22.柳井早苗
決勝戦の試合前日も光莉の家に私たちは集まった。これでも受験生だから、応援に忙しい次の日の分もと、みんなで勉強会をしている。私たちが通っている学校が甲子園の決勝まで進むのは素晴らしいことだけど受験も重要だ。またこうして光莉の御自宅に集まるのが当たり前になったので、母がいろいろ悩んでいたのも申し訳ない。もっと申し訳ないのはいつもお世話になっている光莉のご両親なので、私含め皆できるだけ行儀よくしている。ケータリングで頼んだピザを食べながら、おしゃべりを楽しむ。
「いよいよ明日が決勝戦ね。ここまできたら優勝して欲しいわね」
「ほんまやな」
「で、いずれにしても明日で試合は終りやん。どうするの、綾?」
「えっ、まあ。約束通りにしようかな……と」
少しうつむいているけど、少し赤くなった顔が見えている。
「甲子園で投げられたら、だっけ? まだ点取られてないもんね」
「これでアヤも彼氏持ちやな。受験大丈夫?」
確かに環の指摘通りね。遠山君は受験する必要なさそうだけど私たちには受験が迫ってきている。
「今まで誰とも付き合ったことないからわからへんけど……頑張る」
「それがあかんねんて。中学から程よく男慣れしとかなあかんねん。まあ遠山かて10年ぐらい我慢しとったんやから半年ぐらい大丈夫やろ」
環はこれまで遠山君と一度も話したことがないはずなのに、よく呼び捨てできるわね。
『それでは夏の甲子園の話題です』
私たちはつけっぱなしになっていたテレビを振り返った。
『熱戦が続く甲子園ですが、本日は明日の決勝戦に備えた休養日です。千葉県鷹大柏高校と京都府西洛大南高校、両校の健闘に期待したいですね』
『そうですね。ここまで勝ち上がってきた両校、とてもいい試合になるんじゃないでしょうか』
「そんなにいい試合にはならないと思うわ」
テレビに向かって私は断言した。
「またフラグ?」
「いや事実よ。この人もわかって言っていると思うわ」
両校とも攻撃力も野手の守備もとてもレベルが高い。監督の采配も素晴らしいし、選手たちのメンタルも安定していると思う。そうでなければ甲子園のファイナリストには慣れない。
でも投手力には圧倒的な差がある。いや語弊があった。エースだけなら大差は無いかもしれないけれど、三番手までの厚みが全然違う。2年生エースの宮本君は明らかに酷使されており、準決勝でも疲れは隠せなかった。地方大会からほぼ全試合で投げ、マウンドを降りた後もショートを守っている。休養日を1日挟んだぐらいではそこまでの回復は見込めない。それに対してウチはが3枚のエース格が分担しているので蓄積疲労が全然違う。
「鷹大柏は強いわ。もし初戦で当たってたら負けていたかもしれないわね。でも継戦能力に圧倒的な違いがあるの。明日なら8割方こちらが勝つわ」
また始まった、そんな感情がこもった視線を光莉から感じるけど、イチ高校野球ファンとして私は断言しておかなければならないと思った。
「それでも2割は負けるんや」
「そうね。勝負事に絶対は無いわ」
『では準決勝までの両校のハイライトをご覧ください』
そうして始まったハイライト、いきなり綾の顔がアップでうつった。
「アヤ?」
流石の環も驚いた様子だったが、すぐに画角が広くなり私たち4人並んで映った。すぐに試合の動画に切り替わったけれど、私たちは誰も声を出せなかった。
翌朝、私たちは決められた時間に学校に集合し、バスに乗って甲子園へと向かった。一年の時も甲子園に行く時はそうだった。今年も一回戦からこれ何度も乗った。でも今日の試合には勝ってももう次はない。3年生の私たちがこのバスに乗るのは今日が最後だ。楽しかったわね。
自宅から程よい距離にあって、偏差値のレベルが私と合っていて、野球が強い学校。親は公立に行って欲しかったみたいだけど、この高校にしてよかった。在校生として夏の甲子園の決勝をアルプススタンドで応援できるなんてとても素晴らしいことだ。
気がつけば私の隣の光莉はもう寝ていた。昨晩は遅くまでパジャマトークをしていた。学校からの立地が良すぎる光莉の家で、今後も勉強会をすることはあると思うけど。流石にもう宿泊することはないだろう。とても楽しかった。いや卒業後にはまた集まる機会があるだろうし、卒業旅行もいいかもしれない。そう考えながら私もいつの間にか寝ていた。
