18.村重智治
「村重さん、この遠山というピッチャー、怖いですね」
「怖い。まさか明日出てこないよな?」
俺は正直に言った。
「出て来るかもしれませんよ。2回戦投げてないですし」
だよなあ。
「いやアンダースローは良いんだよ。左のアンダースローなんて野球好きの俺らから見たら浪漫の塊だろ。それを間近で見れるなんて皆が羨むはずだ。でもな」
俺は今から自分が恥ずかしいことを言うのがわかっている。でも口に出さざるを得ない。
「俺さ、今までアンダースローってそんなに経験無いんだよな。左なんか当然初めてだし」
「そりゃそうですよね。僕も左のアンダースローの経験はないですね」
アンダースローといっても実際はほぼサイドスローの場合もある。でもこの子は地面すれすれから投げて来る。そして浮き上がってそれから落ちて来る。しかも低めにしっかり決まる。そして持ち球が多い。ストレートもシュート回転をかけたりかけなかったりするし、チェンジアップとサークルチェンジをつかい分けているそしててスライダーでバックスピンをかけボールが浮き上がるように伸ばしてくる。ストライクとボールの見極めがとても難しい。だからもし出てきた時のためにこうやってビデオで事前に研究している。
特定の選手を研究するなんてことは、本当はよくないことなのかもしれない。でもより正しい判断をするためには必要なことだと思って俺は今ビデオを見ている。実際もしこの子がマウンドで投げたのならば、それをレポートを書いた方が野球界のために良いのではないかとすら思う。
「だからこうやって予習しているのだけど……ほら、ビデオで見るのと実際見るのと違うピッチャーっているじゃん」
「ああ、いますよね。スピードガンより速く感じたり、ビデオよりも曲がるとか」
ビデオで見るのと、本物を見るのとは当然違う。そもそも視点が違うから一緒にすることはできない。実際にはこのビデオのようにキャッチャーの真後ろからではなく、スロットポジションと言って、バッター真後ろ(この場合背中ではなくてバックネット側)とキャッチャーの真後ろの間に中腰で立つ。
「この子もそうだと思う。それでも予習するしかない。それに……対戦相手がな」
明日の第一試合、は大阪城北高校と西洛大付属南高校の関西勢同士の対戦となる。先入観を持つのは良くないことだけれど、大阪城北は強力な打線で知られている一方で、なんというかクリーンではないプレイが多い。キャッチャーはしょっちゅうフレーミングするし、ランナーにもサイン盗みととられかねないようなジェスチャーが散見される。監督が変わらないとこの流れは変わらないと思う。荒れた試合にならなければいいのだけど。
「ああ……そうですね」
彼も察してくれたようだ。そして俺はまた遠山君の投球を見た。地方大会のビデオから見ているけれど、幸いボークを疑うような投球はない。俺は試合になれば自分の判断通りの判定をするけれど、ボークを判定する時は居たたまれないことがある。サヨナラボークとかピッチャーが可哀想だと思うけど、判定する方も辛い。
そして今見ているのはもう何回目かになる甲子園の1回戦のシーン。
「これどちらもボールって判定されたけど、ストライクでもおかしくないよな?」
批判していると思われると困るので表現には気を遣う。1回戦、変わったばかりの7回の先頭バッターにボールが2球続いた。でもこのコースでボールと判定されたらバッテリーは辛いだろう。ただ遠山君は2球で審判のゾーンを確認したのか、それ以降低いボール球は投げていない。
そして俺は審判だから同じ立場の審判の気持ちも良くわかる。高校野球の審判は皆アマチュア。交通費こそ出るものの、日当3千円のほぼボランティア。それでも野球が好きだからこの役目、つまり審判をしている。この画面の球審もそうだし俺もそうだ。だから明日、俺が球審を務める予定になっている試合に出場する可能性のある投手のビデオを俺は先ほどから繰り返し見ている。
「バッター泣かせだけど球審泣かせでもあるよな。ここだけの話だけど少し自信がない」
問題はこの子では無くて俺にある。投手がストライクゾーンに投げたのにボールだと判定する、あるいはその逆の判定をする。いずれにせよ誤審を皆無にするのは不可能だ。でもできる限り正しく公平な判断をするべきだし、そのための努力を怠るわけにはいかない。俺は彼のビデオを見続けた。
