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ディーゼル戦艦「大和」〜日独蜜月〜  作者: 扶桑かつみ


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フェイズ27「終戦と講和会議」

 戦況に反して、ドイツの国家財政と戦争経済は着実に破綻しつつあった。

 

 ドイツに国力、財政などに余裕があれば話しは違ってくるのだが、ドイツ経済は戦争前から逼迫していた。

 もともとドイツは、自転車操業状態の自国の国家財政そのものを、侵略による相手国の併合で誤魔化すという乱暴な手法で何とかしているような経済状態のまま総力戦を継続していた。

 

 しかし1943年も半分を折り返した頃、状況は変わりつつあった。

 

 敵を全てなぎ倒し、必要な資源、市場を得た今は、一日も早い終戦が望ましかった。

 それにドイツとしては、仮に苦心惨憺してイギリス本土とソ連奥地を攻略したところで、自分たちが抱えきれない財産であることは十分承知していた。

 ナチスの一部には、本質が何も見えていない例外もいたが、ドイツ人の多くは狂気の中にあっても最低限の常識はわきまえていた。

 

 無論、ドイツ総統アドルフ・ヒトラーにとって、一つの大きな懸念があった。

 ソ連の独裁者ヨシフ・スターリンが、いまだ存命な事だ。

 スターリンが生きている間は、戦いを止めるわけにはいかなかった。

 

 このためドイツは、夏に入ってもウラル山脈方面での攻勢を続け、ヨーロッパにはあまり多くの戦力を戻せないでいた。

 三分の一ほどが英本土上陸に備えて戻ったが、これもウラル山脈方面の鉄道をはじめとする交通インフラが貧弱すぎて、大軍を置いても仕方ないからに他ならない。

 

 要するに、手詰まりなのだ。

 その事は、ヒトラー総統も理性や理屈としては理解していた。

 また彼には勝者としての余裕があり、とある秘密兵器、つまり後の核兵器の開発が成功するまで一旦戦争を終わらせても構わないという目算もあった。

 


 かくして、1943年7月18日に枢軸陣営の首脳はカイロに集った。

 

 日本海軍の大艦隊がカサブランカに凱旋し、ドーバー海峡では熾烈な制空権獲得競争が連日行われている頃、枢軸国の首脳がエジプトのカイロに集まった。

 そしてドイツのヒトラー、日本の近衛文麿、イタリアのムッソリーニの三人は、話し合いの末に戦争の幕引きについての方針を決定する。

 

 会議の結果として7月26日に「カイロ宣言」が出され、いまだ戦い続けているイギリス、ソ連など連合国への事実上の停戦勧告となった。

 

 同宣言では、主に交戦国への停戦と講和会議の開催が提案されていた。

 

 もっとも、話し合いの中で日本の近衛が提案した多くは、ヒトラー、ムッソリーニより否定された上に、もともと日本国内にも反対も多かったため採択には至らなかった。

 

 同宣言は、あくまで戦争終結を目指すことが第一とされた。

 

 なお、以下がカイロ宣言で提唱された共同宣言の要約となる。

 


①戦争終結に向けた各国の努力と平和の希求

②現交戦国に対する過度の戦争賠償の不請求

③戦後の恒久的な安全保障体制の確立


 原文はそれぞれもう少し長い文章だが、ここでは割愛する。

 また「①」の内容には、当然だが戦争状態の停止が盛り込まれている。

 

 しかしこの宣言により、枢軸陣営全体での戦争目的の一端が、表向きではあっても示されることになった。

 また勝者の側から敗者への配慮を見せた宣言が出されたことは、勝利しつつある枢軸陣営の寛容さと取る意見と、実は追いつめられているのは枢軸陣営なのではないかという相反する意見が出てきた。

 

 また、この時は表面化しなかったが、ドイツ、イタリアからは日本が戦争の利益を得すぎているという姿勢が示されていた。

 何しろ日本は、この戦争において、ロシア、チャイナを除く全てのアジアを手にしたも同然と言える状況だったからだ。

 しかもロシア、チャイナは事実上の敗戦国であり、広大なアジア世界の覇権を日本が握ったも同然だと考えられたほどだ。

 

