こんなに近くにいるのに遠く感じるのはなぜ? 6
コンビニは坂道を上がって少しいったところにあった。工場長はコンビニに入ると籠を手に取り、奥の飲料が置かれている冷蔵庫にまっすぐ向かい、ビールやなんかをどんどん籠に入れていく。
私は牧野さんに甘い物を頼まれていたのを思い出して、スイーツコーナに向かった。
頼まれた分とついでにおいしそうだなと思ったスイーツを自分用に買うことにして籠に入れて、工場長と一緒にレジに向かった。
工場長がレジでお金を払っている間に、お酒などの入ったビニール袋を持とうとしたら、こっちを見ていなかったはずの工場長に先にビニール袋を持たれてしまった。
コンビニの自動ドアを出てどんどん歩いていってしまう工場長を慌てて追いかけて、後ろから声をかける。
「あのっ、持ちますよ?」
「いいよ」
振り返らずに言われたその言葉に既視感を覚えて、ずきんっと胸に痛みが走る。
やっぱり、工場長は私に対して怒っているんだ……
しゅんっと気分が落ち込んで、その場で足が止まって俯き、ぎゅっと羽織の裾を握りしめる。でも。
私はぱっと顔を上げて駆け出し、工場長を追い越し前に回り込む。
「工場長、荷物持つますっ!!」
勇気を振り絞って勢い込んで言ったのに、噛んでしまって、ぴきっと体が凍りつく。
私が前に回り込んだために立ち止まった工場長も目を瞬いた。
うぅ……、情けない。
なんでこんな時に噛んじゃうんだろう……
へこみそうになって俯いたら。
ふっと、頭上で笑う声が聞こえて振り仰いだ私は、息を飲んだ。
斜めにこちらを見つめたその瞳に甘い笑みを浮かべ、めまいがするほど素敵だった。
思わず見惚れてしまいそうなほど華やかな笑みにぼぉーっとしそうになって、はっとする。
ここでめげちゃダメよ、私。
「買い出し係は私で工場長は付き添いなんですから、荷物は私が持ちますっ」
諦め悪く言いつのり、工場長に腕を伸ばし手に持っているビニール袋をひしっと掴んで引っ張る。だけどびくともしなくて。
ひょいっとビニール袋を持ち上げられてしまい、手が届かなくなる。
「っ……、工場長っ!?」
まさかそこまでして荷物を持たせてくれないとは思わなくて、非難めいた声をあげると。
工場長はじろっと私を見下ろして、ふっと甘やかに微笑んだ。
「そんなに持ちたいなら、これ持って」
そう言って渡されたのは、ケーキやスナック菓子が入った袋だった。
お酒の缶が入ったビニール袋を工場長が二つも持っているのにこれしか自分が持たせてもらえないなんて意味ないじゃんって不満だったけど、これ以上言っても、きっと工場長が私にお酒の入ったビニール袋を持たせてくれないだろうことが分かったから、私は口をつぐむ。
だけど、それじゃあ気持ちがおさまらなくて、唇を突き出してふてくされる。
「……工場長の人でなし」
ぼそっと、本当に小さな声でつぶやいたのに、横を並んで歩く工場長の視線がじろっと自分に突き刺さったのが分かった。
「なにか、言ったかな? 宇佐美さん。よく聞き取れなかったんだけど」
ちらっと横目で見あげれば、天使もかくやという整った顔にきらっきらの笑顔を張りつけてこちらを見ているから、びくっと肩を震わせる。
いやぁー……、絶対聞こえてたよぉ……
びくびくしながらぱっと工場長から視線をそらし、ぎゅっと瞳を閉じる。
「なっ、なにも言ってないです……」
早口に言いながら、どこか内心はくすぐったいような気分だった。
だって、工場長は私のことを怒っていて、冗談でからかってきたりもしないくらい私を避けていた工場長が、こんなふうにからかってくるのが、いつも通りの工場長で、なんだか安心してしまった。
ほっとして気が抜けたのか、ふらっと体が傾く。
倒れるっ――
思わず体を固くするのと、工場長が私の二の腕をつかんで引き寄せるのとが同時だった。
工場長の手から離れたビニール袋から缶チューハイが数本地面に転げ落ちて、カランカラン……と音を立てる。
私の頭は地面ではなく工場長のたくましい胸に衝突し、そこにめいっぱい頬を埋めてしまった。瞬間、どきっとして体の奥から痺れが広がっていく。胸が苦しくて、息ができない。
工場長の腕の中に包まれて身動きが取れない。
「大丈夫か……?」
腕を掴んでいた手が離れたのに、その部分がひどく熱を持ったみたいに熱い。
腕から離れた工場長の手が上にあがり、ふいに私の頬に触れる。
