40.
あの夜、広場全体を包み込んだ青白い魔法陣は、一瞬にしてすべての魔獣を浄化し、消し去った。
規模の大きさから、ロロへと魔力を供給していた私もかなり消耗したようで、私はその後すぐに眠り込んでしまい、気がついたときには、見慣れた寝室にいた。
あとからミオに聞いたところによると、あれだけの魔獣の襲撃があったにも関わらず、奇跡的に死者はでなかったそうだ。
怪我人も軽傷ばかりで、すぐに治療を受けられたと聞き、ほっと胸を撫で下ろした。
一体どうして、あんな街中に突然、魔獣の群れが現れたのか――それについては、王室が中心となって調査が続けられているそうだが、進展がないそうで。
あの日を皮切りに、王都付近で魔獣の目撃情報が急増し、今では、騎士団もかなりの忙しさだという。
「ジュリエッタ様のことは、引き続き僕がお側でお守りいたしますから、どうかご安心ください!」
大きな瞳を険しくして、ミオが気合いたっぷりにそう言ってくれのが、とても嬉しかった。
魔獣の襲撃から1週間もの間。「屋敷できっちり療養するように」、とのお母様の命により、私は、不本意ながら退屈な引きこもり生活を余儀なくされていた。
(こんな軟禁生活も、これで何度目かしら……)
せめて、と、これまた中庭にお茶の席をセッティングしてみたものの……空はどんよりとした雲に覆われていて、気分も重い。
そんな中でも、人型のロロは優雅に足を組み、紅茶を傾けながら新聞を広げていた。
……あまりにも暇なので、ぼんやりとその容姿を観察してみることにする。
さらりと揺れる黒髪も、整い過ぎた顔面も、切れ長の青い瞳も。なんなら、持て余すように組まれた長い足までもが、絵になり過ぎていて、なんとなく憎たらしい。
「ふむ。リーエ」
そんなロロが、新聞をこちらへ差し出してきた。何があったんだろう、とのろのろ動きながら覗き込む。ロロの長い指が指す先に、大きな教会を背にしたアリサさんの写真があった。
「え?アリサさんがどうか……」
その記事には、先日の魔獣の襲撃や、最近の魔獣の被害が増加している状況を根拠として、『聖女アリサは本物なのか?』と煽るような見出しが書かれていた。
教会も王室も、そんな疑惑はない、と否定を示しているが、国民の間では、聖女アリサを疑う声が大きくなっている、と……。
「なんなのこれ……。アリサさんは聖女なんでしょう?ロロ」
「間違いないな。癪ではあるが、あの人間は女神が遣わした聖女だ」
見上げた先、ロロも難しい顔で紙面を見つめている。
「ただ、あの人間のまとう神聖力が弱まっているのも事実だと思う」
「弱まってる?」
「ああ。先日の茶会の時にも、あまりにも弱弱しいとは思っていたが……。本来であれば、聖女が居る場所に魔獣が寄ってくる、などということは考えられない。あの女は、城に滞在しているんだったよな?ならば、王都に魔獣など現れるはずがないんだ」
「それは、聖女の力を恐れてということ?」
「そうだ。だというのに、王都の中に魔獣が現れ、今なお、魔獣たちは王都の近くに出没し続けている……。あの女の神聖力に、何か問題があった、と考えるべきだろう」
ロロの話を聞きながら、ぐしゃりと新聞を握る手に力が籠る。
――女神ロザリンデに遣わされた聖女は、王国を繁栄へと導く。それは当然のものとして、この国の誰もが信じていることだ。
その聖女の力が、弱まるだなんて……そんなこと、あるのだろうか?あるとしたら、どうして……?
「ねぇロロ。どうしてアリサさんの神聖力が弱まっているのか、わかる?」
「ふむ。あの人間は、何度もお前へ敵意を向けていたからな……。神聖力というのは、女神が与えた聖なる力だ。その器たる人間が、もしも良くない考えばかりをめぐらせ、悪事を働くようになれば、あるいは。女神からもたらされた加護が弱まる、という可能性はあるかもしれない」
「それって――」
私のせいってことなのかしら?
