぅぅぅ……
私のお腹から響き渡った音に、慌ててお腹を押さえて振り仰ぐ。
いまの音聞かれなかったよねっ!?
恥ずかしさで泣きそうな顔で振り返ったら、工場長は目を見開いてて、社長はぷっと噴き出して口元を手で押さえて笑い出した。
「ははっ、すごい音。もしかして宇佐美さん夕ご飯まだ食べてないの?」
「まあ、はい……。今日はなぜかYシャツの数が半端なく多くて、リスボックスに山盛りなんて初めてですよっ。で、岩瀬さん今日は三時上がりだったので、自分の仕事が終わった後にYシャツ手伝ってたら結構時間がかかってしまって……」
それで夕飯くいっぱぐれてて、空腹にお腹が悲鳴をあげたというわけだった。
なにも、工場長と社長がいるタイミングじゃなくてもいいのに。
恥ずかしすぎる……
「じゃあさ、夕飯ご馳走するよ。近くに美味しいお店があるから」
「いえ、でも……」
工場長の提案に首を振りかけた私の言葉は社長によって遮られてしまう。
「まあまあ、財布を届けたお礼だと思ってご馳走してもらっちゃいな」
言いながら社長は私の肩をぽんっと促すように叩いて、手をとって歩き始めてしまった。