その日の第一試合、まだグランドでの練習が始まる前に両チームのキャプテンと監督、そして私たち審判が集まってメンバー表を交換する。メンバー表は両チームが2枚用意する。そして私たちがその2枚が一致していることを確認して、1枚を相手チームに、もう1枚は私から記録員に渡す。私は西洛南の先発投手が遠山君であることを確認した。先発か。
そして先攻後攻を決める。じゃんけんで勝った大阪城北が先攻を選んだ。延長になったら後攻が有利、10回からタイブレークが導入されてからはよりその傾向が強いと言われる。だが先攻を選ぶチームが無くなったわけではない。野球は先制したチームが有利。1回の表に得点した場合、それは必ず先制点になる。
甲子園で審判に選ばれるのはとても名誉なことだ。いずれも実績のあるメンバーが多い。逆に言えばこの界隈も高齢化が進んでいる。もっと若い人に審判の魅力を知ってもらいたいと思うし、そのための努力は続けなければならない。
この試合には球審の私、各塁を担当する審判。さらに予備審判がふたりと控え審判がいる。
球審と塁審はわかるだろうけれど、予備審判と控え審判については知らない人も多いだろう。予備審判は球審や塁審に何かあった場合の交代要員だ。またナイトゲームになった場合は照明が点灯した時点から外審になる。控え審判は他の審判のサポートや記者対応を行う。
選手たちがグランドで練習している間、審判団であらかじめ意識合わせをしておく。今は薄曇りだが試合の途中で通り雨が降る可能性があること。インフィールドフライが発生し得る状況である場合は、プレイ前に確認する合図を確認すること。ランナーがベースをきっちり踏んだか、タッグアップやタイムプレイをきっちり確認することを互いに念押しする。私を含むここにいる審判全員、それらがあらかじめて頭に刻み込まれている。それでも確認は必要だ。選手たちだけでなく自分たち自身を確認するのが審判の役目だ。練習が終わりグランド整備が終わり、そして試合開始の時間がやってくる。
「整列!」
両チームの選手たちがホームベース前に並ぶ。もちろん私たち審判団も。
「礼!」
後攻の西洛南の選手が各ポジションに散ってボール回しをする。バッテリーは投球練習。マウンドには遠山君。左利きのアンダースローで地面すれすれから投げてくる。彼の投げるボールを私はキッチリ判定しなければならない。
「ラストボール」
私は声をかけた。そろそろ試合が始まる。
プレイボールの声をかけた後、初球が低めにきた。これがシュート回転がかかったストレート? そう判断する間もなくバッターがフルスイングする。さすが豪打を誇る大阪城北。この試合の最初のバッターが様子見もせずにフルスイングする。やや強いゴロをセカンドがファーストに送球し1アウト。
打てそうなんだけどクリーンヒットは難しい、遠山君はそういう投手だ。その彼に対し初球から振るのは一見無策にも思える。だがそれこそが作戦なのだろう。大阪城北は初球から狙ってくるチームであり、安易にカウントを整えることができないことを印象付けたはずだ。そして最も安全にアウトを獲る方法、つまり三振を狙うのが難しいことも伝わっただろう。甲子園で投げる投手としては、試合経験が圧倒的に少ない遠山君に圧力をかけたと言える。
今のセカンドゴロに込められた意味を考えながら、私は2番バッターが打席に入るのを待った。2番バッターも初球から振る。初球は空振りだったが、2球目は逆方向に飛び、一二塁間を破っていった。ワンアウトでランナーが出た。二回戦では3イニングをパーフェクトだったから、遠山君が甲子園で初めて出したランナー。
ランナーが出たことで守備陣が身構えるが、私たち審判団も身構える。人間は集中力を持続するのが難しい。特に状況がころころ変わる場合はそうだ。私は今日は球審なので、ある意味チェンジの後しか気が抜けない。当然塁審もそうなのだけど、ランナーがいると仕事が増える。
野球はランナーが出るとルールが変わる。盗塁、ダブルプレイ、ボーク、インフィールドフライ、リタッチ。
そしてランナー一塁、二塁、二塁一塁のいずれかの場合、二塁塁審の位置はダイヤモンドの内側になる。これは審判にとっては大きな違いだ。ランナーがいない場合は広い外野の大部分の打球を二塁塁審が判断するが、二塁塁審が内野に入った場合、外野の中心線から半分という広範囲を一塁塁審が、逆側は三塁塁審が判定することになる。
幸いこのピッチャーはボークと疑われるようなフォームは予選のビデオを見ても無いけれど、甲子園で出した初めてのランナーだということを気にしておく必要がある。そして盗塁の可能性も。
