こんなに近くにいるのに遠く感じるのはなぜ? 3
社長からの「風邪で倒れたばかりだけど明日からの社員旅行はいけそうかな?」って確認の電話がなければ、すっかりうっかり忘れるところだった社員旅行に――いま来ているというわけで。
工場をストップさせるわけにはいかず、従業員が前半組と後半組に分かれての社員旅行で、私は前半組。
そしてそして……
工場長も前半組だったんですよっ!!
朝、集合場所に着いてそこに工場長の姿を見つけた私は、内心、わぁーって叫び出したい衝動にかられた。
こんなことなら風邪だからって社員旅行休めばよかったとか思ってしまった。
だって、どんな顔して会ったらいいんだろうって思った次の日から工場長と一緒に社員旅行だなんて……
神様ってほんと気まぐれだっ!!
でも、着いた旅館を見て、やっぱり来て良かったと思ってしまった。
だってこんなに上品で優美な旅館、普通だったら絶対来ることができないだろう。
こんな旅館の経営者と知り合いの社長ってすごすぎる……
暁ちゃん情報では、前半組が工場長牽引、後半組が社長牽引らしい。
いちおう、各フロアごとに半分ずつ前半組と後半組に分けて工場がストップしないようにしているらしい。だからか、同じような作業をする江坂さんは一緒じゃない。
女性は一階作業の二人と事務の牧野さんと私の四人で一部屋。
工場内の女性比率自体少ないから、上手くそのへんも調整しているのかもしれない。
男性は十人で、計十四人が前半組として今日から一泊二日の社員旅行。
風邪自体は、昨日帰ってから家に常備している風邪薬を飲んで温かくして寝たら、朝には熱は下がっていた。風邪といっても咳や鼻水といった症状はなくて、寒気と頭痛だけだ。
工場長が一緒だって知ってたら、前日の電話で社長に行けるなんて返事しなかったのに……と思ってしまう。
まあ、来てしまえば、工場長とどんな顔して話したらいいんだろうとか悩んでいたことなんてすっぽりと頭から吹き飛んでいってしまったけど。
朝一で電車に乗り、まず旅館で荷物を預けてからいざ観光!
宿泊地は都心からほど近い温泉郷箱根。
箱根といったらやっぱり大涌谷でしょうっ!
ということで、さっそく皆で登山電車に乗り、ケーブルカーに乗り、ロープウェイに乗って大涌谷へ。
早雲山駅からロープウェイが動き出す瞬間、ふわっと体に浮遊感が走って興奮してくる。
硝子に両手をついて張りつき、動き出した景色を見つめる。
ロープウェイは山の急斜面をどんどんと登って行き、さっきまでいた駅舎や街並みがあっという間に小さくなっていく。
鬱蒼とした緑に囲まれていた視界がぱっと開き、ゴツゴツした山肌の間から白煙が舞い上がり、一気に目の前の景色が広がった瞬間、その自然の雄大さに息を飲んだ。
わぁー、すごい…………
大涌谷に来るのは初めてじゃないけど、何度来ても胸が躍り出しそうな気分になる。
私は興奮冷めやらぬ勢いのままうきうきとした気分でロープウェイを下りる。
硫黄の匂いが強烈でちょっと鼻にくるけど、荒涼とした大地に白く吹き上がる噴煙、それから遠くに見える富士山の頂きに大自然のすごさを肌でひしひしと感じるっていうか。
素直にすごいなぁ~って思える。
大涌谷に着いてまずは昼食にしようって展望レストランで昼食を済ませ、噴煙の吹き上がる遊歩道を進んだ私は、玉子茶屋の看板を見つけて駆け出さんばかりの勢いで一緒にいた牧野さん達を振り返り声をかける。
「あっ、黒たまご売ってますよっ、黒たまごっ!」
「あ~、黒たまごね……」
そう言って牧野さん達女子三人が顔を見合わせて苦笑するから、私はきょとんと首を傾げる。
「せっかくだから食べましょうよっ!」
やっぱ、大涌谷といったら黒たまごでしょう。ここに来たら食べないと気が済まない。なのに。
「私達は遠慮しておくよ……」
「ほら、いまお昼ご飯食べたばかりだし……」
「えー、こういう買い食いは別腹じゃないですかぁ~」
不満たらたらで唇を尖らせる。
「五個も一人じゃ食べられないですから、ねっ」
にっこり微笑んで同意を求めようとしたのに、牧野さん達はそそくさを足早に私の横を通り過ぎて逃げていってしまった。
「ごめんね~、ほんと、もうお腹一杯だからー」
「えぇー……」
あっさりかわされて呆然と立ち尽くしていたら、背後からくつくつと笑う声がして振り返ると、片手にソフトクリームを持った暁ちゃんが肩を震わせて笑っていた。
「あはは、なにやってんのうさちゃん。お姉さま方を困らせちゃダメでしょ?」
「別に困らせてないよぉ……」
私はぷうっとほっぺを膨らませる。
「ただ、一緒に黒たまご食べませんかって誘っただけなのに」
「ああ、黒たまごねぇ~」
「やっぱ、大涌谷にきたらこれ食べなきゃでしょっ!」
