忘却と草笛
とても深く眠っていたような気がする。
いつものように、左側の顔の横にはルベが丸くなって眠っていた。
柔らかで滑りの良い毛をなでると、ルベは薄らと目を開けた。
『帰ってきたな。待っていたぞ』
「ベス? 私が分かりますか?」
二人は何を、言っているのかが分からない。
私に何があったのだろう。
「ダニエル様、何を言っているんですか? 私、頭でも打っておかしくなって、眠っていたのですか?」
『獣神官の試練を受けて、帰ってきたのだ』
質問の答えが、理解できないのは重症だろうか。
「あのぉ。ダニエル様、頭に回復の魔法を掛けてください。どうしよう。何も覚えていないのです」
この強度な度忘れ感は、多分病気だと思う。
「試練の記憶は、ないのが普通なのですよ。ベスの傷だらけの足と、爪の割れた手の指で、あなたがどれ程頑張って、ここに帰ってきてくれたのかが、良く分かりました。帰ってきてくれて、ありがとうございます。ベス、おかえりなさい」
「はい、ただいま?」
ダニエル様が、えらく感激しているようなので、この度忘れ状態は病気ではないのだろう。
違和感はあるが、久しぶりに頭をなでられて嬉しい。
「えへぇ。ダニエル様、フワトロのオムレツ!」
記憶はないが、ご褒美はほしい。
「はいはい」
言ってみるものである。
『我も食うぞ』
夜も明けていないというのに、四つもベッドのある部屋の真ん中に、小さなテーブルと椅子を置いて、食べているのは朝食だろうか。
ダニエル様は、お茶を飲みながら、私とルベの食事を楽しそうに見ていた。
食後にルベの口の周りを拭きながら、入り口に近いベッドに目がいった。
「そう言えば、ジョンは?」
「今夜には戻るでしょう。用事を頼んでいたのです」
ダニエル様は、主神官で忙しいのに、私のそばにいてくれる。
その分、部下さんたちが大変で、それをいつも申し訳なく思う。
私はルベを抱き上げると、ベッドに腰かけた。
「朝になったら、ドナート様にご挨拶をしなければいけませんね」
ダニエル様の師匠で、世界でただ一人の送り神官。
私が無事に戻ってきた事を、きっと喜んでくださるに違いない。
「ベス。ドナート送り神官は、もう旅立たれてしまわれました……」
「なんて、今なんて言ったのダニエル様?!」
思いもしていなかった返事に、私は驚いた。
ダニエル様が寂しげに、私を見て笑顔を浮かべて見せた。
ああ、私は馬鹿だ。
こんな顔をさせては駄目なのに……
悲しいのはダニエル様なのに……。
「ごめんなさい。いつ旅立たれたのですか?」
「四カ月程前でした」
四カ月程が分からない。
「私が試練を受けたのはいつですか?」
「それは……」
『ダニエル、我が話そう』
ルベは鼻の上に小さなシワを作って、私を見上げた。
『あれは春を迎えられなかった。それほど、魔力は限界だったのだ。ベスを送ってすぐに倒れ、三日後に旅立った』
「私を送ったから? ……私が無理をさせたからですか?!」
思わず叫ぶように言ってしまった。
泣いて済むことではない。しかし……。
「ベス!」
ダニエル様が走り寄って来て、私をきつく抱きしめた。
「違います。落ち着きなさい。ベスを送る事を望んだのは、師匠ですよ。私は何度も止めました。師匠はただ魔力が消えるのを待っているより、特異な運命を背負った、あなたを送る名誉を授かりたいとおっしゃった。大神官と獣神官を送った、史上初の送り神官として、師匠は旅立たれたのですよ。満足そうな笑顔でした」
そんな話を聞かされたら、一層悲しくなる。
ダニエル様が師匠と過ごす、穏やかな最後の時間に、なるはずだったのだ。
私がその時間を取り上げてしまった。
二度と取り戻せない時間だというのに。
何という事を、してしまったのだろう。どう償えばいい。