 これに対して近衛は、東のアジア地域はそれぞれの民意による民族自決を基本とすると言うも、かえって二人の独裁者から一層の不満があったとされた。

 そんな「おめでたい事」を行うはずがない、というのが全体主義国家の主催者の一般認識だからだ。

 

 しかしこの時点では、とにかくイギリス、ソ連との講和を成立して戦争を終わらせるのが目的であるため、会議、宣言共にあくまで協調姿勢が心がけられた。

 


 「カイロ宣言」に対して、イギリスのチャーチル首相はすぐには返事といえる発表などを行わなかった。

 イギリスとしては、アメリカがイギリスが倒れて困る状況、枢軸陣営がアメリカを徹底的に避けている状況、そして勝利により発生した枢軸陣営内での不和を利用して、少しでも有利な戦争終結を模索していたからだ。

 

 無論戦況はイギリスにとって大いに不利で、覆せる要素はアメリカの全面参戦以外あり得ない状態だった。

 しかも、早ければ9月にもドイツに加えて日本、イタリア両艦隊に支援されたドイツ軍が、ドーバー海峡を押し渡ると考えられていた。

 もはやイギリス海軍は壊滅状態で、枢軸海軍のために北大西洋の安全はなくなっていた。

 英本土は、事実上の孤立状態だった。

 

 現状ではイギリス本土上空での空の戦いは、守りに徹したイギリス軍の方が空での戦いを有利に運んでいたが、海外から燃料(石油)が入らなくなった現状からすれば、悪あがきの延命措置に過ぎない。

 秋口になれば、実質的にロシアとの戦いを終えた全てのドイツ空軍の攻撃も始まる。

 そして燃料切れを起こしたイギリス軍では、ドイツ軍の蹂躙を防ぐことは不可能だった。

 

 それにアジアの全てを失ったも同然のイギリスも、ドイツ同様に財政的にそろそろ戦争を終わらせねば、勝っても負けても戦後経済が立ち行かなくなるという恐怖が迫っていた。

 

 つまりは、落としどころが肝心であり、カイロ宣言によって次のカードを握っているのはイギリスとなっていた。

 それに、現状がここまで進んだ以上、結果として世界はイギリスの敗北と取るだろうから、今後どうなろうともイギリスの権威、国威の大幅な低下は避けられず、同時に植民地地域の独立も受け入れなくてはならなかった。

 それならば影響力を少しでも残した形がよいと判断された。

 そして、枢軸側が一つの答えを出したこの次の瞬間こそが、イギリスにとっての最大の機会だった。

 


 一方、ソ連の独裁者スターリン書記長は、即日ファシストとの握手は絶対にあり得ないとラジオ放送で声明を発表。

 停戦する気が全くないことを、全世界に対して宣言する。

 イギリスに対しても、カイロ宣言を無視するように強く要請している。

 

 これに対して枢軸側は、現在進行形のソ連に対する地上侵攻の速度を引き上げた。

 ソ連を滅ぼすためというよりも、ソ連に宣言を受諾させるためだ。

 

 また、枢軸諸国には共産主義、ロシアに対する恐れの感情もあり、それを感じるからこそソ連が宣言を拒絶したとも言える。

 だが、ソ連と違ってイギリスは、既に戦争そのもに愛想を尽かしていた。

 ソ連の無茶な行動は、結果としてそのイギリスの背中を政治的に押してしまうことになる。

 

 無論ここには、イギリス、そしてチャーチルにとって色々な目算があった。

 もっとも端的に表現すれば、ソ連に最後の責任を負わせてしまい自分たちが先に戦争から抜ける、という事になるだろう。

 同時に、枢軸側にソ連という足かせを付けたまま、自分たちの講和会議を行うことが目的だった。

 

 結局3日の時間を開けて、イギリスはカイロ宣言の受諾に対して最初の返答を実施。

 そこでイギリスは、幾つかの条件を付けて来る。

 これに枢軸側は、平和を希求する世界の意志を反映するべく停戦と講和を優先するため、大筋においては受け入れ後は講和会議場での議論とする旨をさらに発表。

 