「まあ珍しいけど、別に味は普通のゆで卵じゃん?」
「そうだけど、こういう場所で食べるとすごく美味しいんだよ?」
「ゆで卵一個百円は高い気もするけど」
「だって一個食べると七年も寿命が延びるんだよっ!? すっごくお得じゃない??」
勢い込んで言う。
「それ本気で言ってる?」
真面目な顔で暁ちゃんに聞かれて、私はコクコクと首を縦に振ったら、なぜか「まじかぁ~」と盛大なため息をつかれてしまった。なんでだろう……
私はぽりぽり頬をかいて、売店へと一人向かう。
メニューは黒たまご一品だけという玉子茶屋は、平日だというのに黒たまごを求めた人達が並んでいて、列の最後尾に並ぶ。
「いいよーだ、誰も一緒に食べてくれないなら一人で食べるし」
黒たまごって一袋五個入りで、賞味期限が買った翌日くらいまでだった気がするんだよね。だから買ってその場で一つ食べて、残りは帰りの電車の中で食べるんだけど、一人で五個は食べきれないしせっかくだからみんなで食べたいなぁって思ったのに。
ぶつぶつと心情駄々もれになってるとは気づかずに、列が進み自分の番になって売店で黒たまごを一袋注文する。お財布から五百円玉を出そうとしたら、私がお金を出すよりも早くチャリンっと小銭の音がした。
見上げたら、暁ちゃんが私の頭越しに五百円玉を出して店員さんから黒たまごの袋を受け取っていた。
「毎度ありがとうございます~」
店員さんの上がり調子の声を背に、私は慌てて暁ちゃんの後を追いかける。
「暁ちゃんっ……」
玉子茶屋の前では、さっそく買った黒たまごを食べている人達で溢れている。
ここは遊歩道の行き止まりで開けた見晴台になってて、背後では白煙が吹き上がり、前方には雄大な富士山の姿がある。
暁ちゃんは売店から少し行った場所にある岩の積み上げられて一段高くなった場所の縁に腰かけて、がさがさと袋の中から真っ黒のたまごを一つ取り出して私に差し出した。
「ほら、食べたかったんだろ」
「う、うん……、そうだけど」
呆然としながら両手を出して暁ちゃんからたまごを受け取ろうとしてはっとする。
「あっ、お金払うね」
突然の暁ちゃんの行動にビックリして忘れそうだったけど、暁ちゃんがお金はらってくれたんだもんね。
とりあえず一個食べるから百円でいいかな。あっ、でもさっきお財布見たらちょうど五百円玉しかなかったような……
そんな考えを巡らせていたら。
「お金いらないから」
「えっ、でも」
「別に大した額じゃないし、ありがたくおごられておけよ」
だって、さっきはたかがゆで卵で一個百円は高いって言ったじゃない……
声には出さなかったのに、私の不満が分かったのか、暁ちゃんがにやりと笑う。
「悪いと思うなら、今度飲みに行ったとき、一杯奢って」
「うー……、それって卵一個より高くつかない? そんなこというならありがたく奢られるもん……」
ぷうっと頬を膨らませて、暁ちゃんから黒たまごを受け取る。
受け取った黒たまごはまだ熱々で、そのまま持ち続けるのはちょっと難しいくらいだった。
暁ちゃんの横に腰かけて、素早く殻をむくと、中からはぷるんっとした真っ白のゆで卵が顔を出した。
あ~、美味しそう!
「塩、使う?」
「うんっ」
黒たまごについている塩の袋の端っこを斜めに切って自分のたまごに振りかえた暁ちゃんに聞かれて、私は頷く。
「このお塩がまた美味しいんだよねぇ~」
普段、家ではゆで卵を食べることって滅多にないのに、ほんと、ここに来たら黒たまごを食べないと気が済まないのはなんでだろう。
ぺろっと一つ食べ終えてしまって、ぼおーっと前方に見える富士山を眺めていたら、突然、視界に黒たまごを差し出された。
「も一個食べる?」
私は一瞬、逡巡する。
さっき昼食を食べたばかりで、お腹はそれなりにみたされている。もう一個もらえるなら明日の帰りの電車で食べたいけど――
そこまで考えて、私は暁ちゃんから黒たまごを受け取った。
「うん、ありがと」
やっぱ、今食べちゃおう。だって、あつあつのいま食べるのが一番美味しいだろうから。
二個目のたまごの殻をむきながら隣に座る暁ちゃんを見れば、すでに二個目を食べ終えていたから驚く。暁ちゃん、さっきソフトクリームも食べてたよね……
暁ちゃんの胃袋ってブラックホール並み??
あまりにじぃーっと見ていたからか、最後の一個を取り出して空になった袋をくしゃくしゃっと丸めた暁ちゃんに首を傾げられてしまった。
「食べる?」
こくんと首を傾げられて、私は慌てて首を横に振る。
見ていたのを、物欲しそうにしていると勘違いされたのだろう。
「さすがに三個は無理だよ……」
「そっ? じゃ、俺食べちゃっていい?」
「どぞ……」
黒たまご美味です。
五個五百円の価値あると思います(笑)




