首都占拠《後編》
22話
まっすぐ立つこともままならない狭い下水道を、二十数名の男たちが腰まで水に浸かりながらも静かに進んでいる。
地上を歩けばすぐの距離でも、地下でも同じとは限らない。この汚水と排泄物で満たされた迷宮に入ってからもう三十分は経過していた。
構内は暗く、明かりは先頭を行くペイネ元伍長の持つ松明だけだ。さらに冷たい汚水と酷い悪臭が徐々に体力と気力を蝕んでいく。
正直、俺はこんな作戦に参加してしまったことを後悔し始めていた。
「それにしてもすごい臭いだな……サム、全然鼻が慣れないぞ」
後ろを歩いていたロイクが毒づく。
「まったく同感だな。息をするのが拷問に感じるくらいだ」
ここの空気はよどみ、腐臭が充満している。こんなものをずっと吸っていればいれば間違いなくなにかしらの病気にかるだろう。
今は一秒でも早く抜け出したい。
皆でうんざりした顔をペイネに向けるが、彼の目は松明の赤い光を注意深く見つめたままだ。
「止まれ……!」
すると突然、前を行くペイネが左手を出して俺たちを制止させた。
「どうしました……」
「松明の火を見ろ。ちょっとばかり弱くなってるだろ……それになんだか少し息苦しい」
たしかに言われてみれば、さきほどよりも火の勢いが少し頼りなくなっているのが分かった。もっとも息苦しさに関してはこの下水道に入ってからずっとそうなのであるが……
「でもそれがどうしたっていうんです?」
ロイクが尋ねると、ペイネはやれやれと首を振って答える。
「今教えてやるよ。おい! 新しい松明をこっちに!」
「どうぞ……」
後ろからまわってきた松明を受け取り、ペイネに手渡すと彼は火を移し、持っていろといって俺に押しつける。
その次に彼は自分が持っていた方の松明を、火が消えないよう慎重に水面に浮かべ、ゆっくりと前へ押し出した。
「いいか、よく見とけ……」
押し出された松明は下水道の壁面をぼうっと照らしながら静かに直進していたが、ある地点まで行った瞬間にすっと炎が見えなくなった。
この現象はまさか……
「やっぱり空気が薄くなってやがった……さてはガスが溜まってるな!」
ペイネが叫んだ。
「あ、危ねぇ……」
後ろにいた誰かのつぶやきが聞こえた。
確かにこんな場所で中毒死するのだけはまっぴらだろう。
やはりこの髭面のおっさんはただ者じゃない。
「しかし困ったことになっちまった。最初の予定じゃ要塞北西の射撃場から忍び込んで、城壁づたいに跳ね橋まで近づくはずだったんだが、この道が使えないとなると作戦を変えなきゃなんねぇな」
ペイネは懐から図面を取り出し、考え込んだ。
「ここ以外のルートで要塞内に行けるのは前庭に通じるものだけしかねぇ……まあ、幸い跳ね橋からは一番近いが」
その言葉に、下水道内の冷たい空気がさらに凍り付くのが分かった。
前庭では遮蔽物が全くないため、普通に考えれば四方八方から狙い撃ちされてしまう。
不穏な気配を察してか、近くまで寄ってきていた体格の良い男がすぐにペイネにかみつた。
「おい待てよ。前庭っだて!? そりゃ確かに跳ね橋は目と鼻の先だけども、いきなり敵のど真ん中に出て行くはめになるじゃねぇか!」
「そうだな、最悪蜂の巣だ」
「ふざけんな! それじゃ犬死にだ! すぐに引き返せ!!」
「……」
しばらく沈黙が続く。
「そんな場所に出たら即おだぶつだ……」
「ペイネさん、引き返したほうが……」
この男の言っていることは至極まっとうな意見であった。ついに周りの仲間たちも彼の意見に同調しはじめる。
だがこの一瞬、俺はちらりとペイネの横顔を見たとき、ふと嫌な予感がした。前世からそうなのだが、俺にとってこの種の予感というやつは大抵現実になる……
「そいつはだめだね」
そして、ペイネの低い声が下水道内に響いた。
「なんだと!」
男はペイネの胸ぐらにつかみかかったが、即座に腕を捻られて汚水の中に叩き込まれる。
「うぇっ、ぺっ! なにしゃがる!」
汚水から起きあがった男は、手のひらで汚物まみれになった顔を拭うと、再度飛びかかったが、彼の手がその胸ぐらを掴むことは二度となかった。
その理由はとても簡単で、男の腹に深々と銃剣が突き刺さっていたからだ。
「な……なんで……」
それが男の最後の言葉だった。銃剣が引き抜かれるとそのまま膝から崩れ落ち、ゆっくりと濁った水の中に沈んで見えなくなる。
「敵前逃亡、上官への反抗……当然死刑だな」
血の滴る銃剣を服の袖で拭い、ペイネはにやりと笑った。
