19.市川秋
「イチ、今日めっちゃええボール来てんで」
初回3人で抑えてベンチに戻る時、新浜が声をかけて来る。
「前の試合投げてないから肩が軽いわ」
俺も笑顔で言い返す。
甲子園での先発は1回戦以来。その初戦で俺は先制のスリーランホームランを打たれている。2回戦は6回まで久慈が1失点、3回戦は遠山が同じく6回までを無失点で抑えている。久慈の1失点は序盤で大差をつけた状況からの最小失点だから全然問題ない。あのふたりに比べて1番を背負っている俺がこれでは示しがつかない。特に遠山は地方大会から無失点のはず。
それにしても遠山な。去年の今頃は下から投げるようになるとは全然思って無かった。そしてこんなに上手く行くとも。別にあいつの努力を否定しようとか、妬ましいとかいうことは全然ない。頼りになるチームメイトが増えるのはとてもいいことだ。
一回裏のウチの攻撃、先頭打者の蜂谷がセンター前に打って塁に出た。そして南波への初球で二塁に逃げる。その後南波が上手く転がして一死三塁。鹿苑寺のライトフライはほぼ定位置だったが中継が乱れたので、蜂谷はスライディングすることなくホームを踏み先取点を手に入れた。俺はベンチで大きく手を叩いた。野手陣も本当に頼りになる。一回戦でも最初から打ってくれたら楽だったけれど、勝ったからこの準々決勝で投げることができているわけで全然文句はない。よく逆転してくれたと思う。
この後、もし権藤が塁に出たらネクストバッターズサークルに行く必要があるため、久慈がベンチ内で柔軟をしている。
1年の頃から、俺と久慈のふたりがいるから俺たちの代の投手陣は盤石だと言われていた。厳しい日程をお互いに分け合うことができるし、俺が崩れても久慈が、久慈が崩れても俺がゲームを壊さずに流れを変えることができる。どちらも速球を武器にするとは言え、右と左というわかりやすい違いがあって持ち球も違う。こうした高いレベルで競い合うことができる仲間がいることはとてもいいこと。エースの座を譲りたくないという俺なりのエゴは当然あるけれど、チーム内に健全な競争がある方が良いことは理解している。俺だって久慈がいなければこれほど練習に頭を使わなかったんじゃないかと思う。
元々俺は自分が圧倒的なエースだとは思っていない。投手としてもほぼ互角だし、外野の守備や打撃も含め総合的に見ると久慈の方が俺より良い選手。1年の頃からそう思っていたし、久慈本人や他の仲間にもそう言っていた。
強力な打線に加えて、俺と実力の伯仲した同い年の投手がいる。振り返ってみれば俺にとって最高の環境だったと思う。
先取点を許したからなのか、ツーアウトランナー無しという状況に気が抜けたのか、権藤が左中間にツーベースを放ち追加点のチャンスを作った。ツーアウトからでも簡単に終わらせないのが、俺たちのキャプテンだ。打席に山條が、ネクストには久慈が向かう。
この恵まれた環境にさらに遠山という戦力が加わった。左のアンダースローという変則ピッチャー。正直アンダースローに転向すると聞いた時点で俺の中では遠山は戦力外になっていた。だから正確には帰ってきたというべきかも。
遠山は俺たちの代になれば、チームでベンチに入ることができる選手だった。球数制限だけじゃなくていろんな意味で、ひとりのエースだけで夏の大会を勝ち抜くことは難しい。同じように3番手の投手も必ず必要だ。3番手投手がいないと、遠征でダブルヘッダーをこなすのは難しい。大会が始まっても、大差がついた試合をしっかり勝ち抜くために、あるいはショートイニングで相手の目先を逸らすためにも、試合が作れる3番手投手がいるのといないのとは全然違ってくる。
だから俺にとって遠山はあのままで良かった。左で最速140km投げれる高校生なんて滅多にいないよ? 大抵のチームだったら普通にエースになっているはずだ。遠山は俺らの代になったらベンチで俺らを支えてくれる選手だと思っていた。
この学校の野球部で試合に出る選手は、全員が小学生の早いうちに野球を始めている。それから約10年間野球に打ち込んできて、大きなケガをしなかった奴らだけがここにいる。俺も遠山もそのうちのひとりだ。
これまでの方法でベンチには入れない。ケガで肘を痛めた。そのような選手がアンダースローに活路を見出そうとすることは理解できる。でも遠山はあのままでもベンチに入れたし試合に出れた。それなのに遠山は、これまで積み上げた10年間の多くの部分を自ら崩し、成功するとはとても思えない分が悪い賭けに出た。ピッチャーとしての才能とこれまでの努力を自分で潰しに行く、はっきり言って頭がどうにかなってしまったとしか思えなかった。
だが遠山はそれらを全部投げ捨てた。出れるはずだった2年の秋の大会にも出ずに、あるかないかもわからない、というか普通に考えると無いはずの新たな自分の可能性を探り始めた。
山條が四球を選んで塁を埋めたところで久慈がライト前、ツーアウトなので当然スタートを切っていた権藤がホームに還ってきた。山條も三塁へ。久慈は自分がタッグされるリスクを避け一塁でストップ。ツーアウトから3人で2点目が入ってなお三塁一塁。守備側がタイムを取って伝令が走り内野がマウンドに集まる。場合によっては俺まで打順が回ってくる可能性がでてきた。