大きな駐車場で降りて、そこからは徒歩。しばらく歩くと大きな建造物が見えて来る。これまでに何度も見たけれど、今年ほどここに来たことは無い。阪神甲子園球場。今日はどんな試合が見れるのか、そして私が断言したように、勝って優勝することができるのか。とても楽しみだ。
『6番、ピッチャー、久慈君』
スタメン発表の時にアルプススタンドからどよめきが起きた。久慈君は準決勝でも先発し6回を投げている。準決勝、決勝と連続して先発するのは私の予想外だった。
「確かに攻撃力だけで考えたら一番強いスタメンになるわね。でもこれはどうかしら? 京都大会の決勝みたいに細かく継投するつもりなのかしら? でも遠山君は出て来るんじゃないかしら」
出てくれば良いわね、という思いを込めて私は綾に言った。綾の彼氏候補というのもあるけれど、チームのためにもそうした方が良いと私は思う。この試合、じゃんけんで勝てたのか後攻なので少し有利。こうして少しずつ有利なことを積み上げるのが勝ち方のひとつ。出会いがしらの一発にかけるよりも現実的だと思う。
「それではみなさん、泣いても笑っても今日が最後の試合です。今日も熱い応援、よろしくお願いします!」
応援団長の大きな声がアルプススタンドに響く。言葉が終わるとともに私が手を叩くと周囲にも拍手が広がる。試合に出る選手はもちろん。ベンチやスタンドにいる野球部員も、応援団も、吹奏楽部も、私たち普通の生徒も、父兄の方々も、おそらくOBの方々も。みんなで戦っている。おそらくむこうのスタンドでも同じことが起きているだろう。最後に笑って帰れるのは1校だけ。ウチが4000校のうち無敗で夏を終えるただひとつの高校になって欲しい。そんなことを今、願うことができるだけでもなんて贅沢なことなのだろう。
試合が始まった。久慈君の渾身の投球を新浜君が受ける。王子君が地方大会では何試合か、甲子園でも大勢がついた試合では試合にでているけれど、ウチで一番疲弊しているのは新浜君よね。3人のいずれも特徴の違う投手を操るのは大変だと思う。球種はもちろん性格も違うだろうし。久慈君が相手の先頭打者を三振に仕留めると、私たちは大きく手を叩いた。攻撃側はブラバンでの応援などがあるが、守備側での応援は拍手や声掛けに限られる。
2番バッターも三振。3番バッターの当たりは外野に飛ぶ。
「うわっ」
光莉が思わず声を上げるがこれは問題ないフライ。蜂谷君が守備位置より少し下がって捕球しスリーアウト。
「これはあまり体力を考えていないピッチングね。久慈君は次の回も出るかどうかわからないわ。ほら遠山君があそこで投球練習してる」
久慈君はライトに残すことができるのでオープナー、あるいはショートスターターの可能性がある。その一方で遠山君の投球練習がブラフという可能性もある。相手の4番バッターはどちらの投手を相手にするのかわからないだろう。でもそんなことはひとまずおいて、ウチの応援を楽しもう。この大会、打順はほぼ固定されている。
「みなさん蜂谷に応援をお願いします」
漢字ではなく「行け行けハチタニ」と大きく書かれている紙がスタンドに向けられる。吹奏楽部がアフリカンシンフォニーを奏で、その合間に私たちは「行け行けハチタニ」と声援を合わせる。この一体感は勝ち上がっている学校だからこそ得られるものだと思う。私たちが最初に応援に参加した時は申し訳ないけれど結構バラバラだった。蜂谷君は明らかに待球に入っている。球数を投げさせれば良し、四球で塁に出れればなお良しと言ったところね。7球目、蜂谷君が体勢を崩しながらも当ててファール。今のは多分落ちる球。相手エース宮本君の決め球のシンカー。
それでも当てることができるのは素晴らしい。それは遠山君という抜群のシンカーの使い手がいるからかしら? でも上下違うからあまり参考にならない? まあそれはどうでもいいわ。9球目を蜂谷君は三振した。周囲からため息が出るけれど、宮本君に9球投げさせれば作戦的には成功でしょう。
南波君は8球目で三振したけれど、鹿苑寺君は2球目を右中間に運んで2塁打。おそらく宮本君が待球作戦を見抜いてカウントを取りにいったところを見逃さなかったってことでしょう。良いわ、実に良い。私は隣の光莉とハイタッチしながらこの後の展開を考えた。次は4番の権藤君。2アウトランナー2塁だから打たせてもいいし、粘らせてもいい。私なら粘らせるわね。初球から全力投球しかできない状況だもの。