3番バッターの初球、ピッチャーが素早いモーションに入ったところでランナーがスタート、それとほぼ同時にバッターが大きな声でタイムを要求し、バッターボックスを離れた。投手は気にせずそのまま投球を続けた。キャッチャーが盗塁を阻止すべく二塁に投げようとするが、ランナーが一塁に戻っているのを確認してピッチャーにボールを返す。前評判通りと言えばそうだが、いきなり際どいプレイをしてきた。
モーションに入っているのだから当然審判はタイムを認めない。つまりインプレイ。インプレイの状態で投球動作を止めたらボークとなりランナーにテイクワンベースが与えられることになる。今回の場合は投手がそのまま投球したのでバッターが打席を外していても、私は普通にストライクを宣告する。
「すいません、靴紐が」
私が注意する前に言い訳をするのもいやらしい。私が良い意味でも悪い意味でも信頼されているようだ。私の心証を多少悪くしたところで、今後の判定には影響しないと考えているから、こういった戦術を取ることができる。バカらしい。高校野球は教育の一環であることを私は忘れていない。
「遠山君、大丈夫?」
選手の名前を覚えておくのは審判の嗜みだ。ベンチの選手まで覚えられない時もあるが今日は大丈夫。
「ありがとうございます」
遠山君が帽子を脱いで私に礼を言う。これでバッターに注意するのと同じ効果を両チームに伝えることができただろう。もちろん判定はこの後も公正に行うつもりだ。3球目のシュートを空振りし、4球目のチェンジアップで中途半端なセカンドゴロ、4-6-3のダブルプレイでチェンジ。
遠山君は地方大会から通してみると2種類のフォーシーム、2種類のチェンジアップ、そしてシュートと浮き上がるようなスライダーを駆使する。左のアンダースローで130km出て、これだけの球種を持ち、緩急を使い分けることができるので、連打されることはあまりないのではないかと思う。
ただやはり相性というものはある。プロ野球のバッターでも左投手には高い打率を叩きだすのに右投手には弱いバッターもいる。ましてやアンダースローであれば得意、苦手の差が大きくなるのではないかと思う。そして苦手な場合でも出合い頭の長打やホームランが無いとは言えない。それが野球、ましてや一発勝負の高校野球の怖さでもあり、魅力でもある。私もそれに憑りつかれたひとりだ。
遠山君のピンチは4回の表にきた。先頭の2番バッターが今度は三遊間を破って塁に出た。遠山君に対して2打席2安打。彼は左のアンダースローの攻略が得意なバッターなのかもしれない。その力を求められる機会が今後の彼の野球人生であるかどうかはわからないが。
そして次の3番バッターはまたセカンドゴロ。今度は痛烈だがセカンド正面。再びダブルプレイかと思ったのだけれどイレギュラーしたのだろう。前の回に西洛南が2点取っていて、複数のランナーが走りグランドが荒れていたことが原因かもしれない。ボールは体で止めたものの、球を見失って無死二塁一塁。記録員は内野安打としたがエラーでもおかしくない。プレイが止まったところで私は右手を胸に当てた。それを見て他の3人の審判も同じ仕草をする。もし内野フライが上がったらインフィールドフライを宣告する必要がある、それをお互いに確認した。
マウンドにいるのはグラウンドボールピッチャーだが、その球を強引に上げようとすると内野フライになる可能性もある。
このバントもあるかもしれない状況で4番。勢いよくバットを振りながらバッターボックスに入る仕草もフェイクっぽい。それに対して初球はストレート、バッターはバントせず思いっきりバットを振る。だがバットに当たる前に落ちた。ボールはかするようにバットにあたると、地面に大きく跳ねた。それを見てランナーたちが一斉に走り出す。今のはシンカー? この大会で初めて見せるシンカーによく合わせたバッターも大したものだと思う。流石は大阪城北の4番打者だ。遠山君自身がボールを掴んだがどこにも投げられない。
アンラッキーな内野安打2本を含めた三連打で無死満塁。だがまだ点は取られていない。大阪の高校を後押しする大声援が一塁側のみならず球場全体に異様な熱気を作り上げる。京都も近畿地方なので観客にひいきされやすいけれど大阪には勝てない。地元である兵庫ですら大阪相手だと微妙。試合経験の少ない遠山君はこの状況に耐えられるだろうか?