 7月26日のカイロ宣言から11日後の1943年8月6日、イギリスはカイロ宣言を受諾して停戦が実現。

 8月15日にはイギリスのポーツマスにおいて、両者の間に調印が行われ正式な戦闘状態の終了が宣言され、イギリスにとっての第二次世界大戦は呆気なく終了した。

 

 そしてこれに慌てたのがソ連だった。

 

 イギリスが戦争を止めると言うことは、枢軸軍の戦力が全て自分たちに向かってくることを意味しているし、もはやどこにも味方がいなくなったからだ。

 しかし徹底抗戦を宣言した手前、簡単に前言を撤回することもできない。

 そもそも独裁者スターリンは、ヒトラーに対して妥協する気もなかった。

 

 このためソ連と枢軸国の戦争は、その後も続く事になる。

 

 しかし戦争は、既に枢軸側がいつソ連全土を占領するか、という点にしか焦点がなかった。

 スターリンが死ねば状況に変化もあり得るが、枢軸側の爆撃程度で抹殺することはほぼ不可能で、赤軍などのクーデターの可能性もほぼ無くなっている。

 

 枢軸諸国とソ連の戦闘は、スターリンがドイツ軍の十重二十重の包囲下で死んだとされる1944年4月30日、ソ連が政府として実質的に滅亡する1944年5月8日まで続いたが、スターリンが徹底抗戦したという以外であまり意味のない戦いであり、戦争当事者にとっての悲劇だけでしかなかった。

 ドイツ、ソ連双方の化け物戦車による対戦が最後の花を添えたと言われるが、戦いがあったからと言っても何かが変化するわけではなかった。

 

 共産主義最後の牙城が独裁者と共に滅びたという点は、枢軸側としては「なかなか」の幕引きであり、世界史的にも分かりやすいターニングポイント(転換点)となった。

 


 ここでは、ソ連との戦争を除く国家間同士の話を続けよう。

 

 戦争は1939年9月3日に開始されたので、ほぼ丸4年行われた事になる。

 期間としては、第一次世界大戦より数ヶ月短い戦争だった。

 しかしこの時の停戦には、ソビエト連邦ロシアが加わっていなかった。

 このため正式には、部分終戦でしかない。

 ソ連以外の連合国の戦争は終わったが、枢軸諸国にとっては戦争状態は続いたままだった。

 

 このため、ソ連との戦争は第二次世界大戦としてこの時点で切り離して考える場合も存在する。

 ただしソ連は国家として崩壊し、国家としての正式な停戦や降伏が行われなかったため、除外するしかないのが一般的だ。

 (※ソ連については、ロコソフスキー元帥の無条件降伏調印が一応の終戦とされる)

 なお、イギリスを始めとする連合国は、自らの停戦の際にソ連に対しても枢軸諸国との停戦を提案している。

 しかし、裏切られたと考えるようになっていたソ連は、頑なに徹底抗戦を訴え聞く耳を持たなかった。

 


 戦死者の数は、ソ連の死者の数が分かっていないので正確な統計数字を出せなかったが、ソ連以外の参戦国の戦死者の数は第一次世界大戦に比べると少なかった。

 最も戦死者が多いのはドイツの80万人で、二番目のイギリスの3倍以上の数字になる。

 ソ連と激しい戦いを行った為だった。

 しかし、ソ連の死者総数は軍民合わせて1000万人以上に達すると言われているので、戦死者のほとんどがソ連である事は間違いなかった。

 ただしポーランドは、ドイツによる占領後に多数の死者を出している。

 多くは、総力戦の中で配給などが滞る強制収容所における死者とされ、ポーランド軍系捕虜、ソ連軍系捕虜よりも多い一般ポーランド人、ユダヤ人、ロマ(ジプシー)が主となる。

 死者の数はいまだドイツ政府が発表していないので不明だし、その後極めて多くのユダヤ人移民がドイツ、アメリカ間の政治取引の結果アメリカに向けて旅立っている事もあり、正確な数はいまだに把握されていない。

 しかし、死者の総数は数百万人と言われている。

 

 ナチスに最も虐げられたユダヤ人については不確定として割愛するとしても、第一次世界大戦での軍民合わせた死者の総数がおおよそ1500万人程度とされているので、第二次世界大戦での死者の数が先の大戦を上回る可能性の方が高かった。