「いいか、作戦はこうだ。まず隊を二つに分ける。前庭へ侵入したら一方は守備隊を攻撃して囮になる。その隙にもう一方が跳ね橋を下ろす。どうだ、簡単なもんじゃねぇか」
この作戦に反対の声をあげる者はもう誰もいない。
静かになった男たちを見回すと、ペイネは俺の肩を手で叩いた。
「お前は俺と同じ隊に入れ……かわいがってやる」
やっぱりだ……嫌な予感は当たってしまった。
__________
やっぱりこいつは見込みがある。
青い顔をして俺の機嫌をうかがう軟弱なウジ虫どもと目の前の青年を比べて俺は思った。
今さっきぶち殺してやった男もそうだが、市民兵なんてのはしょせん規律のないクズどもの寄せ集めにすぎん。そんな奴らに力関係というものを分からせてやる手っ取り早い手段が今みたいな見せしめだ。
見ろ、その証拠にここにいる奴らはもう、去勢された牛みてえにビビっちまった。新兵にありがちなことだ。
こいつ一人を除いてな……
この青年、たしかサミュエルといったか。昼間の戦闘のときもそうだったが、妙に落ち着いてやがる。呼吸に乱れがねぇ。
長いこと軍隊にいた俺には分かるぞ。こいつは何度も死線をくぐって生き抜いてきた猛者の表情だ。
だが一つどうにも納得できねぇのはこの若さだ。まさかこの革命騒ぎが始まって急に一皮剥けたってわけでもあるめぇ、そうすぐには人間変われんさ。
こいつの過去にはいったい何がある? 軍隊にいたにしては歳が若すぎる……しかし昼間、ちらっと見ただけだったが、銃の装填速度は熟練兵並だった。多分だが今の俺よりも早い。
確かめてやる。
「サミュエル……お前ぇは弾を三発撃つのにどれくらいかかる?」
奴の目を見て問いかけると、少し怪訝な顔をされた。
「狙う必要がなければ四五秒で撃てます」
「早ぇな、どこで銃を覚えた」
「戦場です」
「戦場か……だがそれほどの技術が一朝一夕で身についたってのはちょいと嘘臭ぇな」
「そうですか、でも戦場にいれば以外と技術なんてすぐに会得すると思いますがね、ペイネ伍長殿」
「……なるほどな」
俺の質問にも淡々と答えやがるか、相当の食わせ者だな。
「まあいいさ。お前ぇの過去になんざあんまり興味はねぇよ。問題はこれからのドンパチで役に立つかどうかだ」
「その点なら大丈夫ですよ……慣れてますから」
「やっぱりお前ぇはただ者じゃねぇや」
「お互い様でしょう……」
「違いねぇ」
どうやらこいつは俺と同種の人間だったらしい。
俺は今日一番の笑みを作った。
「さあ、奴らをビビらせに行くぜ」
__________
「走れ! 敵が集まる前に跳ね橋を下ろすんだ!!」
フレッセル要塞の前庭にペイネ元伍長の大声が響く。
結論から言おう。地上に出た俺たちはすぐに守備隊に発見された。だが、いきなり予想もしていない場所からの侵入だったためか、守備隊側の初動は緩慢だった。
散発的な銃声こそ聞こえるが、今のところは敵兵の数も大したことはない。
「一隊は散開して各個射撃を開始、とにかく撃ちまくれ!」
そしてペイネの指揮する囮部隊が前庭に展開し、浮き足立っている敵兵に向けて発砲を開始する。
しかし、しょせんは素人の撃つマスケット銃なので当たりはしない。密集していないので弾をただ消費しているだけだ。
もっともこうなることは事前に分かっていた。
訓練が不十分な市民兵では軍隊式の団体行動は難しく、たとえ無理にやったとしても悲惨な結果になるのは目に見えている。ならば各個バラバラになって精一杯騒ぎを起こし、囮本来の役割に徹したほうが勝率が高いとペイネ元伍長は考えたのだ。
「また当たったぞ……! いったいどうやって撃ってるんだ?」
そんな中でも、俺とペイネだけは敵をしっかり狙って引き金を引いていた。
「ロイク、こうやって構えて引き金を引くんだ。おっと……今のは惜しかったな」
「こうか……! くそッ、やっぱり全然だめだ! なにかコツとかはないのか?」
「狙うならできるだけ近くて動かなそうな的がいい。マスケット銃は引き金を引いてから弾が飛び出すまでに若干の時差があるから、動き回る敵には命中精度が落ちる……まあ、それでも半分以上は運だけどな」
結局最大のコツは運がよいことである。
「なるほど……その運ってやつは弾の当たりにくさにも関係してるのか? さっきよりも敵の数が増えてるぜ」
すぐ近くを風を切る音が通り過ぎ、ロイクが後ずさりした。
見ると、一緒に来た仲間たちにも負傷者が目立ち始めている。跳ね橋を下ろしに行った連中は大丈夫だろうか?
