動きだす影
23話
「まったく、貧民どもの不作法には困ったものだ……」
市内の各所から立ち上る黒煙を眺めながら、モノクルをつけた医者が忌々しげに吐き捨てた。
それを聞いて、腹の出た弁護士がたしなめる。
「しかし今、奴らの協力が不可欠なのは事実だ」
「……実に不愉快だがな」
「なに……国王陛下との和解が成立するまでの辛抱だ。そうなれば、卑しい貧乏人と手を組む必要もなくなる。陛下を支え、この国の未来を担うのは、旧套墨守の貴族でも、過激な労働者でもない……進歩的な価値観と豊富な財力のある中産階級こそがその役目に最も相応しい」
「なるほどな」
「我々が目的に達するまで、多少のおイタは目を瞑ってやるのも悪くはないだろう……」
二人の男は口の端をつり上げ、静かに笑った。
時間は数時間遡る……
早朝、まだほんの少し薄暗さの残る通りを、蹄の音を響かせて馬が走りぬ抜ける。馬上の男は興奮で顔を真っ赤に上気させ叫んだ。
「フレッセル要塞陥落!!」
この報は路上に跋扈する民衆を歓喜させ、同時に暗い隠れ家にじっと息を潜めていた王党派を落胆させた。瞬く間に街はお祭り騒ぎとなり、貴族の邸宅や高級商店は略奪されて火を放たれる。
無秩序が首都を覆う中、民衆の指導者層は混乱を鎮めるのに躍起になり、市民兵でも比較的統制のとれる部隊は騒擾鎮圧のため同じ市民に銃口を向けなければならないほどだった。
下層民衆からすれば不満の残る措置であるが、結局のところ民衆指導者たちの目的は中産階級の政治参加権であり、この時点では誰も徹底的な革命など考えておらず、国王や貴族と和解する道を模索していた。
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「腐ってるのは貴族か、それとも俺たちか……なあ、ロイク」
陥落したフレッセル要塞中庭の壁にもたれながら、俺は隣にいるロイクの脇腹を小突いた。
庭の中央には、降伏した守備隊の哀れな屍が高く積まれている。
上層部からは投降して来る者は殺さぬようにとの指示が出ていたが、興奮した民衆にそんなことを求めても無駄だった。勝手に即決裁判が開かれ、市民兵の中から抽選で選ばれた裁判官が「自由」の名の下に銃殺刑を言い渡す。
はじめは銃が火を噴く度に民衆から歓声が上がったが、次第に飽きてくると、樽に押し込めて銃剣で突き刺したり、逆さ吊りにして棍棒で殴り殺したりと、悲惨さは増していった。
とりわけ要塞司令官のラザール・ド・シャミナード伯の最後は悲惨だった。
彼は命乞いも虚しく、何人もの男たちに押さえつけられて生きたまま鋸で首を落とされた。その首は槍の先に突き刺され、今は要塞の門に晒されている。
「これじゃどっちが悪魔なのかわかりゃしない」
「サム……」
ロイクは複雑な顔をして首を横に振る。
「あんまり大きな声で言わないほうがいいぜ。奴らの耳に入ったら厄介なことになる」
ロイクが顎をしゃくった先には、切り落とした兵士の首を蹴って遊ぶ数人の若い市民兵が見えた。
「確かにな。血の気の多そうな連中だ」
「まったくだ。俺はあの狂気が味方に向かないことを祈るよ」
人間の残虐性はとどまる所をしらない。たぶんこれは大昔から、本能のレベルで備わっている類のものなんだろう。
俺はどうだ。あの日本という国の基準で考えるなら、目の前で繰り広げられている光景は到底認められるものではない。
しかし今、俺の心は現実を完全に受け止めている。いや、最近ではむしろこの状況を……
「望んで……いる」
「サム、何か言ったか?」
「……何でもない」
ほんの少しだけ、寒気がした。
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「なに! 内務卿、それは本当か!」
フレッセル要塞陥落の報告がラテリア王国の宮廷に届いたのは、時刻がちょうど十二時を回った頃だった。
「間違いない。街に放っているほとんど全ての密偵から、同じ報告が寄せられている」
内務卿の言葉に、皆の顔が暗くなる。
軍務卿は顔を青白くさせ、服の袖で目元を覆った。
「それにしてもシャミナード伯爵は気の毒に……彼の家族にはなんと報告すればよい? これは……あまりに残酷すぎる」
「軍務卿、死んだ部下のことなど、今は考えている暇はありませんぞ!」
「そうですぞ軍務卿! フレッセル要塞陥落の責任をとって今すぐ職を辞すべきだ!」
「ええい! 外務卿に財務卿! 貴様らはこんな時だけ勢いづきおって!」
軍務卿は拳でバンと机を叩き、目を血走らせて皆を見渡した。
その迫力は凄まじく、一瞬で会議が静寂に包まれる。
「ところで、一つよろしいかな……?」
沈黙の中、誰かが口を開いた。皆の視線が一カ所に集まる。
「「……ッ!!」」
はっと息をのむ音が聞こえた。
「デュ……デュフレーヌ侯爵……何か?」
それはまさに意外な人物だった。この騒動が始まってから、公の場では未だに一言も言葉を発していない静かな巨人が、ついに動きを見せたのだ。
しかし。
「こ……侯爵。ここは国王顧問会議ですぞ! なんの役職にも就いていない貴方には、この会議での発言権は認められていませんが?」
財務卿が真っ先に口を開いた。
「そ……その通りだ! 我々の会議に口を挟むとは無礼であろう」
外務卿も同調する。
しかし侯爵に悪びれる様子は微塵もない。周りを一瞥し、さも当然といった様子で言葉を続ける。
「これは大変失礼しました。しかし、今は非常時にございます。ご無礼を承知で、発言を許しては頂けないでしょうか……国王陛下」
「なッ……!」
またしても会議に衝撃が走った。
「デュフレーヌ侯爵……! 正式な手続きを経ずに国王顧問会議で、しかも陛下に対して直接発言することは許し難い無礼ですぞ!」
「そうだ! 口を慎みたまえ!」
「口を慎め……誰に向かってそんな口を利くか?」
侯爵の冷たい視線が、卿たちを射抜く。卿たちも負けじと応戦し、部屋の中は一触即発の緊張で満たされていった。しかし、次の瞬間、静かだが、低く威厳のある声が響いた。
「デュフレーヌ、発言を許す」
「「へ、陛下ッ……」」
「たしかにこの者の申すことにも一理ある。この非常時に、慣習に囚われすぎるのは良いことではない。さあ、申してみよ」
「感謝いたします……私から申し上げることは一つでございます。それは……」
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日が沈み、地上は闇に包まれた。通りを制圧した市民も、隠れ家に息を潜める王党派も、今は街のどこかで疲れ切った身体を休めている。
動くものといえば、ネズミか野良猫か、眠たげに目元を擦りながらあくびを連発する夜警の市民兵くらいだ。
そんな中、黒い陰がロープを伝って城壁を這い上がっていた。
「旦那……さあ」
城壁の上にいる男が手を伸ばし、下の男を引っ張り上げる。
「用件は侯爵からうかがっておりやすよ、ゲルシェ大尉ですな」
「そうだ、案内を頼む」
「こっちでさぁ……荷馬車を用意しとりやす」
革命の狂気の裏で、陰謀の序曲は静かに始まった。