権藤君は2球目を外野に飛ばした。抜ければ確実に1点入るけれどセンターがランニングキャッチして無得点。こうやってプレッシャーをかけるのも良いわね。
「絶対1点入ったて思たわ」
「相手の守備固いやん」
「まあ初回で宮本君に21球投げさせたからこちらのペースね。継投勝負だとウチが圧倒的に有利よ。あら?」
『西洛大付属南高校、選手の交代並びに守備の変更をお知らせ致します』
場内アナウンスが流れた。久慈君は初回限定で2回から遠山君か。私は遠山君と面識ないけど、綾の彼氏(候補)と知っているからやっぱり思い入れがあるわね。さて鷹大柏はどんな遠山君対策をしているのかしら? 私には選手に丸投げするより有効な作戦を思いつけない。待球しても四球はないし、球数を投げさせたところで市川君がいるし、ライトには久慈君が残っている。遠山君は最低3イニングを投げ切ればゲームプラン通りと言える。
有効な作戦を思いつかなければそこで思考停止しても良い私と違って、鷹大柏の指導者や選手たちは頭を振り絞ったはずだけどどうかしら? この回の先頭バッターの4番は最初の2球を見たけれどいずれもストライク。そして3球目で三振。どうやら今日も遠山君の状態は悪くない。待っていても四球はおろか、打ちごろの球が来る前に追い込まれて、そして豊富な決め球のどれかで三振。球種が多いから正解が一つしかない狙い球を絞るよりも、球速はそれほどないから、来た球を打つしかないと思う。それで打てるかは知らないけれど。
5番は初球をショートライナー。正面だったけど当たりは悪く無かった。もしかすると対策ができているのかもしれない。
6番はファーストゴロ。遠山君がカバーに入ってチェンジ。2回表を3人で終わらせた。
「見てるだけでめちゃ疲れるわ」
「早よ点入らへんかな」
「そうね。どちらかというと焦っているのは相手だから、このままでいいと思うわ」
2回の裏も露骨な待球。多分ランナーが出るまで粘るように指示が行ってるのだと思う。5~7番で三者凡退だけど、宮本君に17球投げさせた。ここまでで既に33球。フルカウントもあったからコントロールも乱しつつある。可哀想だけどそろそろ継投も考えた方が良いわね。ただ鷹大柏のベンチに動きはない。宮本君のエースのプライドをくすぐって奮起させるのね。4回あたりの継投を考えているのかしら?
3回表、遠山君はわずか6球で3人続けて内野ゴロに打ち取る。2人目の早い打球を芝原君が一度グラブからこぼしたけれど、落ち着いて一塁に投げて間に合った。ウチは来年は弱いと言われているけれど、芝原君が柱になれば結構いいところまで行くかもしれない。そして相手の2番手投手が投球練習を始めた。宮本君の限界を探っているのかもしれない。
「そろそろ点を入れて欲しい」
「ほんま同点は怖いわ」
「ビハインド、負けてる方が怖いわよ?」
「そりゃそうだけど」
そう言ってると、3回裏、先頭の新浜君が四球で塁に出た。これは宮本君が消耗したからだけど、2番手が投げ始めたからかもしれない。野球はどこで流れが変わるかわからないわよね。そう、私は野球に流れがあると思っている派。次の遠山君は初球からバントの構え。前進守備が控え目なのは遠山君が甲子園の初戦でバスターを決めたことを知っているからだろう。
遠山君もボール球には手を出さないけれど、追い込まれてからバントを決めた。スリーバントが怖くないって言うのは大きな武器よね。初球できっちり送りバントされるのも嫌だけど、こうやって球数を使わさせられ、そのたびにダッシュもさせられ、追い込んだのにバントされるのも嫌よね。私があちらの監督ならこのシーンで投手交代かしら? まだ2番手の肩ができているかはわからないけれど。
打順がトップに還って蜂谷君。ここは粘るだろうと思ったけれど初球をバントした。マウンドから宮本君が降りて打球を処理しようとしたけれど、バランスを崩してどこにも投げられない。一死三塁一塁。ここで鷹大柏が投手を変えてきた。この判断がどう出るかは私にもわからない。
こちらのアルプススタンドは凄い盛り上がり。
「南波!、南波!、南波!、南波!」
さあどうする? スクイズ? その前に蜂谷君を走らせて三塁二塁にする? 変わったばかりだから強攻されるのも嫌だろう。ヒットエンドランで仮に失敗してもゲッツー崩れで1点取るという方法もある。