「夜が明けましたね。祈りの時間ですから、デビットにベスが目覚めた事を、知らせてきます。私と同様に、彼も待っていましたからね。目を冷やして、休んでいるのですよ」
ダニエル様は冷たい手拭いを、私の目にあてて、部屋を出て行った。
『ドナートはかつて、獣神官の試練にダニエルの兄を送った。二人とも戻っては来られぬと知っておったのだ。我は大神官からそれを聞いて、急いで来たが間に合わなかった。そしてドナートは生涯、その罪を背負った。ダニエルが育てたベスを、最後に送る事を望んだのは、罪滅ぼしだったのだろう』
『ルベはその時から、ダニエル様のおそばに?』
『あれの長兄は大神官。大切な弟であっても、そばにはおれぬ身。ダニエルは生きる事に、興味のない子供だったから、目が離せなかった』
ダニエル様のお兄様は、大神官だったのだ。
私はそこで、ある事に気が付いた。
『ルベ、ダニエル様って何人兄弟なの?』
『真ん中はいないが、本来は三兄弟だ。上は年が離れているがな』
『とんでもない事に気付いたんだけど、私の父親役って、ひょっとして大神官様なのかしら?』
『ひょっとしなくても、そうだ』
『馬鹿なのかしら?』
『あの二人を馬鹿呼ばわりするのは、ベス位だな』
隠れみのが金ピカって、隠れていないでしょ?
悪目立ちしてどうするのよ。
デビット神官の朝の仕事が終わる頃、ダニエル様に連れられて、私はドナート様がかつて使われていた、執務室に入った。
「エリザベス様。おめでとうございます」
デビット神官は、そう言ってくれたが、私の気持ちは重たい。
「申し訳ありません。ドナート様の時間を、私が奪ってしまいました」
デビット神官もまた、師を失った事に変わりはないのだ。
「おやおや、そんな顔をなさってはいけませんよ。私がドナート様の立場だったとしても、同じようにしたでしょう。送り神官として、こんなに嬉しい旅立ちはありません。大神官様も獣神官様も、本物を送れるのは何百年に一人なのです。よくご無事で戻ってきてくださいました。ドナート送り神官に代わって、私がお礼を申しあげます」
「ありがとうございます。そう言っていただけると、気持ちが少し楽になります」
楽になってはいけない気はするが、そばでダニエル様が、心配そうに私を見ているので、もう泣いたりはしない。
デビット神官は正方形の木の箱を、私の前のテーブルに置いた。
「これは、エリザベス様が試練を受けられる前に、ドナート様からお預かりしていた物です」
「開けても良いですか?」
「もちろん、どうぞ」
それは白く光る銀色の金属に、羽根が彫られている腕輪だった。
「ドナート様が自らお作りになった物で、魔力を隠す効果がございます。エリザベス様は今、並外れた魔力をお持ちですが、それを見ることのできる者には、すぐに分かってしまうでしょう。就任式がお済みになるまで、お役に立てばとドナート様は言っておられました」
「ありがとうございます。大切に使わせていただきます」
腕輪は私には大きく、二の腕に丁度収まった。
ダニエル様は、少し笑ってうなずいた。
デビット神官も、同じように二度もうなずいた。
二人の顔を見て、多分これは、大人用のブレスレットだと思った。
その内に大人になるから、その時までは、邪魔にならなくて良いだろう。
私は二人に笑顔でうなずき返した。深い意味はない。
「エリザベス様。おめでとうございます」
夜になって、ジョンが帰ってきた。
「ベスって呼んでくれないのなら、ジョン様って呼ぶわ」
ジョンは愉快そうに笑った。
「ベス、ご無事でなにより。オレは信じていましたよ」
「何を根拠に?」
「ダニエル様とルベ様が大切にしているんだよ。ハズレはないだろう?」
「それって、私じゃなくて、ダニエル様とルベを信じているんじゃない?」
「ああ、そうか。確かにそうとも取れる」