その続きは、言葉になる前に、ロロの長い指先に遮られてしまう。彼は、私の唇に指で触れたまま、静かな表情で首を横に振った。
「たとえそうだったとしても。それは、あの人間自身の心のあり様がもたらしたものであり、決してお前のせいなどではない」
(ロロ……)
さらりと黒髪を揺らしたロロは、整った顔でとても優しい笑顔を浮かべてみせた。
「安心しろ。お前が悪いことなど、何もない」
――深夜。静かな暗闇の中で、ふっと目が覚めた。
寝室には、うっすらと月の光が差し込んでいる。もぞもぞと動く気配に視線を向ければ、大きな黒豹のような姿になったロロが、大きなベッドの足元付近で丸くなっていた。
彼を起こさないように注意しつつ、そっとベッドを抜け出す。
窓辺に備え付けられているクッションへと腰掛け、側に置いてあったブランケットを被り、窓越しに月を見上げた。
(今日はあれから、ずっとアリサさんのことや、聖女についてばかり考えてしまって……なんだか疲れてしまったわ)
室内には、微かなロロの寝息と、自分の呼吸音だけが聞こえている。
とても静かな夜で、月の光が優しかった。
その優しさを全身に浴びていると、疲れた脳裏に、ふわふわと浮かび上がってくる姿がある。
レイ、と。唇が、音にならない彼の名前を呼ぶ。
あの夜の騒動では、私が眠り込んでしまったせいで、別れの言葉ひとつすら言えなかった。
この1週間は、レイも魔獣の対応で忙しく過ごしているらしい。……と、ミオから聞いている。
忙しいところを邪魔する勇気はさすがになくて、こちらからも何も連絡しないまま、あちらからも何も連絡がないままになっていた。
たまに。今夜のように、ふと夜中に目が覚めると、静かな空気の中で、あの夜の、あの口づけを思い返す。
思い返して、眠れなくなる。
『君に隠し事ばかりな……こんな僕は、嫌い?』
そう尋ねてきた彼の声が、耳にこびり付いて、忘れられないでいる。
(嫌いよ。大嫌い……)
何度思い返したって、私は同じ答えばかりを思い浮かべる。
触れた唇は、優しかった。溶けてしまいそうなほど、甘い口づけだった。
けれどあれは、あの一回きりの、大切な思い出だ。
……思い出で、あるべきだ。
彼のことを思うならこそ、私は彼と結ばれるべきではないと考えてしまう。
いっそ私が、ヴォルグの――第二王子の元婚約者でなければ、なんて。どうにもならないはずの、馬鹿なことを考えて、落ち込んでしまったりもする。
(しっかりするのよ、ジュリエッタ)
私はユロメア公爵家の娘で、神獣使いだ。
王国の為に、私ができることをすればいい。ただそれだけ。
結婚なんて、家の為になる殿方へ嫁げばいいだけだ。もしかしたら、神獣使いとして、王国の為になる相手に嫁ぐことになるのかもしれない。きっと、お父様や国王陛下が、良い相手を探してくるのだろう。貴族令嬢の結婚というものは、そういうものだ。
(そうよ。不安になったりすることないわ)
見上げた月は、白金色に輝いていて、とても眩しい。
眩しくて、キラキラしていて……レイにそっくりだ、と思う。
静かな夜に、ひとり窓辺で。
ひっそりと彼を想うことくらいは、許されるだろう。
勝手に想うだけならば。その先を望まなければ。……誰にも、迷惑をかけなければ。
これくらいなら、構わないよね。
静かな夜が明けた後。
驚くような訪問者がユロメア公爵邸を訪れることになるなんて……誰も予想できなかっただろう。
「久しぶりだな、ジュリエッタ……!」
久しく見ていない、親しげな笑みを浮かべた彼を前に、私は内心、動揺を隠せなかった。