「すごい冷えてるな……」
囁かれた甘くかすれた声が、白い吐息に変わっていく。
びくっと肩が震える。
見上げた先、淡い蛍光灯の光で照らしだされた薄暗い空間に立った工場長。こちらをじっと見下ろすその瞳の色が一瞬、深くなる。
時間が止まってしまったような感覚に、自分の心臓の音だけがやけに大きく聞こえる。
「これ着て」
言いながら工場長は自分の上着を脱ぐ。
ばさっと前をはだけさせ、肩を出して、袖から腕を引きぬく。
それだけの動きがいやに色っぽくて、ぞくっとするほど素敵だった。
工場長の動きに呆然と見とれていた私の前に向かい合うように立った工場長が、コートをばさっと広げて私の肩に着せ掛けた。
突然のことに瞠目して振り仰ぐと、工場長がこの上なく優しい瞳を浮かべるからどぎまぎしてしまう。
ばくばくとうるさく騒ぎ始めた心臓の音が工場長にも聞こえてしまいそうで、それを誤魔化すように慌てて口を開く。
「なっ、に言ってるんですかっ!? 工場長が風邪ひいちゃいますよっ」
その声がどもっていようが気にしている場合じゃない。
肩にかけられた工場長のコートを脱ぎ、工場長の手元に渡す。
浴衣の上に羽織は着てても、十二月も夜の気温ではぜんぜん防寒の役目を果たしていなくて、手足が冷え切って震えそうだったけど、だからって工場長のコートを借りるとかありえないっっっ!
恥ずかしすぎる。これ以上迷惑かけたくない。工場長が風邪ひいたら困る。
いろんな感情が一気に押し寄せてきて、とにかく工場長のコートを借りてはいけないということだけははっきりしていて。
押し返すようにコートを渡したんだけど、工場長は一向に受け取ってくれなくて、黙ってしまったのを不思議に思って振り仰いだら。
苦虫をかみつぶしたような、何かをこらえるように顔を歪めていて。
はじめて見る工場長の表情に、つきんっと胸が痛む。
ついさっき、私のことをからかういつも通りの工場長に戻ったと思ったのに、いきなり知らない表情をされて驚いてしまう。
「…………のに、…………だな」
ぼそぼそっともらされた言葉は聞きとれなくて。
「えっ、なんですか……?」
聞き返したら、どこか焦点の定まらなかった工場長が私をじっと見下ろして、くっと口元に皮肉気な笑みを浮かべるから、胸をぎゅっと掴まれたように苦しくなる。
なんて表情を浮かべるのだろう……
いつも穏やかな笑顔ばかり浮かべてて、からかう時だって笑顔を浮かべているのに。
私は声も出なくて、体が震えて、ぎゅっと手のひらを握りしめる。
「……まあ、俺には関係ないけど」
ぼそっと呟いた工場長の言葉は意味不明で、私は首を傾げる。
工場長は体ごと横を向き、前髪をかきあげながらちらっと私に視線を向けこちらに手を伸ばす。
いまだに私が持ったままになっていたコートを引き抜くと、ばさりと広げて、もう一度私の肩にかけた。
「風邪ひかれたら困るから」
感情の読み取れない静かな声で言った工場長はすでに背を向けて歩き出していた。
鉛をおしこめられたように胸の奥が急に苦しくなる。
風邪ひかれたら困るから――
それって……
工場長の責任になるから困るってこと……?
どこかで聞いたような言葉に、既視感に襲われて、そんな嫌なふうに考えてしまう。
工場長が嫌味を言ったとは思わないけど、そう聞こえてしまう狭量な自分が嫌になる。
ぴゅーっと冷たい風が吹きつけ、思わず首をすくめる。
頬に触れたコートの温かな肌触り。ふいに鼻をかすめた工場長の匂いに、たまらなく胸が苦しくなった。
工場長の匂いに包まれて、まるで工場長に抱きしめられているみたいで。
かぁっと体が熱くなる。
なんか……、熱ぶり返してきたかも……
くらりと眩暈がして額を抑える。
視界の先に、だいぶ先まで進んでしまった工場長が振り返ったのが見えて。遠くて表情は見えないけど、「早く来い」って言っているような威圧感があって、私は慌てて駆け出す。
工場長に着せ掛けられたコートが落ちてしまわないように、荷物を持っていない手で前をかき合わせて。
駆け出した瞬間、ふわっと工場長の匂いが漂ってきて、胸が苦しくなる。
工場長はすでに前を向いてずうっと先の方を歩いてて、蛍光灯に照らされた後姿が見えた。
ついさっきまで手が触れ合うほどの距離にいたのに。
自分のことをからかってきて、いつもの工場長だと思ったのに。
なんでこんなに近くにいるのに、遠く感じるんだろう――……