ジョンは何とも、つかみ所のない性格をしている。
「それで、家は無事でしたか?」
二人の会話に、困ったように眉をあげて、ダニエル様が言った。
「はい。あれは壊れないですから、でも、本気ですか?」
「魔素が薄いですからね。ルベがつらくなります」
ジョンの言葉に、ダニエル様はそう答えて、ルベを見た。
「家って?」
ルベがつらくなると聞いて、口を挟んだ。
「試練は早くて半年。一年が目途ですからね。住む場所を考えていたのですよ。もうじき、この辺りの山には雪が降ります。どちらにせよ、春までは移動できないのです」
「四区は山に囲まれているからな」
「ベスも戻ってきましたから、これ以上この教会に、ご迷惑を掛ける事はできません。私がお役に立てる場所でもありませんから、明日にでも移動しましょう」
私はこの教会のベッドに、なじんではいないが、ダニエル様たちは、四カ月もいた事になる。
この町の教会は他にあるので、この教会にはお年寄りが、たまに訪れるだけなのだと、ジョンが前に教えてくれた。
デビット神官や教会の管理人さんに、挨拶を済ませて、試練後初めて教会の外に出た。
近くの山は紅葉しているが、その向こうの山は既に白くなっている。
少し肌寒い訳だと肩をすぼめた。
教会の入り口にある、青い葉っぱが目に付いて、私はそれを一枚手に取った。
口に当てて、私はそれを吹いた。
無意識にしてしまった行動だったが、初めに出した音が懐かしい気がして、思い付くまま吹いてみた。
この教会に初めて来た日、この教会が海の向こうを見ている気がしたが、その気持ちがより深く共感できる気がした。
この海で泳いだ訳でもないのに。
吹き終わって、振り返るとダニエル様がいた。
「草笛はどこで覚えたのですか?」
「これは草笛というのですか? ただ、この木の葉だけが緑だったので、口を付けたら音が鳴りました」
「そうですか」
「どうかしたのですか?」
ダニエル様の静かな笑顔が、会話と合っていない気がする。
「私の兄が試練に向かう前に、この場所でベスと同じように、草笛を吹いていたものですからね」
「悲しい事を思い出させて、ごめんなさい。ダニエル様」
知らぬ事とはいえ、これはまずいと思う。
「いいえ、試練の場所が、どのような所かは、誰にも分かりません。記憶を持って帰る人は一人もいませんからね」
誰に消された記憶なのかは分からないが、この強力な違和感は厄介である。
「ただ、私は兄が死んだものだと、疑った事はなかったのです。きっとベスは兄に会ったのでしょうね。兄は面倒見の良い、優しい人でしたから、ベスに草笛を教えたのでしょう。ベス、ありがとうございます。ドナート様にもお聞かせできれば、長く苦しまずに済んだものを」
「草笛って、ダニエル様のお兄さんしか、吹けない物ですか?」
なぜ、そのような解釈になったのだろう。
「いいえ、誰でも吹けるものですよ。ベスが吹いた曲は、兄が友人のために作った曲なのです。白の学園で、今も歌われているのですよ」
志を抱いて故郷を離れた若者が、独りぽっちの夜には、故郷の野山や。家族や友人を思うという内容で、険しく恐ろしい世の荒波を、きっと乗り越えるから、どうか健やかでいてほしいと続くらしい。
ホームシックの友人に作った曲だと言うが、泣かせただけだと思う。
「兄の後から試練を受けたのは、ベスだけなのです」
「覚えていなくて悔しい。私はちゃんとご挨拶ができたでしょうか。ごめんなさい、ダニエル様。思い出話のひとつもできなくて」
「いいえ。これだけで十分です。まさか、兄もベスが草笛を覚えて帰るとは、思っていなかったでしょうね」
ダニエル様が、本当に嬉しそうな笑顔を浮かべた。
海を見ると、心の奥がキュンとなった。
この教会が見ている先に、私は大切なものを、忘れてきたような気がしてならなかった。




