フェイズ22「スターリン最後の賭け」
1942年秋から冬にかけて、戦争の転換を象徴した事象の一つが油田の保持者だった。
イギリスはペルシャのアバダン油田を、ソ連はバクー油田を失った。
確かにイギリスには、まだイギリスの有する油田の7割以上を占めるベネズエラの油田があったし、当時世界の半分近くを産出している産油国のアメリカからの輸入も可能だった。
しかし枢軸側の通商破壊戦によって、大ブリテン島に油を送り届けるタンカーが大きく不足しており、十分供給できなくなっていた。
北大西洋上でUボートにより失われたタンカーも惜しかったが、ペルシャで失ったタンカーの損害も痛かった。
イギリスの不足分を補完できる、各地に亡命していたノルウェーなどのタンカーは、既にイギリスへの直接的な協力を半ば停止していた。
ノルウェーの亡命政府は、既に「戦後」を考えるようになっていたからだ。
ソ連もウラル地域の秘密油田(第二バクー油田=チュメニ油田)があり、それまでの二割程度の採掘は可能だった。
まだ開発が始まったばかりのため、戦争中の開発によって採掘量も順調に伸びていた。
しかし製油施設は不足しており、採掘量の激減も加わって、使える石油資源は年間800万トンを切っていた。
これは他国に比べて機械化、重工業化の遅れている日本が1941年度に使った石油の量よりも少ない数字で、全ての面でソ連の戦争経済を圧迫していた。
(※日本は、東南アジアの油田と、樺太島北部の油田を占領していている。)
しかも、開戦以来常に手元の石油の量を見ながら戦争をしていた枢軸陣営は、敵から奪った油田をたとえ一部でも利用するようになり、ついには余裕を持つまでになっていた。
これも大きな違いだった。
石油不足で喘いでいたイタリア海軍などは、周辺の政治状況の変化も重なって見違えるように元気になっていた。
日本海軍などは、インドネシアの油田地帯を効率的に用いることで、平時の十倍と言われるほどの活動ぶりだった。
そして主要参戦国で一番元気が無くなっていたのが、最も最後に戦争に加わったソビエト連邦だった。
1942年11月、ソビエト連邦ロシアは滅亡の危機に瀕していた。
ソ連史上はおろかロシア民族史上で見ても、タタール(モンゴル帝国)の侵略以来の民族存亡の危機だった。
そしてこの頃のソ連は、どこから触れてよいのか分からないほど疲弊していた。
一年半ほどの戦争で、ソ連赤軍は負けてばかりで、ソ連という国家は、領土と人民(国民)と国富と生産力、そして軍隊を失い続けていた。
並の国家なら、既に降伏していてもおかしくない状況だった。
純戦術的には、同年夏から秋にかけての戦闘の結果、ボルガ川南部からコーカサスにかけての南部全域を喪失していた。
加えて、レニングラード市がこの10月にラトガ湖の補給ルートも遮断され、本当に枢軸軍の包囲下になった。
極東の主要部も既に喪失している。
首都モスクワは、今やドイツ軍の一大集積拠点となり、破壊を免れたクレムリン宮殿もドイツ軍中央軍集団、ドイツ一般親衛隊などの司令部となっていた。
スターリンの執務室を使っているのも、今はドイツ人だ。
モスクワのどこを見ても、赤旗にかわってハーケンクロイツがたなびいている。
現時点での東部戦線(ソ連呼称:西部戦線)の最前線は、レニングラード=モスクワ=ヴォロネジ=ボルゴグラード=アストラハンの東側、つまり今挙げた都市の全てがドイツ側かその包囲下にあった。
全てが重要都市であり、政治、経済、交通、全ての面で致命的な損失だった。
ソ連の潜在工業生産力は、既に開戦時の30%程度に落ちていた。
石油は先に挙げたように既に20%程度だ。
保持している国土に住む国民の数も、開戦前の半数を切っていた。
ソ連の領土は世界の地上の六分の一を占めるほど広大だが、ボルガ川流域を越えてしまえば、そこはまだロシア人にとっても辺境やフロンティアだったからだ。