スタンドの観客全員が固唾を飲んでグランドを凝視しているのを感じる。おそらくテレビの向こうの視聴者たちも。その何万、何百万という視線に晒されながらプレーしなければならない選手たちの気持ちを思わなければならない。私はタイムをかけて遠山君に、グランドでバウンドしたボールの交換を要求した。遠山君がボールボーイにボールを投げる。
「いいかい?」
この大歓声でマウンドまで私の声が届いているのか怪しい。だが遠山君がうなずいたので新しいボールを投げた。そして私は西洛南のベンチを見た。守備側のタイムはまだ一度も使われていない。だがベンチからタイムを取る様子はない。
「ピッチャー負けてないよ! 内野はホーム優先な」
キャッチャーの新浜君がマウンドへ、内野陣へと叫んでいるがどこまで聞こえているだろうか。満塁だから本塁でもフォースアウトが成立する。ランナーにタッグする必要はない。
そして5番バッターがボックスに入る際、私はもう一度右手を胸に当てる。無死満塁もまたインフィールドフライが発生する状況だからだ。三塁ランナーがいるので、二塁塁審がまたベースラインの外に出ている。私だけでなく各塁審も受け持ちの塁のランナーの動きを確認し、この後起こり得る状況とその時の対処を頭の中で何度もシミュレーションしているに違いない。このワンプレイでゲームが決まるかもしれない重要な局面。
初球は低めのストレートだがコースが甘い……アウトローのバットが届かない所に落ちながら逃げた。比較的早くて左打者の外角低めに逃げるシンカー。ゾーンからは外れているが空振りでワンストライク。
やはり先ほどの内野安打の球種もシンカーだったのだろう。遠山君はこの回が始まるまで、地方大会からシンカーを一球も投げていないはず。だが新浜君のミットはほとんど動いていなかった。もし取りそこねて後ろに逸らしてしまえば1点入ってしまう状況。ぶっつけ本番ではなくて相当練習している球だ。この試合まで温存していたのだろう。
比較的真っ直ぐのフォーシーム
シュート回転を付けたフォーシーム
チェンジアップ
サークルチェンジ
シュート
バックスピンのかかった抜けるようなスライダー
そしてシンカー
それらをきっちり制球して緩急をつけて投げて来る。例え球速が遅くとも、このピッチャーからヒットを打つのはさすがの大阪城北の5番バッターでも困難なはずだ。打席を外したバッターがベンチのサインにうなずく。満塁だからスクイズは危険だし、ラッキーな内野安打が3本続くことを期待するほど何も考えていないわけではないはずだ。
二球目、先ほどの落ちる球とは逆に浮き上がってくるようなスライダー。ゾーンを外れているがバッターは強振した。ボールが一塁線に高く上がった。内野は超えるからインフィールドフライはない。今はフェアゾーンの上空だが変な回転がかかっているから一塁側のファールになるだろう。まだ第一試合で回が浅いので浜風が押し戻すこともない。ライトはピッチャーでもある強肩の久慈君。ボールは一塁側フェンスギリギリ。捕球せずファールにして2ストライクにするか。それともランナーがタッグアップしないと考えて捕球するか、あるいは1点を与える可能性はあってもそれを刺すべく捕球するか。一塁塁審が打球を見極めるために外野に移動したので、一塁ランナーの動きを確認する事が私の仕事に追加される。
久慈君は一塁側スタンドのフェンスギリギリで捕球して、そのままバックホーム体勢に入ったが、少しフェンスが邪魔をした。一塁ランナーはリタッチしたがすぐにベースに戻った。しかし他のランナーはスタートが速い。スタートが上手い? いやこれはスタートが早いかもしれない。いずれにせよ私は三塁側のファールゾーンでクロスプレイを見極めるための位置についた。
カットなしの素晴らしい返球がホームに返ってきて新浜君のミットに納まる。だが左手では追いタッチになるので、ギリギリのタイミングでセーフ。私はそう判断しセーフのジェスチャをした。そして本塁を指さしてコールする。
「1点」
それからフェアゾーンから指を1本立てて宣言する。
「ランスコア」
私がそう言ったのと同時に私のすぐ前から声がした。
「新浜、リタッチ早かった。アピール頼むわ」
スタンドの声援を掻き超すような冷たい空気が漂う
本塁のバックアップに入っていた遠山君の声にネクストバッターと喜んでいた三塁ランナーの動きが止まる。すでに起き上がって他のランナーを警戒していた新浜君が機敏に動き、既にホームインしていたランナーを改めてタッグした。リタッチ違反はボールを持ったプレイヤーが触塁してアピールすることが多いが、該当ランナーへのタッグでも成立する。
「三塁ランナーの離塁が早かったとアピールします」
そう言いながらも新浜君の目は油断せずに、他のランナーに向いている。私は三塁塁審を指さした。三塁塁審は捕手が私にアピールしたのを見ていたはずだ。そして何をアピールしていたかも想像がついたはず。そして私が三塁を指さしたことでタッグアップのことだと理解したはず。
三塁塁審はアウトのジェスチャーを行ったので私が宣言する。
「ヒズアウト! ノースコア」
私はホームインしたランナーを指差して、大きくコールしジェスチャーした。
先程におとらない歓声が湧き上がった。アウトを宣告されたランナーが私に抗議しようとする。迫真の演技だけど、先程指摘された時の素の表情を見ているので白々しく感じた。
私は塁に戻った一塁走者と、三塁に進んだ二塁走者が塁に留まっているのを確認してタイムをかけ、プレイを止めた。
「あっ」
遠山君の声が聞こえた。今の判定は守備側に有利なものなのに、何か懸念があるのだろうか?
