風と名乗った人
「無理……」
私は登山道のない山に、登った事はない。
そもそも車で途中まで行って、ゆっくり頂上でお弁当を食べて下山する、そんな登山遠足しか知らないのである。
人が数十年に一度しか通らない山に道はなく、頼りの獣道は、頂上を目指してはいないと、ここに来て初めて知る始末。
私は途切れた獣道を諦めて、背丈ほどある草が茂る斜面を、取りあえず上に行くしかなかった。
魔物はいないが、虫や蛇はいる。
おそらく動物もいるだろう。
毒があるかどうかは分からないが、噛まれたくはないので、落ちていた枝の先を、小刀で削って持ち歩いている。
脅しで退いてくれると良いが、向かって来られたら、応戦しなければならない。
虫の羽音や鳥の鳴き声と、自分の足音。
それらに混じって、水音が遠くに聞こえた。
登りながら水音の方向へ足を向ける。
すり足ではワラジが傷むからと、教えられた歩行方法で歩いていたが、それでもワラジはそろそろ替え時のようだった。
草木の間が明るくなり始めたら、すぐに目の前の視界が開けた。
足元の地面が無くなり、その少し下に川があった。
日は頭の真上にあるが、私は鳥居から一度も、腰を下ろしてはいない。
川原に下りて、澄んだ水で顔や手足を洗い、テレサさんが持たせてくれた、お握りを頰張った。
塩漬けの葉っぱに包まれているお握りは初めて食べたが、塩分がご飯に抱き込まれていない分、その塩味が疲れた体にはありがたい。
陶器をワラで巻いた水筒に入っていたお茶は、残りが僅かだった。
川の水が安全なものかどうかは分からないが、口に含んで、味と臭いを確かめてから水筒に入れた。
草の茎や木の枝から水をとる方法では、喉の渇きは癒えなかったのである。
私は少し体を休めてから、川沿いに上へ向かう事にした。
背丈ほどある草をかき分けて進むのは、思いの外、体力を消耗するのである。
川で水を飲む動物を遠くに見かけるが、彼らは物音がすると、すぐに立ち去る。
魔法のない世界は、魔物こそいないが、弱肉強食や食物連鎖は当然、存在するのだろう。
細い川をしばらく行くと、狭い川原の石は大きくなり、すぐに川原は歩けなくなった。
川の横は背丈ほどあった草木が減り、石と土の斜面になっていた。
歩きやすいとは言えないが、前が見える分、気持ちは楽である。
私は時々、四つんばいになりながら、滑り落ちないように進んだ。
手袋がないので、爪はすぐにボロボロになった。
持たされたワラジが残り一足になった頃、ようやく頂上にたどり着いたのだが、その場所には何もなかった。
背の低い数本の木があるだけで、神の山と書いてある標識もなければ、標高の表示もない。
営林署はないだろうし、登山者も来ない山の山頂は、ただ殺風景だった。
初心者が朝から夕方まで歩いて、山頂にたどり着ける山なので、深呼吸ができる程、酸素は豊富で高山病の症状もない。
何もない山の頂上で、私は首をかしげた。
神の山から、前の世界に帰れる事は聞かされていたが、その方法は知らないのである。
「山を間違えた? ここに朝までいて下山する方が良いかなぁ? 下山したって山は他にないみたいだけど……」
足元も見えない夜の山を、灯りも持たずに歩けるとは思えない。
私は雨具として持たされた、ポンチョを背負い袋から出して、風を少しでも防げるような、枝の多い低木を探した。
食べる物は、川でくんだ水と干芋と塩。
夜が明けたら、登る時に見つけた、食べられそうな植物を取って川へ行こう。
その後の事は、それからゆっくり考えればいい。
ワラで出来ている背負い袋を敷物にして、ポンチョを被ると温かく、疲れも出たのか眠くなった。
「このような場所で野宿をしては、体を壊しますよ?」
「ご親切にありがとうございます。頭が悪いので、体は丈夫ですから、どうぞお構いなく」
昔から、頭の弱い子は体が強いと言われているのを、この人は知らないのか?
「あなたは何をしにここへ来たのですか?」
「ああ、場所を間違えたみたいです。明日探します」
人が気持ち良く寝ているというのに、大きなお世話だ。この人は暇人なのか?