 

 一方、参戦国自体も、アメリカと中南米諸国以外の殆どの国が参戦している。

 巻き込まれた国が多いが、それでも参戦は参戦だった。

 そして中でも戦争全期間を戦ったのはドイツ、イギリス、日本の3カ国で、戦争自体にも主要な役割を果たした。

 実質この三国とソ連が、戦争の帰趨を決し合ったと言えるだろう。

 もう一つの主要参戦国のイタリアは、国力に比べて与えた影響は限定されている。

 ほぼ最初に降伏したフランスも同様だ。

 帰趨という意味では、世界最大最強のアメリカが参戦しなかった影響は極めて大きかったが、戦争当事者にとって中立国は中立国でしかなかった。

 

 しかし、この中立国の利用を考えたのがイギリスだった。

 

 イギリスは、中立国だったからこそアメリカが講和会議の開催場所に相応しいのではないかと各国に提案。

 そこには、イギリスは呼びかけられた停戦を受け入れたのであり、敗者でないという矜持も含まれていた。

 これに対して枢軸側は、いまだ自分たちが戦争中と言うこともあり、中立国での講和会議は国際慣例的にも受け入れやすかった。

 また、主にドイツのヒトラー総統がイギリスに対して寛容な姿勢を示し、日本、イタリアもアメリカとの関係改善の糸口としてイギリスの提案に前向きな姿勢を示した。

 

 かくして、アメリカのニューヨークで講和会議が開催される運びになる。

 アメリカ側はフィラデルフィア、ボストン、さらにはワシントンでの開催を望んだとも言われるが、枢軸側が敢えてニューヨークを指定したとされる。

 


 「ニューヨーク講和会議」は、1943年11月に開催された。

 

 既に降伏した国を含めて全ての参戦国が会議に参加し、英連邦でも自治以上を得ている地域は呼ばれていた。

 アメリカは無論ホスト国にしてオブザーバーであり、議事進行以外で会議に参加する権利は持たなかった。

 

 アメリカが会議の開催国となったのは、イギリスが講和の条件の一つとして指定してきたからだったが、その意図は明白だった。

 イギリスはアメリカの国力と「友好的関係」を利用して講和会議を有利にし、アメリカは国際政治への復帰を図るのが目的だった。

 これに対して枢軸陣営は、イギリスを講和のテーブルに着かせる事と、自分たちもアメリカとの関係改善が目的でイギリスの条件を呑んでいた。

 

 つまりは、外交としての側面が非常に強かった。

 

 なおこの講和会議には、枢軸陣営が自分たちの進軍の中で独立させていった国々の代表も連れてきていた。

 場合によっては、無理矢理連れてきていた。

 

 ヨーロッパからは、ほぼフランス(元ヴィシー・フランス)だけだったが、これはこれでイギリスが議場外に控えさせていた各自由政府への明確なメッセージとなった。

 また旧ソ連邦の構成国は、ソ連に対するメッセージだった。

 そしてヨーロッパで植民地を保有する各国に対しては、東から順にマレー、インドネシア、ビルマ、そしてインド(国民軍系)が会議にきていた。

 オランダに文句を言わせないため、終戦までにパプアニューギニア島西部に侵攻する念の入りようだった。

 他にも親枢軸政府となったイラク、イラン、サウジアラビア、タイなどが来ていた。

 エジプト代表の姿もあるし、日本が連れてきた満州国首相の姿も見られた。

 フランス植民地については、ヴィシー政府が枢軸側のため、あえて全て手が付けられていなかった。

 

 無論、交戦国であるソ連は除外されている。

 


 講和会議では、枢軸側が先に発表していた「カイロ宣言」が尊重されることになる。

 

 このため過度の戦争賠償の不請求というのが基本路線になるので、会議の争点は枢軸側の占領地、独立させた地域についてが主題となった。

 勢力範囲の線の引き直しこそが、この会議の主な目的と言えただろう。

 

 講和会議での最初の争点は、イギリス連邦及び植民地の問題だった。

 ここでイギリスは、日本が代表を連れてきた地域の代表の属する地域について基本的に独立を認めた。

 しかしインドに対しては、インドが一つになるかそれぞれ別の地域になるかは、自分たちの話し合いで決めるように突き放した。

 

