無詠唱
教会に入ったのは、村を出て以来だった。
朝、夕の祈りは体が覚えている。
この世界の人は創造神ラベーナと、各大陸を守る四獣神に祈る。
信託を受ける大神官がいて、実在する四獣神がいるのだから、神は身近である。
教会の神官は教会本部への窓口であり、貧民層の医師であり、その子供たちにとっては校長先生でもある。
父さんや神官様の話を聞いて、分かった事がある。
なんと、この世界の教会は、児童養護施設の運営はしていない。
教会は、国に属してはいないからなのだと聞いた。
親を失った子は教会に預けられる。
子を捨てる親は、その場所に教会を選ぶ。
王都や大きな町の施設に子供を預ける、一番確実な方法だからである。
教会から託された子供は、国が責任を持って育てざるを得ないらしい。
各国には治療院も学校もあるが、誰でもが通える訳ではないという。
私の育ったサイユ村だけではなく、王都や領主のいる大きな町から、離れた場所にある村は同じようなもののようだ。
サイユ村もイーズリ国にあった頃は、教会がなかったのだ。
そのような村を巡回する神父もいると聞いた。
冠婚葬祭だけで賄えるのかとは、子供らしくないので、聞けなかった。
「ベス。買い物に出掛けましょう」
「神官様、お仕事は?」
「私の教会ではありません。ちゃんと、病人の治療はしてきましたよ? 宿賃としてですけれどね」
「そんなんでいいの?」
「いいのです。さあ、行きましょう」
神官様はたくさんの食器や鍋を買い、食材を買い込んだ。それをルベに持たせるので、私は不安になった。
「神官様、ルベは小さいのに、そんなに持たせて大丈夫ですか?」
「ええ。ルベは家具だって持てますよ?」
「まさかぁ。ルベの口には入らないでしょう?」
神官様はただ笑って、買い物を続けた。
カバン姿のルベのため息が聞こえた。
『ベス。我は口から荷物を入れた事はないぞ』
「そうなの? どこから入れるの?」
『我にはベスの目には見えない、大きな家があるのだ』
「デンデン虫ね! あれは家だっけ? とったらナメクジと間違われるからね」
『何を言っているのか、分からないが、そんなものだと思っていい。熱い物も、冷たい物も、そのまま運んでやる』
それは、すごく便利な物だと思った。頭の中にはクーラーボックスが浮かんだが、それより機能は優れている。
「それだと、神官様は料理をする必要がなくなるね」
野営の火は好きだが、疲れている神官様に料理を作ってもらうのは、元十六歳の私には気がひける事だったのである。
『そのような目で見ても、我は材料を入れて、料理を出す事はできないぞ』
買い物の料金を払い終えた神官様は、荷物をルベに入れながら言った。
「ベス。それでも、そんな事ができるのは、ルベだけなのですよ。ジルベルトとセルジオたちは少し知っていますが、これは、人前ではできませんからね?」
「え? でも神官様はできますよね? 薬草を採りに行って荷物を持たずに戻ってきたでしょ? でも、馬車の中で、少し出して見ていました」
『ベスには隠し事ができないな』
神官様は私を見つめてから、ため息をついた。
「私は修行をして習得したのです。ですが、ルベほどは持てないのです。仕事柄、薬草は必要ですからね。そうですねえ、ベス。私は見えない薬箱を持っていると思っていてください」
「便利ですね。私も修行して覚えたい」
「まずは、基本からですよ?」
「はい」
神官様が日用雑貨を探している。
「ああっ。ハンカチがある」
私は思わず声を上げた。
「何が不思議なのですか?」
「だって、手拭いを半分に切って使っていたんです。ほらね?」
ポケットから出したそれを見て、神官様は目を丸くした。
「エリー……。彼女らしい」
この世界にタオルはどうやらないようで、この店にも、色とりどりの木綿の手拭いが大と小に分けて売られていた。
私たちは、たくさんの買い物をしてから、教会に向かったのだが、入ったのは教会の隣の小さな家だった。
「誰もいませんから、大丈夫ですよ。ここは、私の友人の家です。彼は今、この国にはいません。奥さんが夜まで、台所を貸してくれたのです。彼女の食事の用意もする条件が付いていますけれどね」
神官様は料理を作っては器に入れ、ルベがそれをしまっていく。私は言われるがまま食材を切り、汚れた物を洗った。
「ベスがいて助かります。ありがとう」
「いえ。料理の勉強になります」
日本の親は共働きだったので、お手伝い程度はしていたが、料理のレパートリーは少ない。カレーやシチューは市販のルーを、我が家は使っていたのだ。だしはパックに入っていて入れるだけだった。学校の調理実習は、二度と作る気にはならない代物だったのである。
米も醤油も味噌もないこの世界で、母さんであるエリーが、自然に手伝いをさせながら、料理の基礎を教えてくれていたのだと知った。
ちなみにマヨネーズは、名前がタマゴソースというだけで存在する。
タルタルソースはそのアレンジなので、パンや揚げ物料理が多いこの世界では、普通に家庭で作り、食べられている。
