第1話
シャンデリアの眩い光が、磨き上げられた大理石の床に乱反射している。
王宮のボールルームは、着飾った貴族たちの立てる衣擦れの音と、楽しげな談笑、そして優雅なワルツの調べで満たされていた。
その中心で、わたくし――シャーロット・フォン・クライネルは、長年の婚約者であるエドワード王子の隣に、完璧な淑女として控えていた。
銀の髪を結い上げ、あつらえたばかりの薄紫のドレスを身に纏う。けれど、わたくしの存在は、この華やかな夜会では空気のように希薄だった。
(……今日も、王妃教育で学んだ通りに振る舞えているはず)
背筋を伸ばし、口角をわずかに上げて微笑みを浮かべる。
感情を悟らせない、完璧な微笑み。
いつしかそれは「氷の人形」と揶揄されるようになったけれど、次期王妃となる者に、軽々しく内面を見せることなど許されない。
そう教え込まれてきたし、それがエドワード殿下のためになると信じていた。
「シャーロット」
不意に、殿下が低い声でわたくしの名を呼んだ。
その声に含まれた冷ややかな響きに、胸が小さく跳ねる。
隣に立つ彼の金の髪が、シャンデリアの光を受けてきらきらと輝いていた。誰もがうっとりと見惚れる、美しい王子様。
わたくしだけの、王子様。
そう信じていたのは、どうやらわたくしだけだったらしい。
「ここで、皆に話しておきたいことがある」
殿下の声に、周囲のざわめきがすっと引いていく。
音楽が止まり、すべての視線がわたくしたちに突き刺さるのを感じた。
何が起こるのか、わたくしはもう、とうの昔から知っていたような気がする。
エドワード殿下の隣には、いつの間にか可憐な少女が寄り添っていた。
ふわふわとしたピンク色のドレスに、蜂蜜色の髪。大きな瞳を潤ませて、不安そうに殿下を見上げている。
確か、新興の男爵家の令嬢だったか。最近、殿下のお気に入りだと噂の。
「わたくし、シャーロット・フォン・クライネルとの婚約を、ただ今をもって破棄する!」
甲高い宣言が、静まり返ったホールに響き渡った。
(……ああ、ついに)
心臓が、氷の塊になったみたいに冷えていく。
けれど、不思議と涙は出なかった。
ただ、じくじくと胸の奥が痛む。彼のために費やした、10年という歳月が、音を立てて崩れ落ちていく。
「な……!」
「まあ……!」
周囲から驚きの声が上がる。
けれど、そのほとんどはわたくしへの同情ではなく、世紀のゴシップを目の当たりにした野次馬の興奮に満ちていた。
「殿下、それは……どういうことですの?」
わたくしは、最後の力を振り絞って、完璧な淑女の仮面を貼り付けたまま問いかけた。
声が震えなかった自分を、誰か褒めてほしい。
(本当は、今すぐ叫び出してしまいそうなのに)
(あんたのためにどれだけ我慢してきたと思ってるの!? あんたが夜会を抜け出して遊び呆けている間、誰が膨大な量の書類を片付けていたと!? あんたが外交で失言するたびに、誰が各国の貴族に謝罪の手紙を書いていたと思ってるのよ、この脳天気王子がーっ!)
