第2話
時が、止まった。
わたくしの間抜けな声だけが、シンと静まり返ったボールルームに虚しく響く。
目の前で片膝をついたままのルーカス公爵は、その赤い瞳でじっとわたくしを見つめている。
冗談を言っている気配は、微塵もなかった。
(え? えっ? なに? 妻……? 誰が? わたくしが? 誰の? この『氷の悪魔』様の!?)
脳内が大パニックに陥り、思考がショートする。
何かの間違い? それとも、これはエドワード殿下の婚約破棄劇をさらに盛り上げるための、手の込んだ余興かしら?
「……公爵様、そのような戯れは、おやめくださいまし」
やっとのことで絞り出した声は、自分でも驚くほどか細く震えていた。
わたくしの言葉に、凍りついていた周囲の貴族たちが、まるで魔法が解けたかのようにざわめき始める。
「戯れだと?」
ルーカス公爵は、心外だと言わんばかりに眉をひそめた。
その端正な顔立ちに浮かんだわずかな感情の動きに、なぜか心臓がどきりと跳ねる。
「私は、人生で一度も戯れを口にしたことはない」
彼の視線が、わたくしの背後に立つエドワード殿下へと向けられる。それは、視線というより、もはや氷の刃だった。
「――立て、王子。いつまで公爵令嬢をみすぼらしい舞台の晒し者にしておくつもりだ」
地を這うような低い声に、エドワード殿下の肩がびくりと震えた。
「なっ、ルーカス公爵! 貴様、王族たる私に……!」
「王族だからこそ、己の立場と、その隣に立つべき人間の価値を理解できぬ愚かさを恥じるがいい」
言い返す言葉もない、というように殿下は顔を真っ赤にして黙り込む。
ルーカス公爵は、そんな彼にもう興味を失ったように、すっくと立ち上がった。
そして、戸惑うわたくしに、ごく自然な仕草で手を差し伸べる。
「さあ、参りましょう。このような場所で、これ以上聞くべき言葉などない」
その手は、先ほど触れた時と同じように、温かかった。
噂とは、まったく違う。
わたくしは、何かに導かれるように、そっとその手に自分の指を重ねた。
大きな手が、わたくしの冷え切った手を力強く、けれど優しく包み込む。
その瞬間、張り詰めていた緊張の糸が、ほんの少しだけ緩んだ気がした。
ルーカス公爵にエスコートされ、わたくしは呆然とする人々が割って開けた道を進む。
エドワード殿下の悔しそうな顔も、リリアン嬢の怯えた瞳も、父親の怒りに満ちた視線も、すべてが遠い世界の出来事のように感じられた。
わたくしたちが向かったのは、バルコニーだった。
ひんやりとした夜風が、火照った頬に心地よい。
ボールルームの喧騒が嘘のように遠ざかり、静寂が二人を包んだ。
月明かりが、彼の漆黒の軍服と、その肩に輝く銀の肩章をぼんやりと照らしている。
「……あの、公爵様」
先に沈黙を破ったのは、わたくしだった。
心を落ち着けなければ。冷静に、状況を分析するのよ、シャーロット。
(この求婚には、裏があるはず)
(クライネル侯爵家は、王家に次ぐ力を持つ大貴族。わたくしが王子に捨てられた今、その繋がりをヴォルフガング公爵家が利用しようとしている? 政略結婚……それなら、話はわかる)
(あるいは、エドワード殿下への当てつけ? 王子に恥をかかせるための、ただの気まぐれ?)