ソ連赤軍の損害も甚大だった。
現在存在する兵力は、予備、再編中を含めてヨーロッパ24個軍、シベリア2個軍、中央アジア1個軍だった。
一見大きな戦力と思われるかもしれないが、ヨーロッパ正面の陸上兵力数は後方を含めて約250万人程度にしかならない。
依然として3個軍集団を抱えるドイツ東方軍に対して、太刀打ちするのも難しい戦力だった。
軍の数に対して兵力が非常に少ないが、これはソ連赤軍が師団一つ当たりの兵員数を限界以上に減らして、戦略単位となる師団数を水増ししていたからだ。
このためソ連軍1個師団の兵員数は、良好な場合でも8000名程度に落ちていた。
消耗した師団だと、5000名を割り込む場合もざらにあった。
8000名や5000名といえば、師団より一段劣る単位の旅団規模でしかない。
一方枢軸側が東部戦線に投入している兵力の内訳は、ドイツが装甲4個軍、歩兵7個軍、イタリアが2個軍、ルーマニア2個軍、ハンガリー1個軍の合計16個軍となる。
ドイツ軍以外の基本的な戦闘力は赤軍以下だったが、各部隊(師団)の兵力規模がソ連軍より大きいため、兵力総数は300万人を越えている。
ドイツ軍も1個師団当たりの兵力数を減らして師団数を水増ししていたが、ソ連赤軍に比べれば十分な戦闘力を維持していた。
枢軸側の戦力が比較的充実しているのは、イギリス軍のヨーロッパ逆上陸がほぼあり得ないまでの戦況になっていた事と、北アフリカ・中東戦線での勝利により、ドイツ軍はまずソ連を倒すべく、東部戦線に兵力を注ぎ込んでいたからだった。
これまでロンメル将軍の軍団を支えていた自動車化補給師団も、既に東部戦線に移動していた。
イタリア軍の増強も続いている。
イタリア軍は、情勢次第ではもう1個軍を派遣する用意を進めていた。
また、極東に侵攻した日本の関東軍の戦力はおおよそ2個軍に相当し、戦闘力はともかく師団当たりの兵力数が大きいため、ソ連の6個軍並の兵員数を抱えている。
険しい地形が多いため極東での今以上の進撃は難しいが、空襲と合わせるとソ連にとっては十分以上の脅威だった。
空軍戦力も、1941年冬の東部戦線を除いてソ連空軍が圧倒的に不利だった。
東部戦線では数だけは互角近くに揃えられているが、訓練度の差から撃墜率が冗談のような数字になっていた。
枢軸側にとっては、もはや空戦ではなく射的大会の様相を占めていた。
ドイツ空軍が撃墜される確率も、減少の一途を辿っていた。
空軍力そのものについても、ごく限られた精鋭部隊を除いて、もはや落とされるために飛び立つような状況だった。
女性パイロットも、落とされると兵士の士気にも影響するため、余程後方での輸送任務以外からは外されていた。
極東には、もはや空軍と呼べるだけの部隊は存在すらしていなかった。
ついでに言えば、海軍は戦力として数えるべき部隊もないほど絶滅危惧種だった。
既にソビエト連邦という巨木は、根っこも枝も幹から切り離されたに等しい状態だった。
しかも、幹はまだそれなりの太さを保っているが、既に腐りかけていた。
そしてこの頃、ソ連政府の指導体制は風前の灯火だと誰からも言われていた。
独裁者ヨシフ・スターリン及び政府・軍中央の戦争指導は、開戦の時から失敗続きだった。
初戦の情勢を大きく見誤り、首都モスクワも落とされ、ロシアの根幹であるヨーロッパ・ロシア地域の過半も失っていた。
戦争継続のための戦争疎開はある程度成功していたが、元々の生産拠点をほとんど全て失った失点は大きかった。
モスクワ東方のゴーリキー市の戦車工場も、西部から疎開した工場だった。
ウラルやボルガ川奥地への工場、人員の疎開作戦はそれなりに成功していたが、それも程度問題だった。
本来の主要工業地帯を失った失点は大きく、同時に首都モスクワという交通、情報、そして政治の中心地を失った失点は限りなく大きかった。