「準備もできた事ですし、明日の朝にはこの町を出ましょう」
神官様はそう言って私を見た。
「はい」
『我もカバンは飽きた』
「私も、カバンを抱いて寝る変な子と、きっと思われています」
「ルベがカバンの時は、抱き心地が良くないでしょう?」
私の顔をのぞき込む神官様に笑顔を返した。
「でも、なぜか、安心するんです」
次の日の朝。
教会の前にあったのは、日本の人力車に似た、二人用の馬車だった。
座席は革張りで、座り心地は悪くはない。
二人用といっても、この世界の人は大きく、乗用車の後部座席ほどの幅がある。
遠出にあまり使われないのは、魔物や盗賊の襲撃に弱いからのようで、今回の馬車には、折りたたみ式の金属のフードが付いていた。
町の門は神官様が札を見せるだけで、簡単に通してもらえた。
門を抜けると、ルベは変身して、嬉しそうに風の匂いを嗅いだ。
私もようやくネガーラ国に入った事を実感している。
別に、追っ手に遭遇したり、隠れて逃亡したりしていた訳ではなかったが、逃げてきたのは確かなのである。
「同じ大陸で、同じ空の下なのに、空気が違う感じがします」
「隣国との間は全て高い山の国ですからね。気候も違いますから、そんな感じを受けるのでしょう。そうでした、これをあげましょう」
神官様はポケットから、一つの袋を取り出した。
それは初めて目にする物だった。
半透明の黒い布地で作られた巾着に見えるが、形は理科室にあったフラスコを大きくしたような物。
小さくたたんで、ポケットに入れる事ができる程、その袋は薄くて、しなやかだった。
「ベスがまた、ずぶ濡れになったら大変ですからね。それは白の大陸にいる土グモの糸で織ったものです」
「一年中雪が積もっているのですよね? 大地はあるのですか?」
雪の下に土があるから、大陸なのだろうが、ここは確認をしておきたい。
「ええ。ありますよ。その袋は生活魔法程度ではびくともしません。神官を目指す生徒が使う物なのですよ。上級魔法は杖を使いますが、生活魔法は指で十分ですからね。袋に指を入れて、このくらいの大きさの玉を作る練習をするのです」
神官様はそう言いながら、親指と人差し指をつけて見せた。
「学園って十五歳からと聞きましたが、生活魔法を習うのですか?」
「いいえ。生活魔法には個人差があるのです。火、水、風、土の中の二つ程度の適正は誰にでもあります。白の学園で神官を目指す生徒は、高魔力者が多いのですが、子供の頃から使っていない魔法や、苦手な魔法があるのです。治癒魔法は全ての魔法が使えないと、習得する事ができませんからね。その袋を使って、自主練習をするのですよ」
「治癒魔法……」
私の言葉を聞いて、ダニエル様が小さく笑う。
「まずは、基礎です。体がだるくなったり、眠くなったりした時は中止です。それ以上すると危険だと、体が教えているのですからね。少しずつ使える量が増えますから、ゆっくりやっていきましょう」
「はい」
私は袋に人差し指を入れた。
魔力の流れを感じたら、それを指先に導いて、欲しい魔法を具体的に頭に浮かべて詠唱する。
「ラべーナ神の泉よりもたらされた、その力をこの手に。我願うは炎」
袋が赤く発光した。
ラべーナ神の信仰はマインドコントロールかもしれない。
とりあえず面倒なので少し楽をしようと思う。
「我願うは炎」
もう少し省いても良い気がする。
「炎」
これは口にしなくてもいいよね。
「……」
袋は同じように光った。
「これが楽で、いいみたい」
神官様がため息をついた。
「黙ってやらせてみたら、無詠唱ですか……。それは高等技術です。人前ではそれらしく口だけでも動かしてくださいね。それを習得するのは早い子でも十八歳ですから」
何を言われているのか分からずに、私は神官様を見ていた。
「だって頭に思い描くだけですよね?」
「思い描くだけで発動したのですか?」
「本に書いてありましたよ?」
あの幼児向けの本には、確かに書いてあったのだ。
「人々が思い描いただけで、魔法が発動していたら、この世界はなくなっていたでしょうね? 体にある魔力を感じる事だって大変なのですよ。ベスは自分の血液の流れが分かりますか? 内臓の位置はどうでしょう?」
「想像はできますが、感じる事はできません」
「そうですね。それを感じて、指先に誘導するのですから、諦める人もたくさんいます。その魔力を頭で思い描いた物にするのは、更に大変なのですよ。詠唱をする意味が分かりましたね」
「はい」
「無詠唱は魔力を余分に使います。それを覚えておく事を忘れないように」
私は火と水と土の魔法を使ってから気が付いた。
「神官様、火と水と土は頭の中で丸くできるのです。でも、風は思い浮かばないのです」
「火や水、土の魔法を遠くに飛ばす時には風魔法が必要です。生活魔法では小さな風を吹かせる程度ですから、木の葉を動かすような光景はどうでしょう」
袋が光って、私は生活魔法を覚えた。
田園風景が流れ、馬車の前方には森が見えていた。




