44.
「……アリサさん。やっぱり貴女だったのね」
縛られた両手をついて、上体を起こす。月明かりを背に、聖女アリサはにっこりと笑っていた。
「こんばんは、ジュリエッタさん。気分はいかが?」
愛らしい声で歌うように言って、アリサは手に持っていたランプを床に置く。彼女の背後にある扉の向こうには、鬱蒼と茂る夜色の木々たちと、松明を持った体格のいい男たちの姿が垣間見えた。
相手がアリサひとりだったなら、私の聖属性魔法でも逃げ出すことができたかもしれないが…見える範囲だけでも3人の男たちが、それぞれに斧や剣などの獲物を腰に下げている。さすがにこの人数を相手に、正面突破は難しそうだ。
「まったく。貴女ってほんっとうにお人好しよねぇ。暗殺者を片っ端から返り討ちにしていたくせに、子供を使った途端にあっさりと捕まってくれちゃうなんて。どこまでいい人ぶるつもりなのかしら?外面ばっかり良くて、ほんっとうにムカつく」
「あの暗殺者たちも、貴女が仕向けていたのね?」
「私がっていうかあ、神殿がね? 特別な部隊だかなんだか知らないけれど、どいつもこいつも役立たずだったわ」
かび臭い部屋に不釣り合いな、夜色にきらきらと光るドレスが揺れる。
綺麗な黒髪に、黒のドレスを纏ったアリサは、聖女というよりも魔女のような、邪悪な美しさを見せていた。
ドレスの裾が汚れるのも構わず、私の前にしゃがみ込んだアリサ。彼女はクスクスと笑いながら、私のあごに指をかけると、顔を上向かせた。
歪んだ笑顔を、キッと睨み返す。
「私ねぇ、ジュリエッタさん。貴女に死んでもらいたいの」
「お断りするわ。聖女であろうがなかろうが、誰かの死を願うなんて、許されることじゃないもの」
「許し? そんなもの関係ないって。私は貴女が嫌いで、大嫌いで、死んで欲しいの。ただそれだけだよ?」
まるで、なんでもないことのようにきょとん、と首を傾げて見せるアリサから、ふわりと甘い香りが漂った。
「……?」
(なんだろう、この匂い……香水じゃない、なんだか、胸が悪くなるような……)
少ない月明かりの中では、よく見えないけれど……彼女の指先や、身体の周囲に、なんとなく重い暗闇が澱んでいるように見えた気がして、目を細める。
至近距離にいる彼女から漂うその甘い香りは、呼吸と共に吸い込めば吸い込むほど、身体の内側が重たくなっていくように感じた。
「ジュリエッタさんが悪いんでしょ? ここは私のための世界なのに。ジュリエッタさんが悪役令嬢らしく、聖女の私をいじめてくれないから。私より綺麗で、賢いのも許せない。私の猫ちゃんを横取りしたのもありえないし、私が聖女として目立つための舞台で、私より目立っちゃったりするのもさぁ……。本当に迷惑なの。私のための物語を、これ以上荒らさないでほしいの。わかる?」
ぎょろり、と向けられた目は、いつもの大きくておっとりした可愛らしい目……ではなく、充血していて、なんだかとても暗い色をしているように見える。
「何を言っているのか、わかりませんわ。私が貴女をいじめる理由なんてありませんし、ロロのことは、そもそも貴女が私に押し付けてきたのでしょう。大体、ここが貴女の世界、とかいう考え方自体がまちがい――……」
言葉の途中で、ガンっと衝撃を感じ、体が吹っ飛ぶ。痛みは、一拍遅れてやってきた。
「ぐっ……」
――思い切り、アリサに蹴り飛ばされたのだ。
誘拐されてきたことで、元々全身が痛かったが……彼女に蹴られた脇腹は燃えるように痛くて、息が上手く吸い込めない。すぐには体を起こすことができそうになかった。
(華奢な彼女に蹴られた程度で、こんなふうに身体が飛ぶなんて……)
何かおかしい、と必死で顔を上げれば、アリサさんの足元には、黄金色の輝きがゆらめいていた。
あれは、神聖力だ。
自分の体に神聖力を纏わせて、その力で蹴ったのだろうと予想がついた。私が護身として使う、聖属性魔法の使い方と同じだ。
「リーエ!がはっ」
「ロロ!」
続けて、ロロの小さい体が宙を飛ぶ。ぐしゃん、と壁にぶつかったロロの呻き声が、心に痛かった。
咄嗟にロロの方へ駆け寄ろうとしたが、ドレスの裾が何かにひっかかり、ぐしゃりと顔面から転んでしまう。振り返れば、アリサが私のドレスの端を踏みつけ、ひきつった笑みでこちらを見下ろしていた。
「どこいくの?逃げても無駄よ。誰も助けになんてこないわ」
「ちが……!私はただ」
「そう?だったらほら……今すぐ、死んでくれるよね?」
突然、私の体に馬乗りになったアリサが、私の首へと手をかけた。
まずい、と思った次の瞬間には、彼女の可憐な指先が、信じられないほどの力で、ぎゅううと首を絞めてくる。
「ぐ……」
「あは。苦しい?苦しいかなぁ?そうだよね、絞められてるんだもんねぇ」
じたばたともがいてみるけれど、彼女の力は凄まじく、首から手を離させることができない。
何とか逃げ出そうと頑張る私の指には、どんどん力が入らなくなっていった。
(く、るし……)
必死にもがき続ける私を、彼女は驚くほど静かな瞳で見下していた。
「せっかく手に入れた、私が主役の世界なのよ。……みんなが、私を見てくれる世界に来れたの。それなのに、あんたが邪魔するからいけないんだ。あんたさえいなければ、私はここで、皆から愛されて、幸せになれるんだ」
(や……いや、このままじゃ死んでしまう……!)