 そうした上で、日本に対しては今回の戦争で占領した地域からの時期を見ての早期の撤退、それぞれの地域の独立の承認を迫ってきた。

 オランダ領だったインドネシアについても同様だった。

 そして日本側が要求を認めるのなら、イギリスは全てを承認する用意があるとした。

 これでは、どちらが勝者か分からない状態だった。

 

 日本としても、独立を建前に自分たちの勢力圏に組み入れる腹案はあったが、先に切り出されたためイニシアチブを失っていた。

 ただし、シンガポール島、ニューギニア東部地域は日本がイギリスから割譲することを認めさせていた。

 他にも、現地の油田、各種鉱山などの利権の多くも日本が得ることになった。

 インド洋のチャゴス諸島も、日本に割譲された。

 

 軍事面での勢力圏も、改めてマラッカ海峡以東が完全な日本の勢力圏と確認されたし、イギリスの勢力はインドから中東にかけてもほとんど排除されることになった。

 

 イギリスが固執したのはスエズ運河の利権だが、これもドイツが賠償として権利(株)の譲渡を受けることになった。

 しかしイギリスは、インドが独立するばかりか、ジブラルタル、マルタ島までも失っているので、スエズに対する固執は交渉を少しでも有利にするためのポーズだと見られていた。

 


 そして枢軸以外の国々、代表は、枢軸側がこの会議に最初に参加した国々以外と取り決めた国土、国境、境界線について認めなくてはならなかった。

 これこそが、戦争状態の停止と共に枢軸陣営が求めた最優先の事項だった。

 

 これに対して自由ポーランド、自由チェコは抗議したが、ポーランドは旧ソ連占領地区を中心にワルシャワ近辺を付けてポーランド民族管区を作り自治を行うとして反論を封じられた。

 チェコは、将来への含みを持たせるも当面はボヘミア・モラヴィア保護領のままとされた。

 スロヴァキアは自らが自主独立を望み、元に戻る事に反対もしていた。

 

 ヴィシー・フランスは、エルザス・ロートリンゲン(=アルザス・ロレーヌ)のドイツへの割譲を改めて認めさせられた。

 しかしフランスの場合は、半年以内の占領地の返還が約束されたうえに、旧フランス植民地の多くをそのまま認められたので何も言えなかった。

 そしてこの会議でフランスは、改めて準枢軸陣営であることが印象づけられてしまう。

 ドイツが、フランスの持つ世界ネットワークを利用するのが目的なのは明白だった。

 

 また、フランスと同じく占領下のベネルクス三国、デンマーク、ノルウェー、ギリシャについては、亡命政府、王族との合流、つまり枢軸陣営への合流を条件に領土及び主権復帰が行われた。

 この辺りの国に対しては、ドイツも早晩占領コストの上昇から軍事的占領が難しいことを理解していたためだ。

 それに戦争が終わった以上、強力な親枢軸政府さえ作れば大きな問題はないという側面も強かった。

 

 これらの結果、ピレネー山脈からウラル山脈までが、ドイツを中心とする巨大なヨーロッパ帝国となる事が確認された。

 ヒトラー率いるドイツは、遂にフランク王国の栄光、そしてローマ帝国の栄光に並んだ事になる。

 

 一方、先に講和した事を後悔したのが中華民国だったが、今更中華民国の声を聞く者は殆ど無かった。

 中華民国は日本を標的にして抗議したが、既に交わされた国家間の条約は覆らないし、もう一度ドイツなどを含めた上で敗者として裁かれる事を伝えられると引き下がざるをえなかった。

 中華民国を庇うと見られていたアメリカも、日本ではなく中華民国に対して市場開放要求を突きつけてくる有様で、中華民国の肩を持つことは無かった。

 

 一方枢軸第二の大国となる日本だが、ソロシアの問題は先の問題とするも、既にバイカル湖以東での領土化・植民地化を進めていた。

 また中華民国との間にも、海南島の割譲が再度確認された。

 そして何より、満州国が国際的に承認を受けたことが日本にとっては大きな成果だと考えられた。

 他にも、先述した通り、主にイギリスからかなりの領土を割譲し、利権を得て、大きな勢力圏を形成する事に成功している。

 