イギリスからの支援や援助はもう幻でしかなく、何度か交渉したアメリカは、正当な貿易、しかも黄金か資源のバーターによる兵器以外の物産の貿易なら応じる、という以上の言葉は出てこなかった。
それ以前の問題として、多くの地域を失ったソ連には、アメリカとの貿易ルートがほとんど存在しなかった。
端的に言えば、アメリカからやって来た船が横付けすべき主要鉄道とつながっている港が、既にソ連の手になかったのだ。
そして、軍隊、戦時生産という数字以外で深刻だったのが、国民の士気の面だった。
首都モスクワが落ちて奪回にも失敗すると、国民の士気は目に見えて落ちた。
逆に反共産主義運動は活発になり、枢軸軍占領地では殆どの者が率先して枢軸軍に協力した。
残された国土においても、独裁者ヨシフ・スターリン、政府、軍中央、共産党の全てに対して、国民の信頼はもはや危険値を示していた。
政治委員、NKVDによる強力な締め付けと監視で何とか組織、国家、軍隊は維持されていたが、それも限界に近づきつつあった。
勝っていれば「多少」の押さえ付けもいいのだが、とにかく負け続きなのが痛かった。
祖国の防衛、侵略者の撃退、ファシストの打倒など簡単な煽り文句では、もう限界だった。
先のレニングラード方面への攻勢でも、いちおうは友軍である督戦隊を攻撃してドイツ軍に降伏した例が多数見られたほどだった。
精鋭部隊ですら、そうした状態なのだ。
少数民族の反発や離反も、時間と共に強まっていた。
ドイツの占領地域でも、共産主義体制が不利になればなるほど抵抗運動は下火となり、ドイツなど枢軸陣営への協力が増えていた。
ソ連が勢いを盛り返さないと考えられるようになると、誰もが共産主義を見放していったのだ。
ソ連側から送り込まれた工作員も、住民達が競ってドイツ軍につき出していた。
無論、ドイツの一般親衛隊の占領地統治は酷いのだが、とにかく共産主義が無くなることを民衆が望んでいた。
「市民」より「農奴」の方がマシだと言う意見が、早期に占領された地域の一般的民意ですらあった。
一般親衛隊は、ロシア正教まで禁じてはいないからだ。
以上のような情勢ながら、ソ連中央では共産主義としては全体主義に屈するわけにはいかなかった。
別の、しかも宿敵といえるイデオロギーに屈することは、自らの体制の崩壊と敗北を意味するからだ。
そして冬こそが、ロシア人の軍隊にとって好機だった。
それに夏になれば、もう一度ドイツ軍の大規模な攻勢を受けて終わりというのはもう見えているので、とにかく相手戦力の消耗を第一目標とした冬季反攻が是非とも必要だと、この当時のソ連指導部では考えられていた。
ここでは、自分たちの軍がさらに半減しても、相手に同じだけの打撃を与えれば、ドイツ軍の夏季攻勢が不可能になるかもしれないと、半ば希望的観測の上で考えられていた。
そして赤軍内で練られた作戦は、ドイツ軍ではなくドイツ軍以外の弱い軍を突破点にして限定的な包囲殲滅戦を行い、敵野戦軍の撃破と戦線の整理を行なおうというものだった。
幸いというべきか、戦線はかなりの部分で伸びたままなので、中部から南部の半ばにかけて多数の東欧系とイタリア軍が配備されていた。
しかも秋のドイツ軍は、冬に向けての再配置と再編成がまだ続いている状態だった。
しかしロコソフスキー元帥らが作成した作戦の健全性は、スターリンと政府の一部の言葉によって乱され、より多くの結果と果実を得ようと言う向きに修正されていった。
そうした姿は、まるで賭け事の負けが込んだ賭博師の姿のようだった。
1942年11月19日、ソ連軍はヴォロネジからボルゴグラード北西間での大規模な冬季反攻を開始した。
出来る限り機械化され戦力も充実させた赤軍5個軍が、貧弱なルーマニア軍とイタリア軍が守備する前線の継ぎ目に対して、「カチューシャ」とあだ名された簡易ロケット砲多数による猛烈な弾幕を浴びせかけ、「T-34」戦車の群を先鋒として呆気なく戦線を突破、一気に南西方向に突進した。