震える手を伸ばす。涙でぼやけた視界は真っ暗で――閉じた瞼の裏に、何故か……月明かりの下、バルコニーで笑っていたレイの姿を思い出した。
(レイ……)
このまま私が死んでしまったら、彼は悲しんでくれるだろうか?
怒られてしまう気もする。あんなにも、気をつけるようにいわれていたのに。まんまと罠にかかってしまうなんて。
(ミオも、怒られてしまうでしょうね)
それはちょっと、かわいそうだ。私のミスなのに、何の非もない、いつも一生懸命私を守ってくれているあの子が怒られるのは、嫌だな……。
ぼんやりしてきた意識は、途切れてしまう寸前で。
そんな時、脳裏で響いたのは――アリサとはまた違う、鈴のなるような、軽やかな女性の声だった。
『……諦めないで』
これは、誰の声だろう?
お母様のような、大人の女性の声……。
『お願い、その子を――聖女を、止めてあげて』
「……クソっ。リーエ……!」
首に食い込む制御装置からの激痛と、蹴り飛ばされた全身の痛み。
意識が飛びそうになりながらも、神獣ロロは、小さな体で苔とカビだらけの床をじりじりと這う。
子猫のような体では、全然前に進んでくれない。
神獣の制御装置は確実に効いていて、ぐらぐらと揺れる意識に抗うので精一杯だ。
それでも俺は、前に進まなければならなかった。
契約を交わした可愛い主人が、目の前で殺されそうになっている。守ると誓った相手が、苦しめられている。
それなのに、こんな大切な時に自分は無力で、何の役にも立たない。
「くそ……っ!くそっ!リーエ!ジュリエッタ……!」
リーエの手が、空を掻くように伸ばされて――。
瞬間、しゃらんと涼やかな鈴の音が、耳に届いた。
ジュリエッタを中心にして、懐かしく、温かい気配が現れ、爆発するように急速に、小屋の中に広がっていく。
「これは……女神の、気配?」
「きゃあああ!」
悲鳴をあげたアリサが、弾かれるように後方へと転がる。
ふわりと黄金の光の粒子が舞い踊り、ジュリエッタがゆっくりと起き上がった。輝く粒子は、純粋な神聖力そのものだ。
神聖力は、女神に選ばれた聖女にしか扱うことができないもの。ジュリエッタに神聖力は備わっておらず、彼女自身は聖属性魔法しか使えない。そのはずなのに……。
「……アリサさん。悪いけれど、私、貴女のために死んであげる気はないの」
けほり、と小さく咳をして、ジュリエッタが話し始める。
決して大きな声ではないのに、彼女の唇から発されるその音は、びりびりと周囲の空気を揺らすほどの、強力な神聖力を帯びていた。
「ロロと、私自身を守るために……貴女を止めるわ。アリサさん」
ジュリエッタの新緑色の大きな瞳が、強い輝きを持って開かれる。表面に黄金色の幕がかかり、ちらちらと炎のように揺らめいて見える様は、とても神秘的だった。
「ひっ……」
その瞳に見据えられたアリサが、恐怖の表情で後ずさる。
ゆっくりと立ち上がったジュリエッタの全身が、滲み出る黄金色の神聖力でぼうっと輝いている。
ロロは、それを信じられないような気持ちで見つめていた。
夜の闇を払い、周囲を温かな光で包みこむジュリエッタは、今この時――紛れもなく、聖女そのものだった。