 戦勝国主要三国の中で最も戦争の取り分が少なかったのは、イタリアだった。

 自前の占領地が少なかった事と、東欧は名目でも独立復帰させる方針のため、旧領の回復以外ではアルバニアの占領継続とマルタ島の割譲しか実質的には得られなかった。

 そして日独の計らいで、枢軸国に連なる形で中東の石油採掘権、スエズ運河の株を得たので、それで引き下がるしかなかった。

 


 話しが少し逸れたが、講和会議そのものは領土、境界線、勢力範囲の変更が終わった段階でほとんど終了したと言ってよかった。

 この会議自体は、今までの戦争と同じように戦争状態を終了させ戦争の結果を確認するために開催されたからだ。

 

 しかしここでホスト国のアメリカは、第一次世界大戦のパリ講和会議と同様に、次のステップに進むための国際会議開催を提案する。

 

 中立国の提案に各国から反発もあったが、世界の三割の経済力を持つ国の言葉を無視する事もできず、また枢軸陣営の目的がアメリカとの関係改善にもあるため、とりあえず会議を開催することになった。

 

 議場をフィラデルフィアに移した会議では、ニューヨーク講和会議に参加した国々以外にも、中南米諸国の代表も数多く来ていた。

 無論、アメリカが呼んだものだ。

 

 ここでアメリカは、新たな国際組織とそれに連動した自由貿易体制の枠組み目指す「憲章」の提案を行う。

 また、別の議案として全ての会議参加国による軍備縮小会議の提案も行われた。

 

 ソ連との戦争状態の早期終結を別件としたうえで、以下が提案の概要になる。

 


 1. 今後の領土不拡大

 2. 領土変更における関係国民の意思の尊重

 3. 国民の政治体制選択の権利の尊重

 4. 自由貿易の拡大

 5. 経済協力の発展

 6. 海洋航行の自由

 7. 新たな国際機関の設立

 8. 包括的な軍備縮小会議の開催


 非常に進歩的で、パリ講和会議の時よりも前進した内容となっていた。

 しかし、それだけに反発も強かった。

 

 だが枢軸陣営は、戦争で抱えきれないほどの領土、権益、勢力圏を得ているので、それなりの寛容さは見せていた。

 特に、貿易、経済、海上交通などという面は、「持てる側」となった枢軸陣営にとっても魅力だった。

 

 しかし、国際連盟より強い組織を作るために提言されていた組織強化案については反論も強かった。

 

 一方の日本は、「有色人種に対する人種差別撤廃」と自らの戦争スローガンを盛り込むように修正案を提出した。

 日本の言葉には、他の有色人種国家と中南米諸国のかなりが賛同した。

 日本の行動は、近衛文麿の独断とも言えるパフォーマンスではあったが、発言した内容は日本側の発言の中で最も衝撃力があったと言われる。

 

 案の定、ヨーロッパの主要国が反発。

 旗頭となるドイツも、表向きは苦言を言わざるを得なかった。

 国内の人種差別が依然として強いアメリカからも、強い反発が出た。

 

 しかし、有色人種に対する人種差別撤廃に関しては、日本外交にとってパリ講和会議での雪辱戦でもあり譲れなかった。

 日本の外交関係者も大きな努力を行った。

 

 しかし以前と同じように、ほぼ全てのヨーロッパ諸国、そして今回もアメリカからの反発を受けた。

 アメリカからは、会議を失敗させるために日本が提案したのだという意見までが飛び出した。

 

 その後も会議は続いたが、ソ連との戦争が依然として続き、戦争そのものによって多くの問題が吹き出したため、理想論を前面に出しすぎた「憲章」は結局流れ、経済面に関しては具体化に向けたさらなる協議を行い、その傍らで「国際連盟」を再編成しつつ新たな国際的枠組みについての協議も継続するという形に止まった。

 


 かくして、第二次世界大戦で枢軸陣営は勝利したが、むしろ世界情勢は混沌化したというのが後世の評価で、他国を滅ぼすまで戦うべきだったと言われる所以がここにあった。

 

 そして世界は、その後も迷走を続けることになる。


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