初球に蜂谷君が盗塁を決めた。キャッチャーが二塁に投げたけれど、ピッチャーがそれをカットした。もし新浜君がダブルスチールを狙おうとしたのであればランダウンに持ち込もうとしたのだろう。でも新浜君がすぐに三塁に戻ったので投げなかった。字面で書くとそういうことだけど、鷹大柏はピッチャーに守備機会を与えたのではないかしら? 二盗はしかたがないけど点はやりたくない。ついでにこのイニングの途中から入ったばかりのピッチャーの体を動かしたい。これは十分に考えられる。結構奥が深いわね。でも一死三塁二塁で一塁が空いた。カウントもボール先行。
相変わらずスクイズも犠牲フライもできる。ランナーが進んで二塁でのフォースプレイが無くなった分、ウチが有利なのは間違いない。どうやらこの回が序盤のヤマになりそう。ここを無得点で抑えられたら相手のピッチャーを楽にさせてしまう。そんなことはウチの監督も選手も百も承知でしょうけど。
「南波!、南波!、南波!、南波!」
いろいろ考えるのも楽しいけれど、こうやってみんなで名前を連呼しているだけでも楽しい。ああ、この高校を選んで良かったわ。
南波君は3-1のバッティングカウントから強攻を選んだ。ライトフライだと思ったのだけどライトが全力で走っている。ラインドライブがかかっているのかしら? そうそう、アメリカだとラインドライブはライナーのことなんだって。ともかく打球はライト線に落ちた。一塁塁審のジェスチャーはフェア。長打になる。新浜君はもちろん、二塁にいた蜂谷君も悠々とホームベースを踏む。南波君も二塁ベースを蹴る。
2点先制した。ライトは強肩。さらにここからクリーンナップ。3塁チャレンジする必要はないと思うのだけど結果はセーフ。私にはわからない勝算があったのだろう。これで犠牲フライでも単打でも追加点が取れる。
もちろん三塁側アルプススタンドは大盛り上がりだ。吹奏楽部がファンファーレを奏でる。南波君が三塁キャンバス上でスタンドに向けてガッツポーズを取る。
「万歳、万歳、万歳」
立ち上がって叫びながら両手を挙げる。このアホみたいな行為が楽しすぎる。さてこれで2点入って一死三塁。打順は3番の鹿苑寺君。この後どうなるのかしら。
鹿苑寺君はストレートの四球。権藤君がフェンス直撃のツーベースで追加点。さらに2点が入る。アウトカウントはまだひとつしか点灯していない。
吹奏楽部は先ほどからとても忙しそう。でも彼らも笑っているし、周りのみんなも笑っている。もちろん私も。
ひとしきり笑い、拍手をした後に私たちは席に座った。
「野球って残酷やな」
ついさっきまで狂喜していたとは思えない冷静な声で光莉がつぶやいた。
「そうね。スポーツはすべて残酷だと思うわ。でも球技の方が格闘技よりは見ていて楽ね」
山條君がバットを置いて一塁に歩いた。
遠山君は8回表まで投げ、四死球0、エラーでの出塁1。打たれたヒットは3本。いずれも単打、しかも散発なので無失点。でも8回裏には代打が出てきたので遠山君の出番は終わった。7回から市川君が練習していたので予定通りなのだろう。
間に光莉がいるのに、綾の大きなため息が聞こえてきた。
私は光莉に覆いかぶさるように綾に話しかけた。
「まだ試合は終わってないわよ?」
「そうね」
野球は残酷なスポーツだ。でも流石にここまで無得点のチームが最終回だけで13点取れるとは思えない。ましてや準決勝に投げずに体調万全の市川君。でも絶対はない。あっ、リードが14点に広がった。
応援団が「あと〇人のコールは止めてください」というもう見慣れたカードを上げている。市川君がふたり目のバッターを三振に取ったけれど、私たちは拍手だけにとどめた。9回表、二死走者無し。そして14点のリード。光莉が言うように随分残酷なスポーツだ。最後のバッターが打った球が高く高く上がった。バッターが走り出したけれど、私はその高くあがり続けるボールを見続けた。
「綺麗」
私は思わずつぶやいた。なんて真っ直ぐに上がるんだろう。試合前のノックでも見たことがない垂直のフライ。でも結局重力には逆らえず真下へと落ちていく。変な回転もかかっていないようだ。あのまま落ちずに上へ上へと飛び続ければ良かったのに。私は心からそう思った。
ホームベース上で新浜君が構えたキャッチャーミットにウイニングボールが収まった。
本編はこれで完結。後はエピローグです。