どちらにしても、わたくし自身に価値があるわけではない。
「地味で面白みのない氷の人形」なのだから。
「なぜ、わたくしなのですか?」
意を決して、まっすぐに彼を見つめて問いかける。
どんな答えが返ってきても、もう傷つかない。そう、自分に言い聞かせた。
ルーカス公爵は、バルコニーの欄干に軽く寄りかかりながら、静かに口を開いた。
「3年前、隣国との穀物貿易協定が暗礁に乗り上げた際、両国の歴史的背景と経済状況を分析し、新たな交易路と関税率を提案した匿名の論文が王家に提出された。あれは、貴女の功績でしょう?」
「え……」
思ってもみなかった言葉に、息をのむ。
なぜ、それを? あれは、外交に関心を示さないエドワード殿下に代わって、わたくしが夜を徹して書き上げたもの。もちろん、提出された時には、殿下の名前に書き換えられていたけれど。
「先年の大旱魃の折、王立図書館の地下書庫から古代語で書かれた治水文献を解読し、被害を最小限に抑える貯水池の建設計画を立案したのも、貴女だ」
「な……っ」
「王太子妃教育の傍ら、匿名で国の財政が抱える構造的な問題を指摘し、その具体的な改革案を何度も宰相府に提出し続けていたことも、私は知っている」
次々と挙げられる、誰にも知られるはずのないわたくしの「秘密」に、心臓が大きく波打った。
それらはすべて、わたくしが国の未来を、民の生活を想い、ただエドワード殿下の助けになりたい一心で、身を削るようにして行ってきたことだった。
誰にも褒められなくても、認められなくても、それでよかった。
彼の栄光が、わたくしの喜びだったから。
……その、はずだったのに。
「どうして……それを、ご存知なのですか……?」
声が、震える。
今まで完璧に抑え込んできた感情の堰が、決壊しそうになる。
ルーカス公爵は、その赤い瞳を静かに細めた。
夜の闇の中で、その瞳はまるでルビーのように深く、美しく輝いて見えた。
「本当に価値あるものは、光の当たる場所にはない。静かな影の中に、ひっそりと隠されているものだ。……私は、ただそれを見つけ出すのが得意なだけですよ」
彼の言葉が、乾ききったわたくしの心に、じんわりと染み渡っていく。
「彼らは貴女のドレスの色や、髪飾りの趣味しか見ていなかった。だが、私が見ていたのは、貴女のその類稀なる知性と、この国を深く想う慈愛の心だ」
ああ、だめだ。
もう、限界だった。
堪えきれなくなった涙が、一筋、頬を伝った。
慌てて手の甲で拭うけれど、次から次へと溢れてきて、止まってくれない。
こんなみっともない姿、人に見せるなんて。
ましてや、『氷の悪魔』と恐れられる人の前で。
(でも、この人は)
(この人だけは)
(わたくしを見ていてくれたんだ……)
10年という歳月。
妃教育でどれだけ厳しい課題をこなしても、「できて当然」としか言われなかった。
殿下の公務を陰で支えても、感謝の言葉一つなかった。
ただ、次期王妃という「役割」を完璧にこなすことだけを求められ、シャーロットという一人の人間として見られることは、決してなかった。
その孤独と虚しさを、この人は、たった一言で救い上げてくれた。
「シャーロット嬢」
不意に、彼がそっと一歩近づき、白いハンカチを差し出した。
「私は、貴女が欲しい」
その声には、先ほどの求婚の時とは違う、熱がこもっていた。
「政略ではない。気まぐれでもない。シャーロット・フォン・クライネルという一人の女性の、その魂の輝きに、私は焦がれている」
彼の真摯な瞳に見つめられ、わたくしはもう、何も言えなかった。
差し出されたハンカチを、震える手で受け取る。
「貴女が今まで一人で背負ってきたその重荷を、これからは私が半分背負いたい。……いや、全て奪い取ってでも、貴女を守りたい」
それは、今まで聞いたどんな甘い愛の言葉よりも、わたくしの心を揺さぶった。
その時だった。
「――ここにいたか! シャーロット!」
怒声と共に、父親であるクライネル侯爵が、血相を変えてバルコニーに踏み込んできた。
その後ろには、顔を真っ赤にしたエドワード殿下の姿もある。
「一体どういうことだ! ヴォルフガング公爵、いくら貴方でも、人の家の娘にこのような不躾な真似は許さんぞ!」
「そうだぞ! シャーロットは、ついさっきまで私の婚約者だったのだ! 節操がないにもほどがある!」
父親と元婚約者は、まるでわたくしが所有物であるかのように言い放つ。
先ほどまで感じていた温かい光が、彼らの言葉によって再び冷たい影に閉ざされそうになった。
だが、ルーカス公爵が、わたくしの前に庇うように一歩踏み出した。
「不躾、とは?」
彼の声の温度が、絶対零度まで下がったのがわかった。
「婚約者を衆人環視の中で一方的に断罪し、その尊厳を踏みにじったのはどちらですかな、エドワード王子」
「うっ……!」
「そして侯爵。貴方は、己の娘が受けた屈辱よりも、家の体面を優先されると? ……なるほど、よく理解できました」
ルーカス公爵は、心底軽蔑したというように、二人を冷ややかに見据えた。
「よくお聞きなさい。貴方がたが先ほど捨てたのは、ただの侯爵令嬢ではない。この国の、いや、大陸全土を探しても見つからぬほどの『至宝』だ」
彼の言葉に、父親も殿下も呆気にとられている。
「その価値に気づけなかった己の不明を、貴方がたは生涯かけて後悔することになるでしょう」
そう言い切ったルーカス公爵は、ゆっくりとこちらを振り返った。
その赤い瞳には、先ほどまでの冷徹さはなく、ただひたすらに優しい光が宿っていた。
「シャーロット嬢。改めて、貴女の答えを聞かせてほしい」
彼は、わたくしの意志を待ってくれている。
わたくしを「モノ」ではなく、「人」として、その心を尊重してくれている。
もう、迷いはなかった。
わたくしは、涙で濡れた顔を上げて、まっすぐに彼の瞳を見つめ返した。
そして、今出せる、一番凛とした声で、告げた。
「……はい。そのお話、喜んでお受けいたします。ルーカス様」
わたくしの人生が、今、新しく始まろうとしていた。