「ええ?! この人? 人がいるの? なぜ? って言うか誰?」
「お目覚めのようですね」
会いたい人が、そこにいた。
「ダ、ダニエル様?!」
「いいえ。私は風と申します。ここで休んでは体にさわります。せめて建物に入りませんか?」
人違いをしたようだが、その人は困ったように眉を上げる表情すら、ダニエル様のようだった。
「山のてっぺんに建物はないですよ」
日本ならば、展望レストランとか、売店とかはありますが。
「ここに来てから、歩かなかったのですね? 私に付いていらっしゃい」
知らない人だけれど、食べ物もくれなかったし、ダニエル様に似ているから、悪い人ではないだろうと思った。
判断基準が変かもしれないが、困った事はない。
山頂の中心ぐらいの場所で、風さんは振り返った。
「ここへ、来てごらんなさい」
風さんの横に立つと、景色が一変した。
「これは……」
石造りの建物があった。
だが、ここはさして広くもない山の頂上なのである。
土地の面積と建物の大きさが、あまりにも違い過ぎる。
「中へ入りましょう」
私は慌てて風さんの袖を引いた。
「危ないですよ? 崩れます。地面は少ししかないですから、この建物はほとんどが空中に浮いていると思いますよ。動いちゃ駄目です」
風さんは優しい笑みを浮かべて、真剣に忠告をしている私を見た。
「神がつくられた山と神殿ですから、心配はいりませんよ」
あった事もない神を、信じろと言うのはどうなのだろうか。
しかし、たくさんの女性が並んでいる光景を見て、私はルベの空間を思い出し、きっとそのような物なのだと、できの良くない自分の頭を、説得するしかなかったのである。
「それでは、身を清めていただきます。お話はその後でいたしましょう」
お話をしてから、帰れるのだろうか。
帰るためなら、井戸水を何杯でも被って見せる。
四人の女性に案内されたそこは、前世で家族と行った有名温泉の大浴場より広かった。
湯衣を着せられたが、ほぼ裸の状態で、服を着ている集団に体を洗われるのは、気持ちの良い物ではない。
それよりも、この無駄に広い風呂は、誰のためにあるのだろう。
解放しても入りにくる者は少ないだろうが、お婆さんを連れてきたら、どんなに喜ぶだろうと思った。
ツボに入って、あんなに感動していたのだから。
前を合わせて、腰の部分をひもで結ぶ、見事な刺繍が施されているガウンのような服を身に着けて、私は女性たちに連れられて、大きな扉を潜った。
「平伏をなさいませ」
そう言ったのは、その部屋にいた年配の女性だった。
正装ならば分かるが、ガウンを着て低頭はどうなのだろう。
一応は彼女の真似をしたが……。
数分で絹のすれるような音が聞こえてきた。
神に対する挨拶を習ってはいない。
ただ、拝むのはこの場合、違う気がする。
「ご挨拶をなさいませ」
年配の女性はむちゃを言う……。
「拝謁を賜り、恐悦至極に存じます。私はエリザベスと申します。ラベーナ神におかれましては、以後、お見知りおきいただけると光栄に存じます」
「エリザベス。よう来たな。妾はラベーナ、面をあげよ」
黒の大陸、四区の始祖の教会にある女神像がそこにいた。
白金の長い髪と白い肌、整った顔にある瞳は金色で紅のない口元に、自然な笑みが浮かんでいた。
ラベーナ神がその手を上げると、部屋には誰もいなくなった。
「エリザベス、畏まらなくても良い。楽にいたせ」
楽にって……。無理。
緊張し過ぎて楽の仕方を思い出せない。
「エリザベス、獣神官は大きな魔力を持つ。従って、普通の人間に戻る事はかなわぬが、それでも受けてくれるか?」
「はい。そう心に決めて参りました」
「そうか、その気持ちを妾は尊く思う。神獣たちがそなたを待ち望んでおった。どうか、力になって欲しい」
「及ばずながら、努力を重ねる所存でございます」
「何もない所ではあるが、体を休めてから戻ると良い」
「お心遣いをいただき、恐縮にございます」
風さんが、用意された部屋に案内をしてくれた。
「遅い時間ではございますが、お夕食を用意いたしました。このお部屋はご自由にお使いください。隣の部屋に、身の回りのお世話をさせていただく者が控えておりますので、なんなりとお申し付けください。ただ、この神殿を出る事はできません。黒の大陸へ行かれる時は、私をお呼びくださいますように」
「はい。ありがとうございます」
豪華な食事が並んでいた。
どれを食べても味は良かったが、一人で食べるのは、つまらない。
私は焼き芋を、自分が食べるために、買うタイプの人間ではないのである。
共に熱さと味を楽しめる相手がいたら、走って車を追いかける事すら、楽しめるタイプの人間なのだ。
私は給仕をしてくれる女性に、おいしい食事だった事と、食べきれなかった事を伝えた。
明るい日差しの、心地よいぬくもりの中で目が覚めた。
疲れていたせいか、神経が太いせいか、初めての場所だというのに、寝坊とは自分でも呆れてしまう。
朝の身支度から、食事の世話までしてくれる人を、待たせたと思うと気まずい。
昨夜は気付かなかったが、窓の外には庭があり、そこにはたくさんの花が、あふれるように咲いて、思わず声をあげてしまった。
庭は自由に見て回れるらしく、簡単なスリッパのような履き物を、用意してくれたので、少し見せてもらう事にした。
この神殿は神が作った空間にあるのだと、花を見て実感した。
山の頂上の目に見えない場所にあるのだから、今更だが、この咲き乱れる花は、人の力でどうにかなる物ではないだろう。
奇麗な花が寂しく見えるのは、どこからか聞こえる音色のせいかもしれない。
その音を探して、花の中を歩く。
遠くを見つめて、風さんが立っていた。
「うるさかったでしょうか?」
「いいえ。あの音楽は、どのようにして奏でていたのですか?」
「これですよ」
「草笛って、とても奇麗な音色ですね」
「誰でも吹けるのですよ」
そう言って風さんは、私に草笛の吹き方を教えてくれた。
草笛は、才能が必要なのかもしれない……。
「そういえば、昨日、私の事をダニエル様とお間違えになりましたが、そのお方と私は似ているのでしょうか?」
「ええ。とても。白銀の長い髪も、黒い目も、少し違うのはダニエル様の黒は、赤が入っているのです。優しい雰囲気も声も似ています。まあ、ダニエル様は少し癖がありますが」
「癖ですか?」
そう言って風さんは、探るように私の顔を見た。
「身内にだけ見せる腹の内は、結構、悪態大魔王なんです。でも、世界で一番信用できる人で、誰よりも優しい人です。私は生まれた時から、今まで、ダニエル様に守られて生きてきました」
「そうでしたか。そんな方と間違われて、光栄ですね」
風さんは、本当に幸せそうな顔をして見せたので、私は少し腹がたった。
「ダニエル様の様子が聞けて、安心しているようですが、あなたを失った、彼の心の傷はまだ、癒えてはいませんよ。ダニエル様のお兄様?」
「……」
風さんは黙って私を見つめた。