こちらはこのままの調子ではあと数分が限界だ。
「見ろよサム。大砲まで出てきやがった……!」
少し弱気になったのか、ロイクが絞り出すような声で叫ぶ。俺もその方向に視線を向けるが、ちょうど砲兵が砲弾を筒先から押し込んでいるところだ。
「厄介だな。砲弾の種類は……まずいぞ、ぶどう弾だ! 全員伏せろ!!」
俺の声がどの程度届いたのかは分からない。しかし、地面に倒れ込んだのと砲撃の轟音が聞こえたのはほぼ同時だった。
数秒後、頭を上げたとき、その場で立ち上がることができたのは俺を含め、ロイク、ペイネ元伍長の三人だけだった。
「万事休すだな……」
火砲指揮官の指示で敵はまた新たにぶどう弾を込めようとしている。正直言って、今の幸運が二度続くなどというお気楽な考えは俺の頭の中には無かった。
遮蔽物が無いこの前庭ではぶどう弾を避けられない。ではどうするか、死が訪れるまであと数十秒。それまでにできることなど……
一つだけだ。
「ロイク……地面に横になってくれ」
「どうして……」
「いいから早く!」
「分かった」
俺はロイクが横たわるのを確認すると地面に寝そべり、銃身の下に手を添えて彼の背中に乗せる。
「少しの間、死体になった気分で息を止めていてくれ」
「まかせろ!」
全てを察してくれたロイクがウィンクで答えた。
可能性はわずかだがある。
照準を合わせ、呼吸を整える。
狙いは指揮官だ。
覚悟を決めて引き金を引いたが、弾はかなり離れた城壁にぶち当たってしまった。言葉には出さないものの、下にいるロイクから明らかな落胆が伝わる。
だがまだ諦めたわけじゃない。すぐにポケットから薬莢を取り出して再装填を終えると、再び狙いを定めて撃った。
「くそッ!!」
けれどこんどは弾が少し下すぎたのか、指揮官手前の地面で土煙があがる。
もう敵は砲弾を装填し終えた。
状況的には次がラストチャンス。薬莢を噛み切り、火薬と弾を流し込んで装填する。
もう後は運に身を任せるだけだ。
「当たれっぇぇ! 当たってくれぇぇ!!」
祈るような気持ちで引き金を引くと、白煙に視界が遮られたが、煙の切れ間から敵指揮官が糸の切れたマリオネットのように頭から地面に崩れ落ちるのが確認できた。
「やったぜ! さすがはサムだ!」
ロイクが目を輝かせながら俺の方を向く。
それとほぼ同時に背後から大きな歓声と何発もの銃声が聞こえた。それは大勢の民衆が武器を手に門からなだれ込んでくる勝利の叫びであった。
俺たちが奮戦している間に無事、跳ね橋は下ろされたのだ。
血に飢えた民衆の迫力に度肝を抜かれた守備隊は大慌てで要塞の奥へと退却していく。
勝敗は決定的になった。ついにラテリア王国の首都が、完全に民衆の手に落ちる瞬間が訪れたのだ。
後ろから地面を踏みならす音が近づいてくる中、俺は手に持った銃を握りしめて首を傾げる。
「本当に俺の運だったのか……」
しかしそんなつぶやきはすぐに大歓声の中にかき消されしまった。
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守備隊が退却する一部始終を城壁の上から眺めていた男は、構えていたライフル銃を肩に担いだ。
「間違いない……あいつはやっぱり俺と同じだ。いずれまた会おう」
そう言い残して男は夜の闇に消えた。




