第3話
ルーカス様からの求婚を受け入れたあの日から、わたくしの世界は一変した。
ヴォルフガング公爵邸に迎えられたわたくしは、生まれて初めて「一人の人間」として扱われる安らぎを知った。
「シャーロット、無理はしていないか? 疲れたら、いつでも私を頼ると約束してくれ」
書斎で古い文献を読み解いていると、ルーカス様は必ずそう言って、わたくしの好きなブレンドのハーブティーを淹れてくださる。
その赤い瞳は、巷で噂されるような冷酷さなど微塵も感じさせず、ただひたすらに優しい光を湛えていた。
わたくしが何気なく口にした政治への懸念や、経済政策の改善案に、彼は真剣に耳を傾け、時には白熱した議論を交わした。
それは、エドワード殿下との間では決して得られなかった、知的な喜びと魂の充足感だった。
(ああ、なんて幸福なのかしら)
この穏やかな日々が、永遠に続けばいい。
心からそう願っていた矢先、王都から不穏な知らせが届き始めた。
「――東方諸国連合との関係が悪化? なぜ、今になって」
ルーカス様の執務室で報告書を読んでいたわたくしは、思わず眉をひそめた。
東方諸国連合とは、数年前にわたくしが仲介役となり、粘り強い交渉の末に友好条約を結んだばかりだったはずだ。
「原因は、エドワード王子だそうだ」
ルーカス様が、苦々しい表情で告げる。
「連合の特使に対し、王子が『辺境の蛮族が、偉大なる我が国と対等な口をきくな』と暴言を吐いたらしい。リリアン嬢が特使の装飾品を『野蛮で下品』と嘲笑ったことも、火に油を注いだようだ」
「なんて、愚かな……!」
頭がくらくらする。
あの友好条約が、どれほど繊細なバランスの上に成り立っていたか。わたくしがどれだけ心を砕いて、彼らの文化や歴史を学び、敬意を払うことで信頼を勝ち取ってきたか。
エドワード殿下もリリアン嬢も、そんな背景など何一つ理解しようとしなかったのだ。
それを皮切りに、王国の政治は急速に傾き始めた。
わたくしが不在になったことで、これまで水面下で処理されていた膨大な量の政務が滞り、あちこちで綻びが生じ始めた。
わたくしが立案した治水計画は、後任の担当者が図面を理解できずに頓挫。先日発生した豪雨で、南部の一大穀倉地帯が壊滅的な被害を受けたという。
エドワード殿下は、迫りくる国難から目をそらすように、リリアン嬢との夜会や観劇に明け暮れているらしかった。
「……自業自得、ね」
冷たく呟くわたくしを、ルーカス様が痛ましそうな瞳で見つめていた。
「君が心を痛める必要はない。すべては、君という至宝の価値を見誤った者たちの責任だ」
「ですが、このままでは民が苦しむことになります」
わたくしの言葉に、彼は静かに頷いた。
そして、決意を秘めた声で言う。
「その通りだ。――シャーロット、私と共に、王城へ行ってはくれないだろうか」
彼の真意を悟り、わたくしはこくりと頷いた。
もう、誰かの影に隠れて、匿名で国を支えるのは終わりだ。
わたくしは、ヴォルフガング公爵の婚約者として、この国を救うために戦おう。
数日後、国王陛下直々の召喚という形で、わたくしたちは王城の玉座の間へと赴いた。
そこには、憔悴しきった国王陛下と、居心地悪そうに佇むエドワード殿下とリリアン嬢、そして居並ぶ重臣たちの姿があった。
「おお、ヴォルフガング公爵! よくぞ参られた!」
国王陛下が、藁にもすがるような思いでルーカス様に駆け寄る。
「東方諸国連合が、国境に軍を集結させておる! このままでは戦争は避けられん! 何か、何か手立てはないものか……!」
その時、エドワード殿下が忌々しげにわたくしを睨みつけた。
「父上! なぜシャーロットまでここに呼んだのです! こいつは私を裏切り、ヴォルフガング公爵に乗り換えた不実な女だぞ!」
その言葉を聞いた瞬間、ルーカス様の纏う空気が、絶対零度まで下がった。
「――黙れ、愚か者」
地獄の底から響くような声に、玉座の間が凍りつく。
「貴様が今、その口でのうのうと喋っていられるのは、一体誰のおかげだと思っている?」
ルーカス様は、懐から一枚の古い羊皮紙を取り出した。
そこに書かれていたのは、古代語の呪文。敵国の呪術師が、王家にかけたという呪いに関する記述だった。
「10年前、王家、特に次期国王となる者にかけられた『判断力を著しく鈍らせる』呪いを解読し、その解呪法を見つけ出したのはシャーロットだ。彼女が毎夜祈りを捧げ、その身を削って呪いの影響を抑えていなければ、貴様は今頃、ただの廃人になっていたぞ」
「な……!?」
エドワード殿下が絶句する。
それは、わたくしが誰にも告げず、ただ一人で背負ってきた秘密だった。
(ルーカス様……なぜ、あなたがそれを……?)