俺はタイムリーを打った久慈に拍手をした後、目でベンチ内の遠山を探した。遠山はダイヤモンドを一周してベンチに帰ってきた権藤とハイタッチをしてはしゃいでいた。
遠山は僅か1年で自分を作り替えて試合で活躍している。これまで自責点どころか失点が無い。野球は得点と失点で勝敗が決まるゲームだ。ピッチャー目線で言えば、例えヒットを何本打たれても、いくつもの盗塁を許しても、三振なんかひとつも取れなくても、点さえ取られずに27個のアウトカウントを積み重ねることができれば、少なくとも9回までに負けることはない。どんなに鍛え上げたチームでもエラーが決して珍しくはないのが高校野球。この世界でこれだけのイニングを無失点で抑えている遠山が異常なだけだ。
俺も久慈も地方大会から失点している。でもこれは当たり前のことだ。いかに失点を少なく抑えるかが投手の最大の役割だと言って良い。ベストを尽くすのは当たり前だけど、失点を0にすることまでは求められていない。もしチームが0-1で負けたら悲しいし悔しいけれど、多分投手としての俺より打者としての俺の方が悔しいと思う。高校野球では投手も打者のひとりだからだ。
ありがたいことに遠山は敵じゃない。俺の味方。チームメイト。一緒にチームをひとつでも多く勝たせるためにこの場所にいる。
芝原が一度もバットを振ることなく小走りで一塁へと向かう。同じように久慈も二塁へ。俺もネクストに行く必要がある。これだけ長い攻撃になるならキャッチボールでもしておけばよかったかもしれない。こうした長い間が空いた時でなくても、俺だってそれまで簡単に取れていたストライクが急に入らなくなることだってある。こういう時、自分の心配だけではなく、相手のピッチャーをも心の中で密かに応援してしまうのは俺のダメなところだと思う。
ボール先行でゾーンに置いただけのボールを新浜は見逃さない。右中間、逆方向に飛んだ当たりはワンバウンドしてフェンスに当たった。長打になる。満塁のランナーが一掃されて5-0。新浜は自重して二塁でストップ。これでもし俺がアウトになった場合でも、二回の裏の攻撃がまた蜂谷から始まるからプレッシャーをかけることができる。本当に頼もしくて容赦のない奴らだ。
相手の二番手投手がブルペンで投球練習を始めたのを横目で見ながら俺は打席に入る。そして相手のエースを観察する。顔は気の毒になるぐらい真っ青だ。その逃げ出したくなる気持ち、俺にはよくわかるよ。俺も1年の時、1イニングで8点取られたことがある。2コ上の先輩相手の紅白戦で、味方のエラーが2つあったけど。
俺のそんな心を見抜かれたのかもしれない。初球、インハイのコーナーに伸びのあるストレートを決められた。いきなり目を覚ましたのか? やっぱり俺が変に同情してしまったから? 大丈夫。同情はしたけど俺は手を抜いたりしないから。俺は久慈みたいなバッティングの上手い投手じゃないけど、遠山みたいにバントしかできないような投手でもない。2球目のやや甘い所にきたチェンジアップを俺はセンター前に弾き返した。初回から打者一巡の猛攻。さすがに俺がホームベースを踏むことはできなかったけれど、十分すぎる援護点をもらった。ここはビシっといかなあかんところや。
プロ野球の選手だとベンチの前でインタビューを受けるのだろうけど、高校球児はベンチを引き上げた後で報道陣に囲まれる。
「ノーヒットノーランはどのあたりから意識しましたか?」
「そうですね。6回のピンチを切り抜けたところからです」
5回まではパーフェクトだったのだけど6回、先頭の7番、そして次の8番バッターを連続でフォアボールで塁に出してしまった。5回裏のグランド整備中に、ふと初回のウチの打者一巡の攻撃を思い出してしまったからかもしれない。10年以上ピッチャーをしていたら、つるべ打ちにあった経験はなんどかある。あの時マウンドにいたのが俺だったら、そんなことを考えてしまうのは俺のメンタルに問題があるのだろう。
あの時ベンチ前のブルペンで久慈が投球練習を始めたのが見えた。もし記録が途絶えたらいつものように俺はこの回で降ろされるだろう。久慈と目が合うと、久慈が投球練習を止めグラブを叩いて俺を励ましてくれた。多分そのおかげで、代打で出てきた選手を6-4-3のダブルプレイで打ち取ることができた。三塁でアウトを取ってくれたらもっと良かったけど、点差を考えればアウトカウントを優先するべきだろう。その後も8回にもうひとり四球で歩かせただけで、それ以外のランナーは出さなかった。
「初回から大きな援護をもらって楽に投げられたのもよかったと思います」
甲子園でノーヒットノーランなんて投手だけじゃくてチーム全体の実力、その日の調子、そして運。そのすべてが重なってもなかなかできないことだ。ただ、球数は途中で待球されたこともあり、ノーノーとしては多い121。だから俺が準決勝に出ることはないだろう。でも久慈と遠山に任せておけば問題ないだろう。決勝では投げさせて欲しい。
俺は本当にええチームメイトに恵まれたと思うねん。