私の目ではリタッチ違反だが、改めて三塁塁審の判断を確認したい。私がタイムをかけたため、ボールデッドになって4人の審判が集まり協議に入る。その間に遠山君がサードに向かっていた。
「捕手が三塁走者にタッグして、先程のライトファールフライの際の離塁が早かったというアピールがありそれを三塁塁審に確認しまして、アウトの判断がありました。認識があっていますか❔」
この問いかけに対し三塁塁審が戸惑っている。なぜ? アウトのジェスチャーをしたのに?
「その判断を支持します。ただ……」
何かを言い淀んでいる。私は無言で先を促す。
「二塁走者の離塁も早かったので、さらにアピールプレイがあるかもしれません。どうでした?」
今度は二塁塁審に意見が求められる。一塁、二塁の走者の確認は彼の所掌。
「はい、同意します」
審判員の意見が一致することはとても良いことだ。問題は私がタイムを取ったこと。
「ボールデッドにした際に、投手が何か言いたげだった。さっき三塁手に話しかけていたからこの後おそらくアピールがあると思う」
捕手のバックアップに入っていた投手は全体のプレーを見ることができたはずだ。あのままプレイを続けていれば、二塁か三塁でアピールがあったはず。私がタイムをかけたのでそれを止めてしまった。
アピールはインプレイ中でないとできない。それがわかっているのだろう。遠山くんは意味有りげにサードとキャッチボールをしている。
「だから場内アナウンスは次のアピールプレイの後にまとめてします」
ワンプレイで2回場内アナウンスをするのは時間の無駄だと思う。だが結果的には2回目のアピールプレイは無かった。
私たち審判団は解散してそれぞれの努めに戻った。私はブラシで先程のクロスプレイで汚れたホームベースを掃除する。
「バッターラップ」
「先程の説明とかないんですか?」
「ない」
心の中で「今は」と付け加えた。
「プレイ」
私の声でインプレイになった。プレートを外した遠山君が三塁に投げたと同時に、リードを取っていた三塁ランナーが本塁に向かってダッシュしてきた。これには私も含め、球場内の全員が仰天したと思う。だが同時にうまいとも思った。
もし投手が二塁でアピールを選択した場合、ランナーが本塁に突入する可能性がある。アピールに失敗した場合得点になってしまう。遠山君はそのリスクを避け、ランナーにタッグしてアピールすることを選んだ。だがランナーはそれを読んでいた。アピールする前にアピール以外の他のプレイがあった場合、アピールはできなくなる。
そしてサードも驚いたはずだが冷静にランナーを追いかけた。ランナーも素晴らしいがサードも正しい選択をした。もし慌てて本塁のキャッチャーに送ったら、ランナーは楽々三塁へと戻り正規のランナーになる。危険ではあるが、ある程度三塁ベースから引き離して、追い込む必要がある。
それがわかっているからサードはランナーを追いかけた。必ずこのランナーを刺すために。
このランダウンプレイを生き延びれば、得点、あるいは正式な三塁ランナーになる。そしてその間に一塁ランナーも二塁、あるいは三塁まで進むだろう。
すべてはこの挟殺プレイにかかっている。ランナーはタッグされてもともと。生き残れば丸儲け。守備側は得点されることだけは絶対に避けたいはずだ。
挟まれて不利なはずのランナーが精神的には有利というランダウンプレイ。私があの時、試合を止めなければありえなかったプレイ。だが反省は後で。今はこのランダウンプレイを正しく判定することに集中する。ただやはり無理な飛び出しだったのだろう。三塁ランナーは本塁から折り返し、三塁に戻る際、ランダウンプレイに参加していたショートから逃げるために大きく走路を外れ、そのままバランスを崩して倒れた。
タッグされる前に三塁の塁審がアウトのジェスチャーをし、その後走路を離れたジェスチャーをした。
「ヒズアウト。アウトオブベースライン」
念のためだろう。ショートがそのままタッグしてこの一連のプレイが終わった。
私は心の中で大きなため息をついた。このプレイはやはり説明が必要だろうな。でも一つ目のアウトと二つ目のアウトの関係をどうやって説明すれば良いのだろう。上手く説明できる自信はないが事実をありのままに告げるしかないだろう。