驚くわたくしに、彼はそっと視線で「信じろ」と告げた。
「シャーロットの功績はそれだけではない! 貴様が結んだと豪語する隣国との貿易協定の草案を書いたのも、貴様が原因で起きた外交問題を謝罪し、関係を修復したのも、すべて彼女だ! 貴様は、彼女の功績をただ横取りしてきただけの、無能な操り人形に過ぎん!」
ルーカス様の言葉が、雷鳴のように玉座の間に響き渡る。
重臣たちも、エドワード殿下も、そして国王陛下さえも、あまりの真実に言葉を失っていた。
「そして――」
ルーカス様は一度言葉を切ると、その赤い瞳で、ゆっくりとわたくしを見つめた。
その瞳には、深い悲しみの色が浮かんでいた。
「私が『氷の悪魔』と呼ばれるようになった、あの北の戦場でさえ、彼女は私を救ってくれた」
「え……?」
「あの時、我が軍は敵の罠にはまり、絶望的な状況に追い込まれた。兵糧は尽き、援軍の当てもない。そんな時、私の元に一羽の鳥が、小さな手紙を運んできたのだ」
彼は、まるで遠い日を懐かしむように語り始めた。
「手紙には、敵の布陣の弱点と、包囲網を突破するための完璧な進軍経路が、現地の地図と共に記されていた。そのおかげで、私は最小限の犠牲で、部下たちを生きて連れ帰ることができた。――差出人の名はなかったが、その緻密な分析と、人命を尊ぶ戦略は、シャーロット、君のものだとすぐにわかった」
あの手紙。
戦況の報告を受け、居ても立ってもいられず、わたくしが古文書の知識を総動員して編み出した作戦。
まさか、それが彼の元に届き、そして彼の命を救っていたなんて。
「だが、私が非情な決断を下し、敵将を討ち取ったことだけが切り取られ、私は『氷の悪魔』と呼ばれるようになった。……それでも構わなかった。部下を守れたのなら。そして、いつかこの手紙の主に会って、礼を言える日が来るのなら、と」
ルーカス様が、そっとわたくしの手を取った。
その手は、かすかに震えている。
冷酷非道な英雄の、初めて見る弱い部分だった。
「ようやく、会えた。私の、命の恩人。私の、唯一の光……」
もう、涙を堪えることはできなかった。
わたくしたちの魂は、出会うずっと前から、固く結ばれていたのだ。
その時、それまで呆然と成り行きを見守っていたリリアン嬢が、ヒステリックに叫んだ。
「嘘よ! そんなの全部嘘! 地味で、暗い女に、そんなことができるはずないわ! ねぇ、エドワード様!」
だが、エドワード殿下は答えない。
いや、答えられないのだ。
すべての真実を突きつけられ、顔面蒼白でがくがくと震えている。
「さて、国王陛下」
ルーカス様が、厳かな声で国王に向き直った。
「もはや、どちらがこの国の未来を担うべきか、明白ですな?」
そして、わたくしはルーカス様の手を握り返し、決然と顔を上げた。
「東方諸国連合との問題は、わたくしが解決いたします。ただし、条件が一つ。エドワード王子とリリアン嬢の、王族としての権利の剥奪、及び、これまでの愚行に対する正式な謝罪と賠償を、連合と我がヴォルフガング家にしていただくこと」
わたくしの言葉に、玉座の間は再び静寂に包まれた。
国王陛下は、しばらく天を仰いだ後、深く、深く、頭を垂れた。
「……すべて、その方の条件をのもう。国を、救ってくれるか。シャーロット嬢」
それは、わたくしが長年待ち望んでいた、けれど決して与えられなかった承認の言葉だった。
こうして、わたくしとルーカス様は、国の危機を救うために立ち上がった。
そしてそれは、自らの愚かさで全てを失った者たちへの、完璧な断罪の始まりでもあった。