目標は、黒海東部沿岸のロストフ市。
コーカサスとウクライナの間でドイツ軍を分断し、最終的にはコーカサスのドイツ軍を包囲殲滅するのが戦略目標だった。
投入された軍は、第1親衛軍、第5戦車軍などソ連赤軍最後の総予備であり、訓練の行き届いた最精鋭部隊ばかりだった。
他の部隊では、既に迅速で流動的な作戦が取れなかったからだ。
このため同戦闘は、「スターリン最後の賭け」とも言われる。
ソ連軍の攻撃は、当初は快調だった。
ソ連軍が突破相手に選んだ前線のルーマニア軍、イタリア軍は「スターリンのオルガン」(=「カチューシャ」)の一斉射撃で壊乱し、「T-34」戦車を見ると算を乱して逃げ散り、苦もなく2個軍団を包囲することにも成功した。
ドイツ軍も同盟軍の戦闘力の低さを認識して、なるべく部隊密度が高くなるように前線を作っていたが、この時ドイツ人の努力は報われることは無かった。
戦線を突破した赤軍は快調な進撃を続け、ドン川も強引に渡河。
わずか1週間の進撃で、赤軍先鋒の機械化偵察隊は300キロ近くも前進した。
持ち前の機動力を発揮したT-34に対しては、「無敵のT-34」という言葉すら生まれたほどだった。
あとは、ドネツ川を渡り、炭田のボタ山だらけのドネツ丘陵を越えれば、そこはアゾフ海、目標のロストフだった。
しかしドイツ軍の動きは、ソ連軍の予想よりも早くまた狡猾だった。
しかもソ連軍が目標とした戦略拠点の幾つかには、精強なドイツ軍部隊が急ぎ移動してきており、補給線を延ばせないソ連軍は日に日に侵攻を先細りにしていった。
ドネツ川にも、重厚な防御陣地が構築されていった。
ゲーリング元帥が面子にかけて動かしたドイツ空軍による、反撃に向けた行動も早かった。
ドイツ軍の反撃は、ソ連軍突出部から見て北側のグーデリアン上級大将と南側のマンシュタイン上級大将による、ドイツ軍伝統の機動力を駆使した反攻作戦となった。
この時のソ連軍の攻勢に対しては、当初ヒトラー総統は現地部隊に陣地固守を命令しようとしたが、必ず奪回できるという中央、現地双方からの強い言葉に説得され、現地部隊への機動へ許可を出していた。
これは、今までのドイツ軍の戦いが常に機動力を駆使して勝利したことへの信頼と、これまでの勝利の余裕がもたらした決断だとも言われた。
ドイツ側が追いつめられていたら、過酷なそして柔軟性に欠けた命令が出ていたという説がある。
ヒトラーとスターリンは写し鏡だからだというのが、その根拠だった。
独裁者の胸の内はともかく、態勢を立て直して以後のドイツ軍の反撃は際だっていた。
ソ連軍は、目の前で行われるドイツ軍の移動を自分たちの奇襲的突破が成功しつつある証だと考え、尚一層の前進と攻撃を実施した。
なけなしの増援部隊までが、戦果拡大のために投入された。
少なくとも、前線での見た目には、ソ連軍が勝ちつつあるように感じられた。
しかし事態は、ソ連軍にとって最悪の結末を迎える。
12月23日、ロシア正教以外のクリスマスを翌々日に控えたその日、激しく巧妙な機動を繰り返していたドイツ軍は一斉に反撃に転じた。
ドイツ東方軍の反攻作戦、「冬の暴風」の発動だった。
ソ連軍の最前線だったポポフ将軍の戦車軍団の先鋒は、ロストフまで残り約100キロの行程だったが、気が付いたときにはドイツ軍の巧みな対戦車陣地の中であり、後方はどこからともなく出現して急進撃してきたドイツ軍装甲部隊に遮断されていた。
突出部を支えていたソ連赤軍各部隊も、ドイツ空軍の強力な支援を受けたドイツ第4装甲軍の総攻撃を受け、耐えきれなくなって各方面で瓦解。
今回の作戦の為の出撃拠点、兵站拠点にも猛爆撃が実施され、根本もへし折られた。