心の声が、喉元まで出かかって、すんでのところで飲み込んだ。
そんなことを口にすれば、クライネル侯爵家の名に泥を塗ることになる。
わたくしは、ただ耐えるしかない。
エドワード殿下は、そんなわたくしの内心など露知らず、心底うんざりしたという表情で言い放った。
「理由だと? 見ればわかるだろう。彼女、リリアンこそが、私の心を癒してくれる唯一の女性なのだ。彼女の太陽のような笑顔に比べ、お前はなんだ? いつもいつも表情を変えず、まるで氷の人形だ。隣にいても、心が少しも休まらない!」
リリアンと呼ばれた男爵令嬢が、殿下の腕にぎゅっとしがみつく。
「そんな……エドワード様、わたくしなんかのために……」
「いいんだ、リリアン。私はもう、偽りの婚約に縛られるのはごめんだ。これからは、お前だけを愛すると誓う」
まるで悲劇の舞台のワンシーンだった。
主役は彼ら二人。
そしてわたくしは、彼らの恋物語を盛り上げるための、哀れな悪役令嬢。
周囲の囁き声が、容赦なくわたくしの耳に届く。
「やはり、シャーロット様では地味すぎたのよ」
「殿下がお可哀想だわ。あんな感情のない方とご結婚だなんて」
「男爵令嬢のほうが、よっぽど可愛らしいじゃないか」
誰も、わたくしが影でしてきた努力など知らない。
知ろうともしない。
ふと視線の先に、父親であるクライネル侯爵の姿を見つけた。
彼は、苦々しい表情でわたくしを睨みつけ、小さく首を横に振った。
その目は、こう言っていた。
――我が家の恥さらしめ。
ああ、そうか。
わたくしには、もう味方などどこにもいないのだ。
この世界に、たった一人で取り残されてしまった。
絶望が、冷たい霧のように全身を包み込む。
もう、どうでもいい。
このまま、この場で消えてしまいたい。
そう思った、その時だった。
「――随分と、下らない茶番を見せてくれる」
凛と響いた低い声に、会場のすべての人間が息をのんだ。
その声には、あらゆるものを凍てつかせるような、絶対的な威圧感が込められていた。
人々の視線が、声の主へと一斉に注がれる。
そこに立っていたのは、一人の男性だった。
夜の闇をそのまま切り取ったかのような、漆黒の軍服。
同じ色の、闇よりも深い髪。
そして、燃えるような、血のように赤い瞳。
ルーカス・フォン・ヴォルフガング公爵。
北の国境で敵国をことごとく殲滅し、そのあまりの冷酷非道さから『氷の悪魔』と畏怖される、若き英雄。
その彼が、なぜここに? 社交界を嫌う彼が、このような場所に姿を現すことなど、万に一つもないはずだった。
ルーカス公爵は、誰にも目もくれず、ただまっすぐにこちらへ向かって歩いてくる。
彼が一歩進むごとに、モーゼの奇跡のように人垣が割れていく。
誰もが彼の瞳に射すくめられ、身動き一つ取れないでいた。
もちろん、エドワード殿下も例外ではない。
「る、ルーカス公爵……なぜ、貴方がここに……」
王子の分際でありながら、その声は情けなく上ずっていた。
けれど、ルーカス公爵はそんな王子を一瞥だにしない。
彼の赤い瞳が捉えているのは、ただ一人。
わたくし、シャーロットだけだった。
コツ、コツ、と彼の軍靴の音が、わたくしのすぐ目の前で止まる。
見上げるほどの長身。整いすぎた顔立ちは、まるで神が創りたもうた彫像のようだった。
しかし、その表情は能面のように固く、何を考えているのかまったく読み取れない。
彼は何を?
わたくしも、殿下の愚行を嘲笑いに来たのだろうか。
そう思った瞬間、わたくしは己の目を疑った。
目の前の『氷の悪魔』が、わたくしの前で、静かに片膝をついたのだ。
軍人としての彼にとって、それは最大の敬意を示す作法。
そして彼は、白い手袋に包まれた手で、そっとわたくしの右指を取った。
その手は、噂に聞くような氷の冷たさではなく、確かな熱を帯びていた。
「シャーロット・フォン・クライネル嬢」
深く、静かな声が、わたくしの名前を呼ぶ。
初めて、誰かに宝物のように名前を呼ばれた気がした。
「このような愚かな男との婚約がなくなったこと、心から祝福申し上げる」
彼の言葉に、エドワード殿下が「なっ……!」と息をのむ。
ルーカス公爵は、そんな雑音などまるで意に介さず、その血のように赤い瞳で、まっすぐにわたくしの魂を射抜くように見つめてきた。
「もし、貴女さえよろしければ」
一瞬の沈黙。
会場にいるすべての人間が、固唾をのんで彼の次の言葉を待っていた。
「私の、妻になってはいただけないだろうか」
「…………え?」
完璧な淑女の仮面が、音を立てて砕け散った。
わたくしの口から漏れ出たのは、そんな、あまりにも間の抜けた声だった。
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