そして歩兵部隊のドイツ第6軍が最後の蓋を閉じる形で、ロストフを目指したソ連軍部隊のほとんどを二重包囲の形で包囲下とした。
この時のドイツ軍主力戦車は、強力な火砲を装備した「III号」「IV号」の改良型と、一部が陣地防衛に適した新兵器の「III号突撃砲」で、依然として個々の性能では「T-34」に劣っている面が多かった。
だが、集団としてのドイツ機甲部隊の戦闘力は懸絶していた。
この時のあまりに見事な機動戦は、後の戦術教本に載せられたほどだった。
鉄の檻に閉じこめられたソ連軍は5個軍、62個師団、約80万人で、この時点では唯一、そして恐らく最後の大戦車集団だった。
しかも、ソ連赤軍全体で見ても兵力数で3分の1、戦闘力では実質半分を占める兵力だった。
そしてソ連軍の進撃とドイツ軍の反撃が重なった結果発生した所謂「ドネツ大戦車戦」は、史上最大の戦車戦と言われる戦いへと発展していった。
戦闘に参加した戦車数は数百両にも及び、広い平原で互いに機動戦の限りを尽くして戦った。
そこでソ連赤軍は破れ、そして機甲戦力を消耗した末に完全包囲された。
その後も包囲されたソ連軍は、内と外から何度も反撃と包囲網突破を試みたが、もともと武器弾薬、そして燃料が十分ではなかったため、内側は燃料と弾薬がすぐにも底をついた。
そして、機械化の進んだ部隊が補給が途絶えると、戦闘力を大幅に低下させてしまうという典型例が現出した。
しかも、救いの手を差し伸べるべきソ連空軍には、既に空中補給できるような輸送機もなかった。
外から包囲を開くべき部隊は、機甲戦力に欠けていた。
既にソ連赤軍全体が、今回の反撃作戦で出せる限りの機甲戦力を出していたからだ。
周辺での戦闘は、2月3日に絶望的抵抗を行ったソ連第1親衛軍の降伏をもって終わり、ソ連軍最後の精鋭部隊がここに潰えることになった。
しかもドイツ軍の反撃、そして攻勢は、ここからが始まりだった。
ソ連軍の南部戦線には、ポッカリと兵力の隙間ができあがった。
精鋭5個軍を失った穴は大きく、ソ連赤軍に埋めるだけの戦力はもはやなかった。
その大きな隙を、ドイツ軍は見逃さなかった。
3月4日に開始されたドイツ軍の南部での攻勢は、ドイツ軍伝統とすら言えるようになった電撃戦の基本とも言える戦いだった。
ドイツ軍は、ヴォロネジ方面の正面からの機甲突破部隊を半ば囮として、カスピ海沿岸のカザフステップをボルガ川東岸から一気に駆け上がり、サラトフの奪取に成功。
補給線を絶たれた現地ソ連軍部隊は一斉に中部方面に退却するも、後退時のスキを正面のドイツ軍部隊に突かれ前線が瓦解。
一部が包囲殲滅され、残りの部隊も壊乱して大損害を受けた上に大幅な後退を余儀なくされた。
ソ連の南部戦線は総崩れであり、反撃作戦の失敗も合わせて再起不能なまでの打撃を受けることになった。
ソ連全軍で見ても、この時点での3分の1の部隊数(約8個軍)を失い、もはや戦線維持すら難しい状況だった。
しかも陥落したサラトフは、臨時首都のクィビシェフまでボルガ川を遡ること400キロの距離だった。
加えてボルガ川流域のサラトフ失陥は、ボルガ川中流域西部のプリボルガ高地での防御戦を予定していたソ連赤軍にとって大きな失点でもあった。
さらに言えば、ボルガ川からウラル山脈までの間は平原が広がっているため、運動戦、機甲戦に適しており、防御戦には極めて不利な場所でもあった。
現地は鉄道網の未熟から補給線の確保が難しいので致命傷ではなかったが、現状の兵力から考えると不安要素が一層増えたことは間違いなかった。
それでもソ連指導部が臨時首都をウラル山脈にまで再び疎開させなかったのは、今以上の士気の崩壊を危惧したからだった。
またドイツ軍も、反攻作戦に続く攻勢で息切れをしており、再び泥の海に覆われたロシアの大地は、数ヶ月の強制的な安息を迎える事になる。
しかしヨーロッパには、別の脅威が迫りつつあった。




